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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『田村隆一全詩集』を読む(16)

2009-03-06 00:42:23 | 田村隆一
 「恐怖の研究」は「10」という章からはじまり「0」へと進む。書かれている順に読んでもいいし、逆に番号順に読んでもいいのかもしれない。読者に、その判断をまかせている。詩とは意味ではないからだ。ことばが喚起するイメージでもない。詩とは、ことばが誘い出すことばの運動である。運動であること、動き回ること、どんな動きでもしていい、ということが詩なのである。
 たとえば……。

だれかが入つてくる
あるいは
だれかが出て行く
乱暴な音をたててドアがあき
窓が開く
死んだふりをしていた心があらわれる
なめらかな皮膚の下に
乳色の河流は血の色にかわり
床からピンがはねあがる
ネガの世界は崩壊する
光りがごくわずか入つたでけで
いかなる近代都市も粉砕されてしまう
意味がほんのすこし入つてきただけで
ああ
きみの好きな絵描きにきいてごらん
どんな葡萄酒がみえてくるか

 これは実は書き出しの「10」の部分を、最後から逆に引用したものである。どうです? 田村の詩そのものでしょ? 詩のことばは便宜上、1行目から最後の行へと動いていくけれど、そのとき私は順番に田村のことばどおりにそのことばを追いかけてはいない。
 読んだことばが順序をかえながら私の肉体のなかで反響する。私はそのことばの過激な運動を、私の理解できる範囲で追いかけているだけである。誤読しているだけである。誤読できる喜びでことばを追いかけているにすぎない。
 なぜ、こんなことが可能なのか。(こんな読み方をして遊んでいるのは私だけかもしれないけれど。)それが可能なのは、詩の1行というのは、1行で独立しているからだ。他の行の影響はあっても、1行として独立している。独立して、誤読されるのを待っている。他の行と関連づけて読むと、「意味」はある程度限定(特定)できるが、詩は「意味」を追いかけて読んでほしいとは願っていない。「意味」ではなく、あることば、ある1行をたよりに、いま、ここではないどこかへ、世界を超越したどこかへ行く踏み台となることを願っている。詩は、つまり、いま、ここではないどこかへと飛翔して行くためのことばなのだ。
 詩にとって、ことばとは「順不同」のものなのである。
 なぜなら、詩とは、矛盾であり、破壊であり、混沌であり、生成だからだ。その複数の運動には順序がない。生成したものが矛盾し、混沌の世界になり、それを破壊するという運動があってもいいし、あるものを破壊したら、隠れていた矛盾があらわれ(矛盾が生成し)、混沌としたものになってしまってもいいのだ。
 ことばの「順不同」のひとかたりが、そのかたまりのまま動いていく--それが詩である、といえるかもしれない。

 この作品には、一種の繰り返しが多く登場する。

かれらを復活させるために
どんな祭式が
どんな群衆が
どんな権力が
どんな裏切りが
どんな教義が
どんな空が
どんな地平があるというのか    (「9」の部分)

塔へ
城塞へ
館へ
かれらは殺到する
かれらは咆哮する
かれらは略奪する
かれらは凌辱する
かれらは放火する
かれらは表現する          (「7」の部分)

 この複数の行は、みな対等である。「祭式」「群衆」「権力」と重要な順序にことばが並んでいるわけでも、また重要ではない順序で並んでいるのでもない。それは、互いのことばを破壊して自己主張しているのだ。秩序はなく、そこには無差別の平等がある。どのことばも、詩のなかでは平等であり、自由である。ことばが、そういう平等・自由になる瞬間として、詩というものが存在するのである。
 試してみるといい。最初に私がこころみたことを、「7」の部分で試してみると、よくわかる。

かれらは表現する
かれらは放火する
かれらは凌辱する
かれらは略奪する
かれらは咆哮する
かれらは殺到する
館へ
城塞へ
塔へ

 「倒置法」で書かれた「7」の後半は、もっと自然に、もっと無差別に、もっと自由に逆流するかもしれない。試してみよう。

偽善を弾圧するもつとも偽善的な芸術運動を
露悪的なマニフェストを
危険な直喩を
独創的な暗喩を
増殖するイメジを
白熱のリズムを
かれらはあらゆる芸術上の領域を表現する

 この7行を、田村の作品を読んだことのない人(ただし、現代詩をよんだことのある人)に読ませたとき、その人は、この引用が、終わりから逆に引用したものだと気づくだろうか。たぶん、気がつかない。
 詩のことばは、特に「現代詩」のことばは、そんなふうに、無秩序・無差別・平等・自由な運動のことばなのである。運動していれば、それで「現代詩」のことばなのだ。
 田村の、この作品は、そのことをとても雄弁に語っている。



 こうした過激なことばの運動に魅了される一方、私は次のような部分にもこころがふるえてしまう。「5」の部分。

ふるえる翼
ふるえる舌
大病院の裏庭で
ぼくは野鳩の桃色の脚を見た
ふるえる舌
裂ける舌
信州上川路の開善寺の境内で
ぼくは一匹の純粋な青い蛇を見た
ふるえる舌
美しい舌
秋風の六里ヶ原で
ぼくは桜岩観音に出会つた

 このことばの美しさ。特に「野鳩の桃色の脚」という肉眼の強さにとてもひかれる。強い視力があって、はじめて現象の奥へとことばを自由に解き放つことができるのだ。
       

ワインレッドの夏至―田村隆一詩集
田村 隆一
集英社

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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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田村隆一全詩集を読む(16) (大井川賢治)
2024-03-07 17:28:06
面白い章である。その評論でーーー
谷内さんの言葉。/詩はつまり、いま、ここではない、どこかへと飛翔して行くためのことばなのだ/。
あるいは、
/強い視力があって、はじめて現象の奥へとことばを自由に解き放つことができるのだ/。
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