中井久夫訳カヴァフィスを読む(125) 2014年07月25日(金曜日)
「タベルナにて」は失恋した男の「声」を書いている。
途中にはさまれた「ちくしょう。」が美しい。短くて、響きが強い。次の行の「息子め」の「め」もいい。「息子」と言うだけでは言い足りない。けれど、長々しくは言いたくない。「め」に「主観」が炸裂する。
「ナイル……」以下のことばは、長い。一行目の「はいずりまわる」ということばそのままに、「理由」を求めてはいずりまわっている。そこには「声」の強さがない。「主観」がない。--というのは、変な言い方かもしれないが、「理由」をつけて自分を納得させようとする「弱い」何かが動いているだけだ。「理由」はいわば「客観」であり、それは「主観の声」を弱めてしまう。
ここから「抒情」がはじまる。「弱い主観の声(声の主観の弱々しさ)」が共感を求めてさまようとき、それは「抒情」になる。
失恋した(捨てられてしまった)男の「救い」とは……。
豪邸やナイルの近くの別荘目当てではなく、タミデスが「永遠にあせない美のような、わが身体」が目当てだったと、思い込んでいる。そう思えることが「救い」なのだ。
だが、これはほんとうだろうか。
この「救い」は私には、どうも「嘘」に思えて仕方がない。豪邸と別荘をもたない自分には、かわりに美しい身体がある--というのだが、それがほんとうに美しいのなら(魅力的なら)タミデスは去らないだろう。「私」は「永遠にあせない美」と思っているが、それは「豪邸」と「別荘」の前に瞬時に消えてしまった。
タミデスが「私」にそういうものを求めなかったのは、そのときは、そういうものが存在すると知らなかっただけである。そういう「肉体」以外のもので誘ってくる人間がいると知らなかっただけである。そういう「残酷な事実」を隠して、「論理的な分析」で自分をごまかす--そこに「抒情」のいやらしさがある。
それは人間のいちばん弱い「声」をゆさぶってくる。「これなら自分にも言える声」と思わせる「声」で共感を求めて、すり寄ってくる。これなら他人に同情(共感)してもらえるかもしれないとささやきながら。
「タベルナにて」は失恋した男の「声」を書いている。
ベイルートのタベルナ、あいまい宿をはいずりまわる私。
アレクサンドリアに いたたまれなかった。
タミデスに去られた。ちくしょう。
手に手を取って 行ってしまった、長官の息子めと。
ナイルのほとりの別荘がほしいためだ。市中の豪邸だもな。
途中にはさまれた「ちくしょう。」が美しい。短くて、響きが強い。次の行の「息子め」の「め」もいい。「息子」と言うだけでは言い足りない。けれど、長々しくは言いたくない。「め」に「主観」が炸裂する。
「ナイル……」以下のことばは、長い。一行目の「はいずりまわる」ということばそのままに、「理由」を求めてはいずりまわっている。そこには「声」の強さがない。「主観」がない。--というのは、変な言い方かもしれないが、「理由」をつけて自分を納得させようとする「弱い」何かが動いているだけだ。「理由」はいわば「客観」であり、それは「主観の声」を弱めてしまう。
ここから「抒情」がはじまる。「弱い主観の声(声の主観の弱々しさ)」が共感を求めてさまようとき、それは「抒情」になる。
失恋した(捨てられてしまった)男の「救い」とは……。
いちばん花のある子だったタミデスが まる二年
私のものだった。あまさず 私のものだった。
しかも邸やナイルに臨む別荘目当てじゃなかったってこと。
豪邸やナイルの近くの別荘目当てではなく、タミデスが「永遠にあせない美のような、わが身体」が目当てだったと、思い込んでいる。そう思えることが「救い」なのだ。
だが、これはほんとうだろうか。
この「救い」は私には、どうも「嘘」に思えて仕方がない。豪邸と別荘をもたない自分には、かわりに美しい身体がある--というのだが、それがほんとうに美しいのなら(魅力的なら)タミデスは去らないだろう。「私」は「永遠にあせない美」と思っているが、それは「豪邸」と「別荘」の前に瞬時に消えてしまった。
タミデスが「私」にそういうものを求めなかったのは、そのときは、そういうものが存在すると知らなかっただけである。そういう「肉体」以外のもので誘ってくる人間がいると知らなかっただけである。そういう「残酷な事実」を隠して、「論理的な分析」で自分をごまかす--そこに「抒情」のいやらしさがある。
それは人間のいちばん弱い「声」をゆさぶってくる。「これなら自分にも言える声」と思わせる「声」で共感を求めて、すり寄ってくる。これなら他人に同情(共感)してもらえるかもしれないとささやきながら。
![]() | リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 |
ヤニス・リッツォス | |
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