詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(147)

2018-12-02 09:53:41 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
147  久留和海岸

 「久留和海岸」がどこにあるか、私は知らない。高橋の住む街の近くなのかもしれない。そう感じさせることばが動いている。

国道からの下り坂の 片方にはそよぐ木群
下りきると 小さいが本当の浜 本当の漁港
曇り空をわずかに輝かせる日没が 確かにあり
走りまわる子ら 漁網をつくろう大人たち
ここにあるのは 本当の日常 本当の人生

 「本当」が何度も繰り返される。「本当」は「確か」ということばで言いなおされている。しかも、それは「確かにあり」という形で動いている。「ある」が実感として書かれている。だからこそ、「本当」ということばを含まない、

曇り空をわずかに輝かせる日没が 確かにあり

 が美しい。「本当」の日没は、晴れ渡った日ではなく「曇り空」でなければならない、という気持ちにさせられる。空だけではなく、雲も光に染まるのだ。久留和海岸へ出かけ、日没を見てみたい。

本当の自分をとり戻すために ときにはここに来よう
そう決心して 来合わせたバスに 跳び乗った
決心を本当の決心にするため 振り返らなかった

 この詩集の高橋は、高橋が老人であることを強調しているが、この詩には老人の匂いがしない。青春の純粋さがある。「本当」をはじめて発見したときの「若さ」が輝いている。「老人( 時間) 」を発見し、「時間 (永遠) 」を夢見る青春の特権。「老い」や「敗北」は常に青春が発見する抒情だ。
 だから「若さ」には「決心」が似合う。「振り返らない」が似合う。見てしまったのだから。「決心」とは、いつでも決して振り返らないものだ。振り返らないことによって「決心」は「本当」になる。同時に「見てしまったもの」が「本当」になる。


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