中森美方「春潮の喜び」、野村喜和夫「わが生涯」、藤富保男「向こう岸」(「現代詩手帖」2014年12月号)
中森美方「春潮の喜び」(初出『幻の犬』2014年10月)は、「わたし」が海辺の、生まれ育った土地へ帰ったときのことを書いている。
この最終連だけを読むと、「わたし」は空虚だ。けれど、その空虚を古里の春の潮が充たしてくれるので、喜びがわいてくる。古里の海はやさしい、という感じに読めないこともないのだが、「空虚」がどういうものか、中森のことばからは伝わってこないので、こころもとない。
この直前の連には「人々の姿は消え小屋は失われ」という古里の状況が書かれているが、だから空虚?
でも、さらにその前の連には「むこうからひとりの老婦が近づいてくる(略) その人はわたしの母のようでもあり祖母のようでもあり まったく他人のようでもある つまり すべての人のひとりだ」という行が書かれている。「地霊の化身に違いない」とも。
私は「地霊」というものなど見たことも感じたこともないので、よくわからないのだが、そういうものを見たり感じたりするとき、それでもそのひとは「空虚」なのだろうか。「すべての人のひとり」を、それが「幻」であれ、見るとき、その人は「空虚」なのだろうか。それは、「わたし」の「空虚」を埋める「春潮」と、どう違うのか。なぜ「地霊」を感じたとき、「空虚なわたしは喜びに充たされた」とならなかったのか。
詩は「論理」ではないが、中森のこの詩には「論理」というものがない。
「すべての人のひとり」である「老婦」を見たのなら、そのとき「わたしはわたしに会いにき」て、そして「会っている」。会ったあとで、目を閉じて、その老婦を消している。そういう「殺人(自分殺し/自殺)」をしたあとで「もうどこにもわたしはいないことを確認する」、つまり「空虚」だと言われても、それは中森の行為が招いた必然に過ぎない。そういう必然の空虚を春の潮が充たしてくれる--なんて書かれては、ばかばかしいロマンチシズムに腹が立つだけである。
*
野村喜和夫「わが生涯」(初出「びーぐる」25、2014年10月)。この詩では、野村は、那珂太郎をやっている。
これはソネットの3連目。「ひと肌のひくみ」が、私は、特に気に入った。「ひくみ」は「下ネタ」の「下」につながる「ひくみ」。この上品ぶった下品がとてもいい。「ひと肌」と「ひくみ」で「ひとそろい」、だね。
次の行の「呪符……さえ」「驟雨添え」の音の揺らぎもおもしろい。さらに末尾の「添え」が行わたりして、「添え/ない」とつながるところが楽しい。
あ、「人肌のひくみ」に「添えない」蛇(ペニス?)だったのか。残念だね。
「海ひとつまみ」「ウニ人妻み」というのはだじゃれになってしまっていて、私は好きではないのだが、
とあくまで音で遊ぶなら、それはそれで楽しい。「ひた走る」「襞ばしる」って、何やら「人妻」の「襞」を大急ぎで愛撫しているようでおかしい。「そんなにひっかかないで」「いや、これは皮下掻きアート(皮/肌の下=内部、奥を掻くアート=芸術)なんだ」とくだらないいさかいをしているようで笑い出してしまう。
「だじゃれ」というのは「論理」的だからばかばかしい。
那珂太郎には、こういう「すけべ根性」のような遊びがなかったなあ、上品すぎたなあ、それが残念だなあと、なつかしく思い出してしまう。
私は「だじゃれ」は好きになれないのだが(ふたつの「意味」を掻き混ぜるというのがめんどうくさい)、野村の人目をはばからない「下品」な肉体感覚、それを音にしていく強さは好きだなあ。「頭」をつかって音を探しているのに、その「頭」を「すけべ」で隠す--その「頭」に対する恥じらいのようなものが、とても「かわいい」と思ってしまう。純真なすけべというのは「常識」からすると「矛盾」なのだが、矛盾だからそこに野村の「肉体(思想)」が噴出してきていて、それが楽しい。
*
藤富保男「向こう岸」(初出『一壷天』2014年10月)。「霊岸あるいは黄泉の国の様子を知らしめよ」と言って、「打出の小槌」を振る。そうすると、暗闇のなかに幹線道路がつづいているのが見えてきた。両側に、
そのあと、理髪店の三色棒(サイン・ポール)についての蘊蓄が書かれていて、それがいわば「起承転結」の「転」のような働きをしたあとの「結」。
私は笑い出してしまった。私は藤富保男と会ったことがあるわけではないのだが、頭の毛が少ないのは写真で知っている。その「頭」を思い出したのである。
「打出の小槌」というような「嘘」を書きながら、最後に「ほんとう」を書いて、「嘘」を「ほんとう」にしてしまう。「理髪店」ということばを何度も何度も書いて、それが潜在意識として定着していると、自分自身を笑ってみせる。
そうか、ユーモアとは自分を笑ってみせる余裕のことか。
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中森美方「春潮の喜び」(初出『幻の犬』2014年10月)は、「わたし」が海辺の、生まれ育った土地へ帰ったときのことを書いている。
わたしはわたしに会いに来た しかし もうどこにもわ
たしはいないことを確認する 今のわたしはわたしでさえ
ない何者かだ 生きるということでわたしはわたしを失っ
たのだろうか 春潮はわたしの内部まで満ちてきている
わたしは春潮の一部となって揺れ動く 空虚なわたしは喜
びに充たされる
この最終連だけを読むと、「わたし」は空虚だ。けれど、その空虚を古里の春の潮が充たしてくれるので、喜びがわいてくる。古里の海はやさしい、という感じに読めないこともないのだが、「空虚」がどういうものか、中森のことばからは伝わってこないので、こころもとない。
この直前の連には「人々の姿は消え小屋は失われ」という古里の状況が書かれているが、だから空虚?
でも、さらにその前の連には「むこうからひとりの老婦が近づいてくる(略) その人はわたしの母のようでもあり祖母のようでもあり まったく他人のようでもある つまり すべての人のひとりだ」という行が書かれている。「地霊の化身に違いない」とも。
私は「地霊」というものなど見たことも感じたこともないので、よくわからないのだが、そういうものを見たり感じたりするとき、それでもそのひとは「空虚」なのだろうか。「すべての人のひとり」を、それが「幻」であれ、見るとき、その人は「空虚」なのだろうか。それは、「わたし」の「空虚」を埋める「春潮」と、どう違うのか。なぜ「地霊」を感じたとき、「空虚なわたしは喜びに充たされた」とならなかったのか。
詩は「論理」ではないが、中森のこの詩には「論理」というものがない。
「すべての人のひとり」である「老婦」を見たのなら、そのとき「わたしはわたしに会いにき」て、そして「会っている」。会ったあとで、目を閉じて、その老婦を消している。そういう「殺人(自分殺し/自殺)」をしたあとで「もうどこにもわたしはいないことを確認する」、つまり「空虚」だと言われても、それは中森の行為が招いた必然に過ぎない。そういう必然の空虚を春の潮が充たしてくれる--なんて書かれては、ばかばかしいロマンチシズムに腹が立つだけである。
*
野村喜和夫「わが生涯」(初出「びーぐる」25、2014年10月)。この詩では、野村は、那珂太郎をやっている。
ひと肌のひくみとか瑠璃色の旗ひとそろいとか
うすいひかりの呪符ひとひらにさえ驟雨添え
ない蛇の自在さほしさには海ひとつまみウニ人妻みえ
これはソネットの3連目。「ひと肌のひくみ」が、私は、特に気に入った。「ひくみ」は「下ネタ」の「下」につながる「ひくみ」。この上品ぶった下品がとてもいい。「ひと肌」と「ひくみ」で「ひとそろい」、だね。
次の行の「呪符……さえ」「驟雨添え」の音の揺らぎもおもしろい。さらに末尾の「添え」が行わたりして、「添え/ない」とつながるところが楽しい。
あ、「人肌のひくみ」に「添えない」蛇(ペニス?)だったのか。残念だね。
「海ひとつまみ」「ウニ人妻み」というのはだじゃれになってしまっていて、私は好きではないのだが、
かくてわが生涯にわたって宙まろか脂身あわく
アフロディテな泡食うひとひた走るひっかき跡
あわれあわれ襞ばしる皮下掻きアート
とあくまで音で遊ぶなら、それはそれで楽しい。「ひた走る」「襞ばしる」って、何やら「人妻」の「襞」を大急ぎで愛撫しているようでおかしい。「そんなにひっかかないで」「いや、これは皮下掻きアート(皮/肌の下=内部、奥を掻くアート=芸術)なんだ」とくだらないいさかいをしているようで笑い出してしまう。
「だじゃれ」というのは「論理」的だからばかばかしい。
那珂太郎には、こういう「すけべ根性」のような遊びがなかったなあ、上品すぎたなあ、それが残念だなあと、なつかしく思い出してしまう。
私は「だじゃれ」は好きになれないのだが(ふたつの「意味」を掻き混ぜるというのがめんどうくさい)、野村の人目をはばからない「下品」な肉体感覚、それを音にしていく強さは好きだなあ。「頭」をつかって音を探しているのに、その「頭」を「すけべ」で隠す--その「頭」に対する恥じらいのようなものが、とても「かわいい」と思ってしまう。純真なすけべというのは「常識」からすると「矛盾」なのだが、矛盾だからそこに野村の「肉体(思想)」が噴出してきていて、それが楽しい。
*
藤富保男「向こう岸」(初出『一壷天』2014年10月)。「霊岸あるいは黄泉の国の様子を知らしめよ」と言って、「打出の小槌」を振る。そうすると、暗闇のなかに幹線道路がつづいているのが見えてきた。両側に、
明かりがつづいて、ぼんやり光っている。よく見ると、
その光に映し出されているのは、理髪店、理髪店、理髪
店、理髪店、理髪店、理髪店、理髪店、理髪店、…………
…………どこまでも理髪店。
そのあと、理髪店の三色棒(サイン・ポール)についての蘊蓄が書かれていて、それがいわば「起承転結」の「転」のような働きをしたあとの「結」。
この幹線道路には、どういうものか美容院が見当たらな
い。こちらが男性だからだろうか。
大きく空咳をして、もう一度打出の小槌を振って帰還し
たのである。
頭を撫でてみると、つるっと禿げていた。
私は笑い出してしまった。私は藤富保男と会ったことがあるわけではないのだが、頭の毛が少ないのは写真で知っている。その「頭」を思い出したのである。
「打出の小槌」というような「嘘」を書きながら、最後に「ほんとう」を書いて、「嘘」を「ほんとう」にしてしまう。「理髪店」ということばを何度も何度も書いて、それが潜在意識として定着していると、自分自身を笑ってみせる。
そうか、ユーモアとは自分を笑ってみせる余裕のことか。
風の配分 | |
野村 喜和夫 | |
水声社 |
谷川俊太郎の『こころ』を読む | |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。