谷川俊太郎、山田馨『ぼくはこうやって詩を書いてきた』(ナナロク社、2010年07月06日発行)
谷川俊太郎、山田馨『ぼくはこうやって詩を書いてきた』には「谷川俊太郎、詩と人生を語る」というサブタイトルがついている。サブタイトルどおり、谷川が、いつ、どんな状況でその詩を書き、そのときどんな暮らしをしていたかが語られている。
私は「誤読」が大好きな人間だ。詩のことばと詩人の人生を結びつけることは、どうも苦手だ。好き勝手に読み、好き勝手に考えたいので、思い出したようにときどきページをめくっている。そして、とてもおもしろいことばに出会った。
「何ひとつ書く事はない」という有名な1行で始まる「鳥羽」について語っている。(201 ページ)
谷川はここで「散文」と「詩」を定義している。
「散文」は書いたことを踏まえながら事実を積み重ねていく。ひとつの文と次の文の間に「断絶」はない。けれども詩の場合は「断絶」を抱え込んで次の分を続けることができる。--谷川は、そう言っているのだと思う。
この「散文」の定義は、たしかにそのとおりだと思う。特に森鴎外を読んでいると、谷川の書いている以上の定義はない、という気持ちになる。
ところが、実際に文章を書いてみると、必ずしもそうではない。
これは私だけかもしれないが、いま、こうして書いてる文章を「散文」と考えてのことなのだが、「何ひとつ書く事はない」と書いた後でも、私は平気で、その後を書いてしまうのだ。
谷川の「散文」の「定義」、「詩」の「定義」のあと、何ひとつ書く事はない。書くことはないのだけれど、書きたい。--と、私は書いてしまうのだ。
すでに鴎外の例を引いた。さらに石川淳のことも書きつづけることができる。石川淳が絶賛した森鴎外の「渋江抽斎」。この日本の散文の最高傑作(と私は信じている)は、渋江抽斎の評伝なのに、渋江抽斎は3分の1くらいのところで死んでしまう。その後は、何も書くことなどないはずなのに、渋江抽斎の家族のことや何かが書き継がれていく。渋江抽斎からどんどん逸脱していく。そして、逸脱すればするほど、その細部に渋江抽斎が見えてくる。とても不思議な散文である。
私の考えでは、ことばというのは、ただただ逸脱しつづけるものなのだと思う。
だれでも何か書きたいことがあって書きはじめる。しかし、「起承転結」という構想(?)をもって書きはじめても、なかなか思う通りに行かない。まあ、起承転結という具合にきちんとした形のものを「散文のお手本」というのかもしれないけれど、どうして狙いどおりにはことばが動かない。ずれて行ってしまう。逸脱して行ってしまう。
その逸脱したもの--それは、いったい何だろう。
「散文」ではなく、「詩」?
「詩」と考えれば、「散文」の定義自体は完結する。もう何ひとつ書くことはない。
けれど。
鴎外よりもはるかはるか昔のギリシャ。プラトンの書き留めたソクラテス対話篇。これは「散文」の始まりだね。ここから「散文」が始まっているね。(と、私は思っている。)
そこで語られていることば--それをいちいち具体的には引用していけれど、ソクラテスがあることばを「定義」しようとする。そのために一つずつことばを検証する。ことばを厳密に吟味し(定義し)、その上にことばを積み上げることで「真実」(真理)にたどりつこうとする。
けれど、たどりつけない。ソクラテスの「定義」にいちいち反論する誰それがいる。そのたびにソクラテスはせっかく積み上げた論理から逸脱して、またことばを組み立てなおす。そこにあるのは構築というよりも脱構築だ。(あれっ、フランス哲学になってしまうなあ。)そして、最後は、この対話をしているひとたちはみんなばかだ、という結論に達する。このひとたちは、たとえば「愛」とは何か、ということをよく知っているのに(そのやりとりを聞けば、よく知っていることがだれにでもわかるのに)、愛とは何か、「わからない」という結論にしかたどりつけないのだから……。
変でしょ? もしプラトンが書いていることが「散文」であり、ソクラテスの対話が「散文」であるのだとしたら、ことばをひとつひとつ積み上げて、たどりつく果てが「わからない」という結論だとしたら、散文とは「わからない」ということを知るためだけのために苦労してことばを動かすことになってしまう。いったい、人間は何をしている? わけがわからないね。
で、結論。(?)
私は、ことばには「散文」も「詩」もない。ただ、それはことばなのだ、と思うことにしている。そして、ことばというのは、ひたすら逸脱していく。文学だけではなく、政治のことば、法律のことばさえも逸脱していく。逸脱しながら、最初の「定義」を修正しつづける。「定義」を叩きこわしては組み立て直し、また叩きこわす。
きっと、ことばは現実の一面しか表現できないということに原因があるのだと思う。どんなにたくさんことばを費やしてみても、ことばからあふれる現実があり、そのことを誰かが別のことばで言いはじめる。それが「逸脱」だからだ。
ことばは、終わりようがないのだ。それが「散文」であっても。
先のことばにつづけて、谷川は、こう言っている。
「詩」の「定義」になっているのか? よくわからない。--というのは、私は、それについてよく考えたい、吟味してみたい、と思っていないということである。(私は、正直でしょ? こんなことを平気で書いてしまうのだから。)
私は、ここでは谷川の「詩」の「定義」そのものよりも、「自由」ということばにひどくひかれてしまった。
「自由」。ことばは、いつでも「自由」を求めているのだと思う。
たとえば「ばら」ということば。それは実際に目の前にある「ばら」と結びつけられて存在させられる。でも、花びらが複数からみあうようにして開き、美しいと感じられるものその花を「ばら」と呼ぶだけでは、何かつまらないね。それで、ひとは「きみの微笑みはばらだ」とかなんとか言ってしまう。微笑みは顔の表情であって、もちろんばらではない。でも、その微笑みをばらと呼んだ後、きみのなかのばらは枯れてしまった、散ってしまった、いまは棘があるだけだ--なんて言ったりもする。
これ「きみの微笑みをばらだ」という具合に言うこと、つまり、事実から逸脱してことばを動かすということがないかぎりありえなかったことばの運動だね。そして、そのへんてこなことばの動き(谷川の表現を借りれば「インチキ」)があって、初めて見えてくるものがある。
その初めて見えてくるものは、そんなふうにことばを動かさない限りみえてこなかったもの。つまり--、それはことばが作り上げた何かだね。
ことばは、そんなふうにして、何かを作り上げる「自由」をもっている。何かを「自由」に作り上げたがっている。
「自由」であればあるほど、それはきっと「文学」のことばなんだと思う。「逸脱」が「自由」であることの証拠なのだと思う。瞬間的な逸脱ではなく、持続する逸脱、わざとおこなわれる逸脱が文学なのだと思う。
そして、そのとき、「散文」「詩」という区別はないのではないか。ことばの「自由」が「散文」と「詩」の境界線を消してしまうのではないか、と思う。
あ、なんだか、書いていることがほんとうに「逸脱」してしまったかな?
強引に最初のことばにもどると(ちょっと、結論?を書いてみると--さっきも結論と書いたから、これは二つ目の結論になるのかな?)……。谷川のことばに、私のことばを接ぎ木してみようかな。
「ある意味でインチキ」ということは、「別の意味とではインチキではない」ということになるね、きっと。で、その「インチキではない」って何かというとき「自由」の問題があらわれるのだと思う。
(あ、『ぼくはこうやって詩を書いてきた』の全体と、私がきょう書いたことはほとんど関係がありません。私は、ほんの数行だけを取り上げ、そこからどれだけ逸脱していけるか--その「自由」を楽しんでみただけです。私の感想、私の「誤読」はいつでも、そういうものなのだけれど。念のため。)

谷川俊太郎、山田馨『ぼくはこうやって詩を書いてきた』には「谷川俊太郎、詩と人生を語る」というサブタイトルがついている。サブタイトルどおり、谷川が、いつ、どんな状況でその詩を書き、そのときどんな暮らしをしていたかが語られている。
私は「誤読」が大好きな人間だ。詩のことばと詩人の人生を結びつけることは、どうも苦手だ。好き勝手に読み、好き勝手に考えたいので、思い出したようにときどきページをめくっている。そして、とてもおもしろいことばに出会った。
「何ひとつ書く事はない」という有名な1行で始まる「鳥羽」について語っている。(201 ページ)
散文だったらね、「何ひとつ書く事はない」って書いて、その後を書きつないだら嘘になっちゃうんですよ。だけど詩の場合には、「何ひとつ書く事はない」と書いてその後を書いても、成り立つっていうことがあるんだという発見ですね。
谷川はここで「散文」と「詩」を定義している。
「散文」は書いたことを踏まえながら事実を積み重ねていく。ひとつの文と次の文の間に「断絶」はない。けれども詩の場合は「断絶」を抱え込んで次の分を続けることができる。--谷川は、そう言っているのだと思う。
この「散文」の定義は、たしかにそのとおりだと思う。特に森鴎外を読んでいると、谷川の書いている以上の定義はない、という気持ちになる。
ところが、実際に文章を書いてみると、必ずしもそうではない。
これは私だけかもしれないが、いま、こうして書いてる文章を「散文」と考えてのことなのだが、「何ひとつ書く事はない」と書いた後でも、私は平気で、その後を書いてしまうのだ。
谷川の「散文」の「定義」、「詩」の「定義」のあと、何ひとつ書く事はない。書くことはないのだけれど、書きたい。--と、私は書いてしまうのだ。
すでに鴎外の例を引いた。さらに石川淳のことも書きつづけることができる。石川淳が絶賛した森鴎外の「渋江抽斎」。この日本の散文の最高傑作(と私は信じている)は、渋江抽斎の評伝なのに、渋江抽斎は3分の1くらいのところで死んでしまう。その後は、何も書くことなどないはずなのに、渋江抽斎の家族のことや何かが書き継がれていく。渋江抽斎からどんどん逸脱していく。そして、逸脱すればするほど、その細部に渋江抽斎が見えてくる。とても不思議な散文である。
私の考えでは、ことばというのは、ただただ逸脱しつづけるものなのだと思う。
だれでも何か書きたいことがあって書きはじめる。しかし、「起承転結」という構想(?)をもって書きはじめても、なかなか思う通りに行かない。まあ、起承転結という具合にきちんとした形のものを「散文のお手本」というのかもしれないけれど、どうして狙いどおりにはことばが動かない。ずれて行ってしまう。逸脱して行ってしまう。
その逸脱したもの--それは、いったい何だろう。
「散文」ではなく、「詩」?
「詩」と考えれば、「散文」の定義自体は完結する。もう何ひとつ書くことはない。
けれど。
鴎外よりもはるかはるか昔のギリシャ。プラトンの書き留めたソクラテス対話篇。これは「散文」の始まりだね。ここから「散文」が始まっているね。(と、私は思っている。)
そこで語られていることば--それをいちいち具体的には引用していけれど、ソクラテスがあることばを「定義」しようとする。そのために一つずつことばを検証する。ことばを厳密に吟味し(定義し)、その上にことばを積み上げることで「真実」(真理)にたどりつこうとする。
けれど、たどりつけない。ソクラテスの「定義」にいちいち反論する誰それがいる。そのたびにソクラテスはせっかく積み上げた論理から逸脱して、またことばを組み立てなおす。そこにあるのは構築というよりも脱構築だ。(あれっ、フランス哲学になってしまうなあ。)そして、最後は、この対話をしているひとたちはみんなばかだ、という結論に達する。このひとたちは、たとえば「愛」とは何か、ということをよく知っているのに(そのやりとりを聞けば、よく知っていることがだれにでもわかるのに)、愛とは何か、「わからない」という結論にしかたどりつけないのだから……。
変でしょ? もしプラトンが書いていることが「散文」であり、ソクラテスの対話が「散文」であるのだとしたら、ことばをひとつひとつ積み上げて、たどりつく果てが「わからない」という結論だとしたら、散文とは「わからない」ということを知るためだけのために苦労してことばを動かすことになってしまう。いったい、人間は何をしている? わけがわからないね。
で、結論。(?)
私は、ことばには「散文」も「詩」もない。ただ、それはことばなのだ、と思うことにしている。そして、ことばというのは、ひたすら逸脱していく。文学だけではなく、政治のことば、法律のことばさえも逸脱していく。逸脱しながら、最初の「定義」を修正しつづける。「定義」を叩きこわしては組み立て直し、また叩きこわす。
きっと、ことばは現実の一面しか表現できないということに原因があるのだと思う。どんなにたくさんことばを費やしてみても、ことばからあふれる現実があり、そのことを誰かが別のことばで言いはじめる。それが「逸脱」だからだ。
ことばは、終わりようがないのだ。それが「散文」であっても。
先のことばにつづけて、谷川は、こう言っている。
それで後になって思ったのは、そうか、詩っていうのはそういう自由さがあるんだ、ある意味でインチキなんだけど、とね。
「詩」の「定義」になっているのか? よくわからない。--というのは、私は、それについてよく考えたい、吟味してみたい、と思っていないということである。(私は、正直でしょ? こんなことを平気で書いてしまうのだから。)
私は、ここでは谷川の「詩」の「定義」そのものよりも、「自由」ということばにひどくひかれてしまった。
「自由」。ことばは、いつでも「自由」を求めているのだと思う。
たとえば「ばら」ということば。それは実際に目の前にある「ばら」と結びつけられて存在させられる。でも、花びらが複数からみあうようにして開き、美しいと感じられるものその花を「ばら」と呼ぶだけでは、何かつまらないね。それで、ひとは「きみの微笑みはばらだ」とかなんとか言ってしまう。微笑みは顔の表情であって、もちろんばらではない。でも、その微笑みをばらと呼んだ後、きみのなかのばらは枯れてしまった、散ってしまった、いまは棘があるだけだ--なんて言ったりもする。
これ「きみの微笑みをばらだ」という具合に言うこと、つまり、事実から逸脱してことばを動かすということがないかぎりありえなかったことばの運動だね。そして、そのへんてこなことばの動き(谷川の表現を借りれば「インチキ」)があって、初めて見えてくるものがある。
その初めて見えてくるものは、そんなふうにことばを動かさない限りみえてこなかったもの。つまり--、それはことばが作り上げた何かだね。
ことばは、そんなふうにして、何かを作り上げる「自由」をもっている。何かを「自由」に作り上げたがっている。
「自由」であればあるほど、それはきっと「文学」のことばなんだと思う。「逸脱」が「自由」であることの証拠なのだと思う。瞬間的な逸脱ではなく、持続する逸脱、わざとおこなわれる逸脱が文学なのだと思う。
そして、そのとき、「散文」「詩」という区別はないのではないか。ことばの「自由」が「散文」と「詩」の境界線を消してしまうのではないか、と思う。
あ、なんだか、書いていることがほんとうに「逸脱」してしまったかな?
強引に最初のことばにもどると(ちょっと、結論?を書いてみると--さっきも結論と書いたから、これは二つ目の結論になるのかな?)……。谷川のことばに、私のことばを接ぎ木してみようかな。
散文だったらね、「何ひとつ書く事はない」って書いて、その後を書きつないだら嘘になっちゃうんですよ。だけど、その嘘をずーっとつづけていったら、嘘のなかから、嘘でしか言えない何かが「ほんとう」になって、あらわれてきちゃうんですよ。ことばっていうのは、そういう変なことができるんですよ。ある意味でインチキなんだけれど、ね。
「ある意味でインチキ」ということは、「別の意味とではインチキではない」ということになるね、きっと。で、その「インチキではない」って何かというとき「自由」の問題があらわれるのだと思う。
(あ、『ぼくはこうやって詩を書いてきた』の全体と、私がきょう書いたことはほとんど関係がありません。私は、ほんの数行だけを取り上げ、そこからどれだけ逸脱していけるか--その「自由」を楽しんでみただけです。私の感想、私の「誤読」はいつでも、そういうものなのだけれど。念のため。)
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