詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐々木安美「巨大な石」、貞久秀紀「すでにある機会」、白石かずこ「こえる」

2015-01-24 11:17:53 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
佐々木安美「巨大な石」、貞久秀紀「すでにある機会」、白石かずこ「こえる」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 佐々木安美「巨大な石」(初出「生き事」9、2014年10月)。

自宅裏の畑に隣接する湯本さん宅の擁壁は
こちらにずいぶんふくらんできて
コンクリートブロックにひびの入ったところから
水が漏れてきている

この水はおそらく
湯本さんが自作した池の水で
池には大きな錦鯉が五匹
神のように悠々と泳いでいる

 「擁壁」に排水口がないのだろう。そのために地下水が「擁壁」を押して、ひび割れ、水が漏れている。その水は湯本さん宅の鯉のための池の水だ。池は、水漏れし、その水が「擁壁」を押している。「擁壁」が水脈を切断しているのだ。
 そういうことは、読めば「わかる」。「わかる」のだが、ことばというのは不思議なものだと思う。ここに書いてある佐々木のことばに、知らないことばはない。知らないことばはないし、描かれている光景も目に見えるのだが、不思議な違和感がある。「擁壁」とわざわざカギ括弧でくくって書いたのは、その「違和感」について書きたいからだ。
 私には「擁壁」ということばは思いつかない。湯本さんの家は崖の上にあるのだろう。崖の土が崩れるのを防ぐために、その崖にコンクリートが打たれている。何と言いなおせばいいのかわからないが、「擁壁」は私の日常語ではないので、書くときに出て来ないだろうなあ。「湯本さん宅の擁壁」のことばのつながり、「隣接する」も書かないだろうなあ。2連目の「自作」も、うーん、こういう使い方をするのか……と思ってしまう。「神のように」という比喩にも驚く。
 でも、この「違和感」が、この詩の世界を、不思議な形で支えている。
 佐々木の方は、「自宅裏の畑」を耕しているのだが、どうもうまくはかどらない。きちんと畑を掘らないからだと気づき、掘っていくと大きな石にぶつかる。石というより、「岩盤」に近いのかもしれない。その「岩盤」はどうやら湯本さん宅の下まで(錦鯉の池の下まで)続いているよう。水は、その岩盤にさえぎられて地下へもぐりこめずに、岩盤の上を流れてきて、「擁壁」を押している。罅を入れさせている。土木の仕事をしている専門家に頼んでつくった池、「擁壁」ではないのだろう。「擁壁」は業者に任せたかもしれないが、池は「自作」したのだろう。だから、地下水の流れ、岩盤などを気にしていない。いや、池の底の岩盤を知っていて、これなら「水漏れ」はしないと思い込んだかもしれない。
 「自作」、素人の仕事が「現実」のなかで、想像しなかったことを引き起こしている。その「自作」の「自」、つまり「人間」と「神」が、ここでは不思議な形で向き合っている。「自作」の「擁壁」「池」と「神」がつくった自然(巨大な石の岩盤)が出会っている。その「出会い」は人間の方から、何と言えばいいのか、「神」の領域をおかしていったために、「水の氾濫」を引き起こしているという感じ。そして、その「乱暴」が「擁壁」とか「自作」というような漢語のなかに、ひそんでいるのかも。「漢語」のなかに、そういう「意味合い」をこめて佐々木は書いているのかも。--これは、ちょっと「深読み」なのかもしれないけれど、私ならつかわないことばが、妙におもしろい。

池の水も抜かれることになったようだ
男の人が網ですくい取った
錦鯉の目の端に深い穴がうつり
穴の中の巨大な石が見えた

五匹の錦鯉は順々
神のようにすくい取られ
穴の中の巨大な石を目に焼き付けたまま
どこかに運ばれていった

 錦鯉がほんとうに大きな石を目に焼き付けたかどうかはわからないが、「神話」なのだから、まあ、そんなふうに書いてしまっていいのだ。
 日常つかわないことばをつかうことで、人間のおろかさ(自作の失敗)を「神話」のなかの笑い話にした、という感じ。詩のなかの「事実」を漢語が不思議な具合に整理し、動かしている印象がある。



 貞久秀紀「すでにある機会」(初出「ぶーわー」33、2014年10月)。
 佐々木のことば(漢語)は、現実を不思議な具合に切断し、その断面に「神話」が入り込む(「断面」が「神話」を動かす)という感じがあったが、貞久の「文体」は「切断」を拒み、どこまでもつづいていく感じ。

折れてつながりあう枝が
ふたてに分かれて
ひとつは幹について根につながり
ひとつは折れたところからこの枝につき
幹へと導かれていた

 「折れてつながりあう」ということばそのものが、「折れて(切断に通じる)」「つながる(接続)」と矛盾している。「折れ」たなら、そこではもうつながっていないのに、「折れる」を「ふたてに分かれ」と言いなおすことで、「ひとつの切断」ではなく、「ふたつの切断」に変えて、そこから世界を拡げていく。そのとき、とても巧妙なのは、

ひとつは幹について根につながり
ひとつは折れたところからこの枝につき

 「ふたつ」を「ひとつは」「ひとつは」と「ひとつ」という形で繰り返すことで区別をなくしている。「ふたつ」なのに「ひとつ」「ひとつ」の具別がなく「ひとつ」になってしまっている。「切断」したはずのものが「切断」されずに「ひとつ」のなかでつながったままである。「ふたつ」に「分かれて」いくはずが「ひとつ」になってしまう。
 こういう「切断」さえも「接続」にかえてしまう文体は、別個に存在する(孤立する)ものを、「孤立」ではなく、やはり「ひとつ(接続したもの)」にかえてしまう。「孤立」を許さない。
 ふたてに分かれた折れた枝はどんどんつながって、

池のほとりの木のもとに来ていた
そこではさきの木にはなかったはずの見なれない岩が
短い草のなかに露出していた
それはみずからのなだらかな一端として
横たわり
見るところ
土に隠れる部分が地にあまねくゆきわたりながら
この丘全体の
ゆるやかなすがたを成していた

 「一端」が「全体」にかわっていく。もう、そこには「切断」の入り込む場所がない。「全体」があるだけなのだ。どういう「世界」も「全体」として見ることができる。「切断」は「わかれる」ことであり、その「わかれる」の繰り返しが「全体」の編み目のようになる、ということか。これもまた別の「神話」の形。


 
 白石かずこ「こえる」(初出「花椿」2014年10月号)。

あしたについて思う
「きみを こえたいな」
きみとはあしたのこと
さしさわりない きみと話しているぶんには

 「あした」というのは、存在していない。ことばで存在させている。「こえる」も、この詩では「動詞」というよりも概念だ。

だが ねむっておきると「ハイ」とばかり
あしたは こちらにウインクして待っている
しかたがない 「つきあってやる」といいながら
あしたにキスする 「いいやつだ」
あしたが今日になるから「こえる」というご馳走
さびしい快楽に逢えるのだ

 「ウインク」「キスする」「快楽」。ことばは「肉体」を呼び込もうとしているが、呼び込めているようには見えない。概念のままだ。

雲の行方
貞久 秀紀
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