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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『田村隆一全詩集』を読む(32)

2009-03-22 00:00:38 | 田村隆一
 「破壊された人間のエピソード」も「ことば」を問題としている。

近代日本語はたしかに旅をしたが
その言葉によって造られた人間は
どんな地平線と水平線を見たというのだろう
ぼくらか連れ出された世界は
死者と死語と廃墟にみちていて

 「言葉=人間」と田村は缶が堰堤ル。「言葉によって造られた人間」という表現は、それを端的に語っている。ことばこそが人間である。ことばこそが、その人である。
 この詩を書いている田村は、インドで夜行列車にのっている。車掌がやってきて、ウイスキーをわけてくれ、と言う。そのあと、

ぼくは怖しい話を聞いた 夜汽車を狙う
集団強盗が出没していて乗客から
金や宝石を奪いとると
ピストルを面白がって撃つそうだ
ピストルを撃つ
弾丸が獲物の肉体を貫通する
肉体に穴があいて
赤い血が噴出する
獲物が悲鳴をあげる

それがおもしろくてしようがないのさ
人間が獲物に変身することだって痛快なんだ
あの夜汽車の車掌がウイスキーをもらいにきた意味がやっとわかってきたぞ

 この「車掌がウイスキーをもらいにきた意味」とは何だろう。つづく連に、「夜汽車の車掌が悪夢を見ないために」とあるから、たぶん車掌は列車強盗が襲って来る悪夢から逃れるためにウイスキーをほしがったというのが田村の考えていた「意味」かもしれない。
 けれども、私は違ったことを考えた。
 「人間が獲物に変身することだって痛快なんだ」。「変身」と「痛快」。それが「意味」だと思った。人間は何かになる。何かに変わる。そのことが「痛快」であり「おもしろい」。だとしたら、車掌が田村に「ウイスキーを少しいただけないでしょうか」というとき、車掌は何であり、田村は何であるのか。車掌は乗客にサービスする人間ではなく、田村はサービスを受ける人間ではなくなっている。「変身」している。その「変身」はささやかで、はっきりとは見えないかもしれないけれど、やはり「変身」である。ふたりは車掌-乗客ということばで造られた(そういうことばであらわすことのできる)人間ではなく、「車掌」「乗客」ということばをはぎ取られた人間である。ことばをはぎとられ、つまり、「水平」の回路をはぎ取られ、それぞれが垂直の方向に洗い直された人間である。それが「痛快」である。--その「痛快」を車掌は求めていた。そして、田村はそれに答えた。「乗客」としてではなく、洗い直された人間として。
 この瞬間が、旅なのである。この旅の瞬間、田村は「死者」と向き合っていない。「死語」をかわしていない。もちろん「廃墟」のなかにいるわけでもない。

 詩は、次のようにおわる。

電話のベルが鳴り
長い長いサナダ虫のような電話線で
人間は
人間の言葉で
喋っているが

おたがいに理解しあったためしがないじゃないか
誤解に誤解をかさねて
ぼくらは暗黒の世界から生れ
暗黒の世界へ帰って行くのさ
一条の光り
その光りの極小の世界で
歩きつづけている
ぼくらの
奇妙で
滑稽で
盲目の
旅の

エピソード

 田村は、インドの夜汽車でウイスキーを分けてくれと言う車掌に会った。そのとき、たしかに「旅」をした--そう田村は、言うのである。



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