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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(154 )

2010-12-01 11:11:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(154 )

 「失われたとき」のつづき。

ああほそ長い顔をして
なでしこを一本もつ男は
いまどこにいるだろうか
灰色の海の中へプッ プッ
ほし葡萄の種子をまいている男は
翻訳者の曲つたペンは
永遠に人間の肝臓をつきさしている

 たとえば、この部分の、「なでしこを一本もつ男は」の「一本」とは何だろうか。もちろん意味的には「茎」の一本である。それはわかるが、日本語では花を数えるとき「一本」とはふつうは言わない。「一輪」「二輪」と数える。西脇の数え方は違う。
 そして、何気なく読んでしまっているのだが、それが「灰色の海の中へプッ プッ」という行にきたとき、ふいになつかしく響いてくる。「いっぽん」「プッ」「いっぽん」「プッ プッ」と。あ、あの「一本」は「プッ プッ」という音のための「補助線」だったんだなあ。
 そういう音のつながりに気がつくと、全体がちがってみえてくる。
 「いっぽん(と、あえてひらがなで書いておく)」「プッ プッ」「ペン」とここにはぱひぷぺぽへつながる音がばらまかれている。
 それから「ほそ」長い、「ほし」葡萄、「ほ」ん訳家という「ほ」の響きがある。そして「いまどこにいる」と「まいている」の音の不思議な交錯もある。
 もし翻訳家のペンが「曲つ」ていなかったら、つまり「曲つた」がなかったら、そいペンは、はたして「人間」の「肝臓」をつきさしたかどうかわからない。「まがつた」のなかにある「か(が)行」「っ」という短い音、濁音があるからこそ「にんげんのかんぞう」というスピードがあってか行が響き、濁音も響くという行が自然に呼び込まれるのだと思う。
 ことばには「意味」があり、その「意味」が呼びあうということはもちろん自然なことなのだが、他方に「意味」とは関係なしに、音が音を呼びあうということがある。ことばは、何かしら独自の自律性をもって動いているのである。
 この音の自律性(?)から、いくつもの「外国語」は生まれた--というと、おおげさな仮説になるが、私はなんとなく、そう感じている。「意味」は同じなのに「音」が違うのは、「意味」をつたえるだけでは満足できなくて、ことばの「音」そのものが何かしらのことを伝えようとして変化したにちがいないと感じるのである。
 フランス語、イタリア語、スペイン語--そこには、何か「意味」と同時に「音」の類似性がある。音のイメージは、そういうひとつの「語圏」を超えて、隣接するドイツ語、英語にも響いていく。「黒」という意味の「ノワール」「ネグロ」「ニニグロ」という音には何か深みがあるそして、そこから「黒い」だけではなく「豊かな」という印象もあらわれてくる、という感じである。
 外国語同士でさえそうなのだから、同じ日本語同士なら門といろいろ響きあうにちがいないと思う。

 もちろん西脇のことばには、「意味」、あるいは「視覚」の響きあいもある。「ほし葡萄の種子をまいている男は」は、先に引用した部分に先立って、

死は種子をつづけるだけである

という1行をもっている。「種子」がそっくり繰り返されている。



あざみの衣 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
西脇 順三郎
講談社


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