小林坩堝「骨」、たかとう匡子「その音に閉じ込められて」、手塚敦史「(おやすみの先の、詩篇)」(「現代詩手帖」2014年12月号)
小林坩堝「骨」(初出「東京新聞」2月22日)は何を書いてあるのだろう。
生をまっとうしたひとの骨のことを書いているのか。その人を悼んでいるのか。「時間いっぱいまで伸びきった骨」は、まだ成長過程の骨(肉体)を感じさせて、とても美しい。けれど、その直前の「担保された」が、私には、よくわからない。
小林は日常的にこういうことばをつかうのだろうか。私は政治家の口調を思い出してぎょっとする。「意味」の経済学が働きすぎている。詩は「意味」から遠いもの、「意味」を壊していくのもだと信じている。私はロマンチストなのである。
で、そのロマンチストの私から見ると、
これは甘すぎる。昔の歌謡曲みたい。「帆をはって/凍てつく海の奥の奥のほうへ」というのは「パイプくわえて/口笛吹けば」みたい。不可能ではないだろうけれど。白い骨、白く凍てつく海、その奥にある白い氷という具合に白が連鎖しているのだろうけれど。「のに そんな そんなこと」はことばのリズムに酔っている演歌みたいだなあ。
「為の/その為だけの」の繰り返しも、小林の「愉悦」は感じるけれど、その「愉悦」がどんなものなのかはわからない。肉声で聞けば、その声がわかるかもしれないけれど、文字で読むと、ひとりで快感におぼれている感じがして、醒めてしまう。「シイツ」という表記にも「酔い」を感じる。ロマンチストの私は、でも、こういう「酔い」にはなじめない。ロマンチストだから、他人が「酔う」と酔えなくなってしまう。。
*
たかとう匡子「その音に閉じ込められて」(初出「風の音」5、2月)は、どこから聞こえてくるのかわからない音について書いている。音が聞こえてくるのだが、何のことかわからないので、その音に閉じ込められている(とらえられている)感じがする、ということか……。
「荒れ放題の猫じゃらし」「時間」「意識/無意識」という自然と概念が交錯しながら「目蓋」「鼻孔」という「肉体」とぶつかる。「肉体」のなかに、美しい自然(荒々しい自然)と制御しきれない概念がぶつかり、それが「音」になって聞こえるということなのだろうか。
一篇ではわからないが、詩集になったときに形になる何かがあるのかな?
*
手塚敦史「(おやすみの先の、詩篇)」(初出『おやすみの先の、詩篇』2月)は詩集の感想を書いたと思うけれど……。そのときは違う詩を取り上げたかもしれないが。
小林は読点「、」は書いているが句点「。」はつかっていない。また読点のほかに「1字空白」をつかって文字を読みやすくさせている。かるい息継ぎはあるが、ことばを「文章」として独立させるということを避けているように思える。「持続」を重視しているのかもしれない。
「持続」にはいくつもの種類がある。
「目をつむると、周辺の闇は瞳孔をひらき、」というのは一種の「矛盾」。目をつむれば、周辺の闇がどういう状態か見えない。その見えないものを想像力で存在させている。「つむる」と「ひらく」という、目にとっては反対の動き(動詞)が、その矛盾を結合させる。同じ「目」を主語とする「動詞」が「目(肉体)」のなかで絡み合う。「肉体」が新しく目覚める。こういうことばの動きは、私は好きである。
「湧き出る水のせせらぎと、はるか彼方へ過ぎてしまった木々の涙とを、ゆらす」には、「湧き出る」と「過ぎる」という「動詞」がある。「持続」を中心から遠方へと拡大する動きがある。そしてそれは単なる拡大(拡張)ではなく、「ゆらす」という「動詞」といっしょにある。一直線の拡大/拡張を否定する。これも「矛盾」のひとつか。
こういうことを「句点」(完全なる切断)を拒んだ形で動かしていく。そうして、
次々にことばを「縺れ合わせる」。これは別種の「接続」。「脈絡」は関係がない。「脈絡」というのは「整然としたつながり(接続)」のことだが、句点という完全な「切断」がないとき、そこには「接続」も意識されることはない。「接続」という意識がないから「もつれる」のである。何かを切断しないことには接続は完結しない。切断と接続はひとつのセットである。「接続」も切断(何かを選択して切り離す)のひとつなのに、それがおこなわれていないから「縺れる」。
で、そういう「縺れ合い」の象徴が「孤悲びと」という奇妙なことば。
それは手塚に言わせれば「飛散する光の条」のような強烈なインスピレーションということになるのかもしれない。手塚の「選択(切断)」を超越したことばの「縺れ合い」が生み出した「事実」。つまり「詩」。
「縺れ合い」が激しくなって、それが「結晶」のように固くなってのかもしれない。
それはそれで、「思想(肉体)」のありかたとしてわかるけれど。わかったつもりになるけれど……。
手塚がさらにどんなセンチメンタルなことばを生み出すのかわからないが、私は、こういう「文字」に頼ったことばは好きになれない。私は詩を音読するわけではないが、ことばは「音」だと思っている。「文字」はことばではない、と感じている。
単なる「好み」の違いと言われればそれまでだが、私は「好み」を捨てられない。
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小林坩堝「骨」(初出「東京新聞」2月22日)は何を書いてあるのだろう。
おまえの白い骨
あらかじめあたりまえに担保された死の
時間いっぱいまで伸びきった骨
生をまっとうしたひとの骨のことを書いているのか。その人を悼んでいるのか。「時間いっぱいまで伸びきった骨」は、まだ成長過程の骨(肉体)を感じさせて、とても美しい。けれど、その直前の「担保された」が、私には、よくわからない。
小林は日常的にこういうことばをつかうのだろうか。私は政治家の口調を思い出してぎょっとする。「意味」の経済学が働きすぎている。詩は「意味」から遠いもの、「意味」を壊していくのもだと信じている。私はロマンチストなのである。
で、そのロマンチストの私から見ると、
あゝ
帆をはって
凍てつく海の奥の奥のほうへ
ふたりで逃げても
よかった
おまえのぶんを
生きることなど出来はしない
のに そんな そんなこと
霧笛…………、
これは甘すぎる。昔の歌謡曲みたい。「帆をはって/凍てつく海の奥の奥のほうへ」というのは「パイプくわえて/口笛吹けば」みたい。不可能ではないだろうけれど。白い骨、白く凍てつく海、その奥にある白い氷という具合に白が連鎖しているのだろうけれど。「のに そんな そんなこと」はことばのリズムに酔っている演歌みたいだなあ。
ひるがえるシイツの白さ
あけっぱなしにしておく為の
その為だけの
欠落が
ある
「為の/その為だけの」の繰り返しも、小林の「愉悦」は感じるけれど、その「愉悦」がどんなものなのかはわからない。肉声で聞けば、その声がわかるかもしれないけれど、文字で読むと、ひとりで快感におぼれている感じがして、醒めてしまう。「シイツ」という表記にも「酔い」を感じる。ロマンチストの私は、でも、こういう「酔い」にはなじめない。ロマンチストだから、他人が「酔う」と酔えなくなってしまう。。
*
たかとう匡子「その音に閉じ込められて」(初出「風の音」5、2月)は、どこから聞こえてくるのかわからない音について書いている。音が聞こえてくるのだが、何のことかわからないので、その音に閉じ込められている(とらえられている)感じがする、ということか……。
においも厚みもない
荒れ放題の猫じゃらし
時間が音立てて裂け目のむこうにこぼれていった
意識と無意識のあいだに立つ紙でできた木の幹にはさまれたまま
いったい私は何者なの?
いつだって水辺によって切断されている
ここが目蓋
そこが鼻孔
と言ったってまたしても聞こえてくる
奇異としか言いようのない途切れがちの空の空
「荒れ放題の猫じゃらし」「時間」「意識/無意識」という自然と概念が交錯しながら「目蓋」「鼻孔」という「肉体」とぶつかる。「肉体」のなかに、美しい自然(荒々しい自然)と制御しきれない概念がぶつかり、それが「音」になって聞こえるということなのだろうか。
一篇ではわからないが、詩集になったときに形になる何かがあるのかな?
*
手塚敦史「(おやすみの先の、詩篇)」(初出『おやすみの先の、詩篇』2月)は詩集の感想を書いたと思うけれど……。そのときは違う詩を取り上げたかもしれないが。
目をつむると、周辺の闇は瞳孔をひらき、
のり越えなければならなかった視界は 暗碧の底にしずみ、
湧き出る水のせせらぎと、はるか彼方へ過ぎてしまった木々の涙とを、ゆらす
熱望のうちにも、日輪は 小さくなろうとする体内から、徐々に耀きわたってゆくのがわかる
小林は読点「、」は書いているが句点「。」はつかっていない。また読点のほかに「1字空白」をつかって文字を読みやすくさせている。かるい息継ぎはあるが、ことばを「文章」として独立させるということを避けているように思える。「持続」を重視しているのかもしれない。
「持続」にはいくつもの種類がある。
「目をつむると、周辺の闇は瞳孔をひらき、」というのは一種の「矛盾」。目をつむれば、周辺の闇がどういう状態か見えない。その見えないものを想像力で存在させている。「つむる」と「ひらく」という、目にとっては反対の動き(動詞)が、その矛盾を結合させる。同じ「目」を主語とする「動詞」が「目(肉体)」のなかで絡み合う。「肉体」が新しく目覚める。こういうことばの動きは、私は好きである。
「湧き出る水のせせらぎと、はるか彼方へ過ぎてしまった木々の涙とを、ゆらす」には、「湧き出る」と「過ぎる」という「動詞」がある。「持続」を中心から遠方へと拡大する動きがある。そしてそれは単なる拡大(拡張)ではなく、「ゆらす」という「動詞」といっしょにある。一直線の拡大/拡張を否定する。これも「矛盾」のひとつか。
こういうことを「句点」(完全なる切断)を拒んだ形で動かしていく。そうして、
飛散する光の条(すじ)-- ここではりんかくに混じるのも、りんかくを跨ぐのも、お手のもの
あの孤悲(こい)びとのいた方角を見上げ、左右の隙間を大きく侵蝕して行きながら
脈絡のない物事のうちを漂い、縺れ合っていった
次々にことばを「縺れ合わせる」。これは別種の「接続」。「脈絡」は関係がない。「脈絡」というのは「整然としたつながり(接続)」のことだが、句点という完全な「切断」がないとき、そこには「接続」も意識されることはない。「接続」という意識がないから「もつれる」のである。何かを切断しないことには接続は完結しない。切断と接続はひとつのセットである。「接続」も切断(何かを選択して切り離す)のひとつなのに、それがおこなわれていないから「縺れる」。
で、そういう「縺れ合い」の象徴が「孤悲びと」という奇妙なことば。
それは手塚に言わせれば「飛散する光の条」のような強烈なインスピレーションということになるのかもしれない。手塚の「選択(切断)」を超越したことばの「縺れ合い」が生み出した「事実」。つまり「詩」。
「縺れ合い」が激しくなって、それが「結晶」のように固くなってのかもしれない。
それはそれで、「思想(肉体)」のありかたとしてわかるけれど。わかったつもりになるけれど……。
手塚がさらにどんなセンチメンタルなことばを生み出すのかわからないが、私は、こういう「文字」に頼ったことばは好きになれない。私は詩を音読するわけではないが、ことばは「音」だと思っている。「文字」はことばではない、と感じている。
単なる「好み」の違いと言われればそれまでだが、私は「好み」を捨てられない。
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購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
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