詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

有働薫「白無地方向幕」、尾花仙朔「晩鐘」、カニエ・ハナ「草獣虫魚」

2015-01-22 08:56:20 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
有働薫「白無地方向幕」、尾花仙朔「晩鐘」、カニエ・ハナ「草獣虫魚」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 有働薫「白無地方向幕」(初出『モーツァルトになっちゃった』2014年10月)。この詩の感想は書きにくい。詩集『モーツァルトになっちゃった』については書きたいことがある。今は「現代詩手帖12月号(現代詩年鑑2015)」のアンソロジー全作品について感想を書いている途中なので、それが終わったら書きたいと思っている。その書きたいと思っていること(取り上げたい詩)とアンソロジーの作品が違う。ふーん、これが詩集の代表作か……違うと思うけれどなあ、とどうでもいいことを考えて、ことばが動かない。動こうとしない。
 「白無地方向幕」か……。この作品について、私は何が言えるだろうか。

ひとふしのメロディーが朝から頭を離れない
くちの中でくりかえし小さく歌い
どこかで聞いたと 記憶のもやの中を探し回る
たどり着けずに正午を過ぎて
ガラス戸ごしに曇りの空を眺めている

 おぼえているのに思い出せない、という「矛盾」のようなことがらは誰にでもあることだと思う。特にめずらしい体験を書いているわけではない。むしろ、「平凡」なことを書いている。こういうとき、詩は、「内容」ではなく、書き方にあらわれる。書き方にあらわれた特徴が詩である--と私は思うのだが。
 「朝から」「正午を過ぎて」。この時間の経過の書き方が律儀すぎて、私は、そこにつまずく。この詩を詩集のなかの代表作として選んだ人は、まあ、律儀な性格で、有働の律儀さに反応しているのだと思う。「記憶のもやの中を探し回る」には有働の翻訳体験から生まれた「正確さ」を求める姿勢が出ている。論理的すぎる。そういう意味では、有働らしい作品なのかもしれない。「記憶のもや」が「曇りの空(しかも、ガラス戸越し)」と呼応し、呼応することで、とてもわかりやすくなっている。--でも、私は、この部分は好きではないなあ。明晰すぎる。

愛しあったり
愛されない苦しみにひそかに裏切りに走ったり
音もかたちもない
ふとした凪のような
自分であるのかほかの人であるのか
消え去りやすく けれど不意に戻ってくる

 3連目は、1連目とは違って、自在に動いている。1連目でていねいに状況を書いたので、安心してことばが動き回っているのかもしれない。「愛されない苦しみにひそかに裏切りに走ったり」というような「矛盾」した動きが楽しい(そういうことってあるよなあ、と納得してしまう)。この「矛盾」は「朝から→正午を過ぎて」というようなきちんとした動きではなく、詩のなかのことばで言えば「ふと」動いてしまうものである。「無意識」に動いてしまうものである。動いてしまったあとで、思い返すとこういうことだったなあ、という動きである。「無意識」であるから「不意」ということばでも言いなおされてもいる。
 私は、こういう「言い直し」を読んでいくのが好きである。人は大事なことは何度でも言う。何度でも言い直す。言いなおしているうちに「ことばの肉体」が生まれてくる。
 この詩の「思想(肉体)」を探していくと、「ふと」「不意に」にたどり着くと思う。あるメロディーが思い浮かび、それが何かわからないまま頭を離れない。というのは「不意に」やってきたできごと。「ふと」やってきたできごとである。その「ふと」や「不意に」を見極めようとするとメロディーとは関係があるのかないのかわからないが、「愛されない苦しみにひそかに裏切りに走ったり」とい「衝動」のようなものを思い出したりする。
 どこかに、何か「衝動(本能)」が動いている。それを探しているんだなあ、と思う。「本能」であるから、

生まれて二ヶ月の赤ん坊が
朝の小鳥のコロラチュラにじっと耳をすましている
遠い眼をして

 と「二ヶ月の赤ん坊」が「比喩」として出て来る。「比喩」ではないかもしれないけれど、本能と結びつくことばとして出て来る。ことばが「必然」の運動として、「自然」に動いている。
 1連目のていねいな「論理」を突き破って、だんだん詩の自由さが出始める。

何度でもあきらめよう
そのたびに輝くものがある

迷子よ
迷子よ
後戻りはきかない

 この2連は「意味」は論理的にはわからないが、ことばが「飛躍する」瞬間の「真実」がエネルギーそのものとして動いている感じがしておもしろい。「迷子よ/迷子よ」が「意味」としてではなく、「音楽」として先に動いていく感じ。
 「ふと」「不意に」ということばのあと、開き直った(?)感じでことばが疾走しはじめる。このスピード感が、詩、なのかな? この詩をアンソロジーに選んだ人の好みなのかな、と考えた。
 (いつか書きたいと思うが、私が『モーツァルトになっちゃった』をおもしろいと感じたのは、また違う作品、違う理由であるのだが、とまた書いておく。)



 尾花仙朔「晩鐘」(初出「午前」6、2014年10月)。私は、この作品は苦手である。私はカタカナ難読症なのか、カタカナを読むのが苦手。この詩は漢字とカタカナの組み合わせで、カタカナだけで書かれているわけではないのだが、読みづらいなあという気持ちが先に立ってしまう。そして、実際に読みはじめると

彼方ヲ望メバ内戦紛争ノ絶エマナク
民族ノ覇権アラソウ相剋ニ悪霊アマタ跳梁シ
血ヲ血デ洗ウ災イ果テシナク
飢餓ノ闇 恐怖ノ斧ニ囲マレテ
平穏ナ日々ノ生活ヲ請ウノミノ民ハ塗炭ノ地獄絵図

 どのことばも知らないわけではないが、日常的に私のつかわないことばばかりである。現実の世界の問題と重なることばがつかわれているのだが、「現実の世界」といっても、私はそこに書かれているようなことを自分の「肉体」ではまったく知らない。私の「肉体」はそういうことをおぼえていない。ニュースで知っているだけで、「肉体」に響いてこない。私の想像力が貧弱なだけなのだろうけれど、こういうことばに私は「親身」になれない。「地獄絵図」というような「流通言語」を読むと、尾花は「体験」として書いているのかなあ、と疑問を感じてしまう。「民」というようなことばもいやだなあ。「民」ということばをつかうとき、尾花は「民」のひとり? それとも「民」ではない人間?



 カニエ・ハナ「草獣虫魚」(初出『MU』2014年10月)。「無」をテーマにした作品--になるのだろうか。

苔の生すまで
結ぶまで
またたくま
私の墓に
無を結ぶ
転がる岩の一念で
月溶けて
地濡れて(土噛んで
父子樹に生った二人の私が
喪がれていって
火ほどけて

 「父子樹に生った二人の私」が何のことかわからないのだが、わからなくてもいいか、とも思う。リズムがおもしろい。1行を短くすることでリズムをつくり出している。「むすまで/むすぶまで」のなかに「む(無)」が何度も出て来る。「むすぶ」の「ぶ」も「無」の変形に感じてしまう。口で声にするとき「む」と「ぶ」は同じ感じ。
 「意味」は音から生まれ音に帰っていく。ことばは「意味」ではなく「音」という生まれては消えていく「無」そのものとして動いていく。--と書くと那珂太郎のことを書いているような気持ち。「喪がれていって」というのは「殯」と関係している? 「もぐ」という動詞の「当て字」?
 そんなことを考える(そんなふうに「誤読」する)のも楽しい。

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