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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(97)

2014-06-27 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(97)          2014年06月27日(金曜日)

 「ここに始まる」は、カヴァフィスの得意な男色の詩。許されない愛の夜をすごした二人が、朝、ひと目を忍んで宿から街へ出る。ふたりを見れば「さっき どういうたぐいの寝床を共にしたかが」他人にわかるだろうと思いながら。そういう描写のあとに、

だが、詩人の人生には何たる貢献。
明日か明後日か、何年のちか、いつの日か、
詩人は、今ここに始まる力強い詩の
何行かに現実の声を与えるはずだ。

 このカヴァフィスの感想には、おもしろい点がふたつある。
 ひとつは「明日か明後日か、何年のちか、いつの日か、」という「時間」の区別のなさ。「明日」と「何年のち」は「時間」的にはまったく違う。「きょう」を基準に言うと、「明日」は近いし、「何年かのち」は遠い。でも、思い出す人間にとっては、「過去」はいつでも「すぐ近く」にある。どんなに遠いところにある時間でも、思い出すときはすぐそばにある。「そば」というよりも「肉体の内部」(隔たりのないところ)にある。
 「いつの日か」という「特定」できないことでさえ、ひとは、それを思い出すことができる。明日か、明後日か、何年のちか、あるいは、いつの日か。
 そのとき、何が起きるのか。「詩」という「事件」が起きる。「いま」語ることばのなかに、「過去」が「いま」よりもあざやかにあらわれる。「いま」を「過去」に変えてしまって、ことばが感覚をひっかきまわす。いや「過去」が「いま」を突き破って、時間を「未来」へと押し進める。
 で、そのことばをカヴァフィスは「ことば」とは言わずに「声」と書いている。これがおもしろい点のふたつめ。カヴァフィスは、いつも「声」を聞いている。「声」がカヴァフィスには聞こえてしまうのだろう。
 引用が逆になるが、詩の冒頭にもどってみる。

ふたりはゆるされぬ愛を満たした。
起きて、素早く服を着けた、ものも言わずに。

 「ものも言わずに」とあるが、「耳」は聞いてしまっている。相手が何を言ったかを。また、相手が何を聞いているか、つまり自分の無言の声さえも聞いている。互いが「聞こえている」からこそ、「ものも言わずに」動く。
 それから通りに出て、ふたりを見つめる誰かの、やはり実際には口に出されなかった「声」を聞いてしまう。ふたりを見つめる誰かが隠れているときさえ、ふたりは見つめるひとの「声」を聞いてしまう。
 それは、自分の「肉体」の内部から聞こえてくる声と絡み合ってひとつになっている。だからこそ「ものも言わずに」いる。「ものが言えず」にいる。言ってしまえば、それが「現実の声」になる。



中井久夫の訳詩『リッツォス詩選集』が発行されます。
20年ぶりの訳詩の出版です。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

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