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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「心よ」

2010-12-07 18:56:42 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「心よ」(「朝日新聞」2010年12月06日夕刊)

谷川俊太郎「心よ」は「意味」で書かれているが、その「意味」が「意味」を超える。だから「意味」を忘れて、ほーっと息を漏らしてしまう。

心よ
一瞬もじっとしていない心よ
どうすればおまえを
言葉でつかまえられるのか
滴り流れ淀(よど)み渦巻く水の比喩(ひゆ)も
照り曇り閃(ひらめ)き翳(かげ)る光の比喩も
おまえを標本のように留めてしまう

 移り変わる心。ことばでつかまえる。「心」が「心」ということばではなく、別のことば「比喩」として書かれる。そうすると、「心」はことば(比喩)のなかに閉じ込められ、留められる。そうのとき、「心」は動いていない。その「心」は最初の定義「一瞬もじっとしていない心よ」に矛盾してしまう。動いていない「心」は「心」ではない。
 「どうすればおまえを/言葉でつかまえられるのか」という疑問だけが残る。動くものをつかまえ、そのまま動くものとして存在させる。
 そんなことを考えながら読みつづけると・・・。

音楽ですらまどろこしい変幻自在
心は私の私有ではない
私が心の宇宙に生きているのだ
光速で地獄極楽を行き来して
おまえは私を支配する
残酷で恵み深い
心よ

 「心は私の私有ではない」。ここに書かれているには「意味」だが、「意味」を超越している。ことばを論理として追い掛け、その意味するところは理解できる。だが、それは「疑問」を呼び覚ます「意味」(答え)であって、ふつう私たちが感じている「意味」ではない。こういうことを指して、私は「意味」を超越している、という。
 言い直すと・・・。
 「心は私の私有ではない」。では、だれのもの? 即座にその疑問が浮かぶ。「心」を恋人の「心」と読みかえるなら、「心は私の私有ではない」は「正しい意味」だが、ここに書かれている「心」はあくまで自分の「心」である。「私の心」なのに、「私有ではない」とはどういうことだろう。

私が心の宇宙に生きているのだ

 これは「心は私の私有ではない」を借りて言い直せば「私は心の私有物である」という「意味」になると思うが、その「私有」が「宇宙」という「比喩」のなかで、また「意味」を超越してしまう。「私有」という「意味」を、私は「宇宙」から感じられない。「宇宙」はむしろ「私有」の対極にあるもの、ぜったい「所有」できないもの、「私」をはるかに超越した存在だからである。
 この瞬間。
 私は「心」を忘れてしまう。「意味」を追うことを忘れてしまう。そして、これが一番不思議なことなのだが、この詩を書いているのが谷川俊太郎であるということ、いま読んでいるものが谷川俊太郎の書いたことばであるということを忘れてしまう。
 私自身が、突然、宇宙に放り出されたようが気がするのだ。
 「心の宇宙」ではなく、あくまで「宇宙」そのもののなかに、ぽーんと放り出されたように感じるのだ。
 あ、この感じ――これが、「心」というもの?

光速で地獄極楽を行き来して
おまえは私を支配する
残酷で恵み深い
心よ

 「光速」ということばは「宇宙」(光年)と関連しているかもしれない。
 でも、この部分も複雑だなあ。「意味」にしばられていると、わけがわからなくなる。「心の宇宙を生きている」とは「心の中を生きている」ということになると思うが、そのなかで生きている私は動かず、あくまで動くのは「心」である。
 うーん。
 「宇宙」が「光速で地獄極楽を行き来して/おまえ(心)は私を支配する」。
 「心」の大きさが消えてしまう。大きさを何で測っていいいのかわからない。そんな大きさのわからないものが、けれど、はっきり、いま、ここにある。

残酷で恵み深い
谷川俊太郎よ
ことばよ
詩よ




二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
谷川 俊太郎
集英社

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