誰も書かなかった西脇順三郎(157 )
「失われたとき」のつづき。
「葦」のあとの行をどう読むのだろう。「鴫が鳴くわ/芒の穂にほれる/野薔薇の棘でスネをひっかいたっけ」と読んでいいのだろうか。音にしていいのだろうか。
濁音混じりの「音」にしてしまうと「さまよう」「ただよう」という感じがしなくなる。「意味」から「意味」を剥奪して、「意味」にならないようにことばを動かしている。
このとき。
私は、ふと、思うのである。表記から濁音を省く--それでも、そのことばの思い描いているものが垣間見える。それはなぜだろう。
ことばには音がある。そして、ことばはその音のなかにリズムももっている。音そのものがかわっても、リズムがそのままのとき、そのリズムからもことばがよみがえる。
さまよう、ただよう、とは、そういうリズムそのものに身をまかせることなのかもしれない。
この引用部分に先立って、次の行がある。
「呼吸の音」。ことばは、結局、呼吸の音ということかもしれない。「はてしなく……」からつづく「の」の連結によることばの動き。そこにあるのは、「意味」ではもちろんないのだが、もしかすると「音楽」さえ拒絶した「音楽」かもしれない。「音楽」以前の「呼吸の音」なのかもしれない。
「呼吸」に声がまじるとことばになる。ことばから「意味」があらわれる。
逆に、ことばから「意味」をとると、声になる。声から濁音をとると--呼吸になる。「永遠」は「呼吸」のなかにある。その「呼吸」を確立するのが西脇の夢かもしれない。

「失われたとき」のつづき。
ねむりは永遠にさまようサフサフ
永遠にふれてまたさまよう
くいながよぶ
葦
しきかなくわ
すすきのほにほれる
のはらのとけてすねをひつかいたつけ
クルヘのモテルになつたつけ
すきなやつくしをつんたわ
しほひかりにも……
あす あす ちやちやふ
あす
あ
セササランセサランセサラン
永遠はただよう
「葦」のあとの行をどう読むのだろう。「鴫が鳴くわ/芒の穂にほれる/野薔薇の棘でスネをひっかいたっけ」と読んでいいのだろうか。音にしていいのだろうか。
濁音混じりの「音」にしてしまうと「さまよう」「ただよう」という感じがしなくなる。「意味」から「意味」を剥奪して、「意味」にならないようにことばを動かしている。
このとき。
私は、ふと、思うのである。表記から濁音を省く--それでも、そのことばの思い描いているものが垣間見える。それはなぜだろう。
ことばには音がある。そして、ことばはその音のなかにリズムももっている。音そのものがかわっても、リズムがそのままのとき、そのリズムからもことばがよみがえる。
さまよう、ただよう、とは、そういうリズムそのものに身をまかせることなのかもしれない。
この引用部分に先立って、次の行がある。
潮の氾濫の永遠の中に
ただよう月の光りの中に
シギの鳴く音も
葦の中に吹く風も
みな自分の呼吸の音になる
はてしなくただようこのねむりは
はてしなくただよう盃のめぐりの
アイアイのさざ波の貝殻のきらめきの
沖の石のさざれ石の涙のさざえの
せせらぎのあしの葉の思いの睡蓮の
ささやきのぬれ苔のアユのささやきの
ぬれごとのぬめりのヴェニスのラスキン
の潮のいそぎんちゃくのあわびの
「呼吸の音」。ことばは、結局、呼吸の音ということかもしれない。「はてしなく……」からつづく「の」の連結によることばの動き。そこにあるのは、「意味」ではもちろんないのだが、もしかすると「音楽」さえ拒絶した「音楽」かもしれない。「音楽」以前の「呼吸の音」なのかもしれない。
「呼吸」に声がまじるとことばになる。ことばから「意味」があらわれる。
逆に、ことばから「意味」をとると、声になる。声から濁音をとると--呼吸になる。「永遠」は「呼吸」のなかにある。その「呼吸」を確立するのが西脇の夢かもしれない。
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