goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(125)

2014-07-25 09:49:32 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(125)        2014年07月25日(金曜日)

 「タベルナにて」は失恋した男の「声」を書いている。

ベイルートのタベルナ、あいまい宿をはいずりまわる私。
アレクサンドリアに いたたまれなかった。
タミデスに去られた。ちくしょう。
手に手を取って 行ってしまった、長官の息子めと。
ナイルのほとりの別荘がほしいためだ。市中の豪邸だもな。

 途中にはさまれた「ちくしょう。」が美しい。短くて、響きが強い。次の行の「息子め」の「め」もいい。「息子」と言うだけでは言い足りない。けれど、長々しくは言いたくない。「め」に「主観」が炸裂する。
 「ナイル……」以下のことばは、長い。一行目の「はいずりまわる」ということばそのままに、「理由」を求めてはいずりまわっている。そこには「声」の強さがない。「主観」がない。--というのは、変な言い方かもしれないが、「理由」をつけて自分を納得させようとする「弱い」何かが動いているだけだ。「理由」はいわば「客観」であり、それは「主観の声」を弱めてしまう。
 ここから「抒情」がはじまる。「弱い主観の声(声の主観の弱々しさ)」が共感を求めてさまようとき、それは「抒情」になる。
 失恋した(捨てられてしまった)男の「救い」とは……。

いちばん花のある子だったタミデスが まる二年
私のものだった。あまさず 私のものだった。
しかも邸やナイルに臨む別荘目当てじゃなかったってこと。

 豪邸やナイルの近くの別荘目当てではなく、タミデスが「永遠にあせない美のような、わが身体」が目当てだったと、思い込んでいる。そう思えることが「救い」なのだ。
 だが、これはほんとうだろうか。
 この「救い」は私には、どうも「嘘」に思えて仕方がない。豪邸と別荘をもたない自分には、かわりに美しい身体がある--というのだが、それがほんとうに美しいのなら(魅力的なら)タミデスは去らないだろう。「私」は「永遠にあせない美」と思っているが、それは「豪邸」と「別荘」の前に瞬時に消えてしまった。
 タミデスが「私」にそういうものを求めなかったのは、そのときは、そういうものが存在すると知らなかっただけである。そういう「肉体」以外のもので誘ってくる人間がいると知らなかっただけである。そういう「残酷な事実」を隠して、「論理的な分析」で自分をごまかす--そこに「抒情」のいやらしさがある。
 それは人間のいちばん弱い「声」をゆさぶってくる。「これなら自分にも言える声」と思わせる「声」で共感を求めて、すり寄ってくる。これなら他人に同情(共感)してもらえるかもしれないとささやきながら。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ダグ・リーマン監督「オール... | トップ | 池井昌樹『冠雪富士』(33) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

カヴァフィスを読む」カテゴリの最新記事