池井昌樹『冠雪富士』(33)(思潮社、2014年06月30日発行)
「赦されて」。これも同じように「歌」なのだが、
こういうことは、だれにでも思い当たることがあると思うけれど(思うことがあると思うけれど)、よく考えると不思議なことではないだろうか。
「なんにもおぼえていない」のに「ぼくにはなんにもできなかった」「なんにもしてやれなかった」ということは覚えてる。どうして「できなかった」「してやれなかった」は覚えているのだろう。
こんなことを書くと「揚げ足取り」をしているみたいだが、そうではなくて、これは意外と重要なことなのではないか、と思う。
これを「論理的(?)」に問いつめていくと、きっと「間違い」にたどりついてしまう。「論理的」に考えずに、ただ、そうだね、そういうことがあるね、と受けてとめればいいのだけれど--そう知っているけれど、私は少し「理屈」をこねてみたい。
「できなかった」「してやれなかった」を覚えているのは、ほんとうは「したかった」ことを覚えているということではないだろうか。
でも、その「したかったこと」とは何だろう。
これが「したかった」こと。
はなのにおい、やさしいにおいといっしょにあること、それをしたかった、してやりたかった。
これでは、やっぱり何のことがわからないのだが……。
わからないことは、わからないまま、ぼんやりとほうっておく。そうした上で、思いついたことを書くと、ここに書かれている「におい」。そのことばに、私は、池井の「本質」のようなものを感じる。(ここから、「屁理屈」を言ってみたいのだ、きょうの私は。)
池井は基本的に「嗅覚」の人間である。嗅覚の詩人だ。
そこにある「空気」を吸い込み、吐き出し、つまり呼吸して、そこにある空気と一体になる。そのときに「幸福」を感じる。
色や音や手触りで幸福を感じるのではなく、そこにあるものを「呼吸」し、その「匂い」にすっぽりと包まれる(同時に、その匂いを池井の肉体でつつむ)ときに、「幸福」を感じる。そういう「幸福」のなかにいたかった。そして、誰かに対しては、そういう「幸福」をいっしょに分かち合いたかった。それがしたかったことなのだ。「空気」を吸い込むとき、呼吸するとき、その「空気」というものは、そこにいるすべてのひとに区別なく分け与えられている。この見境のなさ、それが「幸福」である。
「見境がない」というのは、別のことばで言えば、「空気」は勝手に存在しているということでもある。
ここから、私はちょっと飛躍する。(かなり飛躍する。そして、強引に、飛躍を「地続き」にしてしまう。屁理屈で……。次のように。)
「なんにもおぼえていない」のに、いま、ここで感じているものが、「はなのにおい」「やさしいにおい」であることがわかる。「におい」(嗅覚)は人間のもっとも原始的な感覚であり、最後まで記憶に残っているそうだが、池井はその「におい」を忘れることができずにいる。そして「におい」が甦るとき、「におい」のなかから「はなの」と「やさしい」があらわれてくる。形をとる。
それは、池井の存在とは別に、勝手に存在している。
池井がどう感じていようが、その感じていることとは無関係に「におい」のなかに、「はな」は存在し「やさしい」は存在している。この「はな」や「やさしい」の勝手さを、「非情」ということもできるし「永遠」と呼ぶこともできる。
「非情」と私が呼んでしまうのは、「はな」も「やさしい」も池井の「情」とは無関係だからである。「永遠」と呼んでしまうのは、それが池井の存在している「時間」とは無関係の別の時間に属しているからである。
池井は何にもおぼえていないと書きながら、その非情/永遠の存在だけはしっかりおぼえている。忘れることができない。
それを「におい」を嗅ぐように、呼吸したい。
そう思ったとき、また、別のことにも気がつく。
池井はいつだって「どこかではなのにおいがし/やさしい匂いがなかれてき」ということを体験している。池井はその「幸福」から離れて生きることができない人間なのである。だからこそ、誰かに対して「なんにもできなかったし」、誰かに対して「なにんもしてやれなかった」という思いが募る。
それは、また池井が誰かから「何かをしてもらった」ということは、忘れることなくおぼえているということでもある。
これは池井の子どものときの記憶である。「おぼえていること」である。
池井は家族に愛されていた。家族の愛につつまれていた。それは「はなのにおい」につつまれること、「やさしいにおい」につつまれることと同じである。
しかし、そういうときも、池井は、そこにある「におい」だけでは満足せずに、「あらぬかた」を「みて」いる。
「どこかではなのにおいがし/やさしいにおいがながれてき」ているのを感じている。ものごころのつかない先から。「永遠/非情」に見つめられ、見つめかえし、その「におい」を感じている。
池井は詩人であることを「赦されて」いる。いま、そうなのではなく、生まれたときから、「赦されて」ている。「赦されて」いる人間だけが感じる「苦悩」のなかに池井はいる。
「宿命」とか「運命」というものを私は信じるわけではないが、池井の詩を読むと、そこに何か「必然」を感じてしまう。詩人の「必然」。私なんかとは無縁の「必然」の美しさを感じてしまう。
「赦されて」。これも同じように「歌」なのだが、
ぼくはなんにもできなかったし
なんにもしてやれなかったし
そのうえなんにもおぼえてないし
どんなばちでもあたっていいのに
どこかではなのにおいがし
やさしいにおいがながれてき
みんなすっかりわすれはて
きれいさっぱりわすれはて
ここはいったいどこいらの
いったいいまはいつころか
こういうことは、だれにでも思い当たることがあると思うけれど(思うことがあると思うけれど)、よく考えると不思議なことではないだろうか。
「なんにもおぼえていない」のに「ぼくにはなんにもできなかった」「なんにもしてやれなかった」ということは覚えてる。どうして「できなかった」「してやれなかった」は覚えているのだろう。
こんなことを書くと「揚げ足取り」をしているみたいだが、そうではなくて、これは意外と重要なことなのではないか、と思う。
これを「論理的(?)」に問いつめていくと、きっと「間違い」にたどりついてしまう。「論理的」に考えずに、ただ、そうだね、そういうことがあるね、と受けてとめればいいのだけれど--そう知っているけれど、私は少し「理屈」をこねてみたい。
「できなかった」「してやれなかった」を覚えているのは、ほんとうは「したかった」ことを覚えているということではないだろうか。
でも、その「したかったこと」とは何だろう。
どこかではなのにおいがし
やさしいにおいがながれてき
これが「したかった」こと。
はなのにおい、やさしいにおいといっしょにあること、それをしたかった、してやりたかった。
これでは、やっぱり何のことがわからないのだが……。
わからないことは、わからないまま、ぼんやりとほうっておく。そうした上で、思いついたことを書くと、ここに書かれている「におい」。そのことばに、私は、池井の「本質」のようなものを感じる。(ここから、「屁理屈」を言ってみたいのだ、きょうの私は。)
池井は基本的に「嗅覚」の人間である。嗅覚の詩人だ。
そこにある「空気」を吸い込み、吐き出し、つまり呼吸して、そこにある空気と一体になる。そのときに「幸福」を感じる。
色や音や手触りで幸福を感じるのではなく、そこにあるものを「呼吸」し、その「匂い」にすっぽりと包まれる(同時に、その匂いを池井の肉体でつつむ)ときに、「幸福」を感じる。そういう「幸福」のなかにいたかった。そして、誰かに対しては、そういう「幸福」をいっしょに分かち合いたかった。それがしたかったことなのだ。「空気」を吸い込むとき、呼吸するとき、その「空気」というものは、そこにいるすべてのひとに区別なく分け与えられている。この見境のなさ、それが「幸福」である。
「見境がない」というのは、別のことばで言えば、「空気」は勝手に存在しているということでもある。
ここから、私はちょっと飛躍する。(かなり飛躍する。そして、強引に、飛躍を「地続き」にしてしまう。屁理屈で……。次のように。)
「なんにもおぼえていない」のに、いま、ここで感じているものが、「はなのにおい」「やさしいにおい」であることがわかる。「におい」(嗅覚)は人間のもっとも原始的な感覚であり、最後まで記憶に残っているそうだが、池井はその「におい」を忘れることができずにいる。そして「におい」が甦るとき、「におい」のなかから「はなの」と「やさしい」があらわれてくる。形をとる。
それは、池井の存在とは別に、勝手に存在している。
池井がどう感じていようが、その感じていることとは無関係に「におい」のなかに、「はな」は存在し「やさしい」は存在している。この「はな」や「やさしい」の勝手さを、「非情」ということもできるし「永遠」と呼ぶこともできる。
「非情」と私が呼んでしまうのは、「はな」も「やさしい」も池井の「情」とは無関係だからである。「永遠」と呼んでしまうのは、それが池井の存在している「時間」とは無関係の別の時間に属しているからである。
池井は何にもおぼえていないと書きながら、その非情/永遠の存在だけはしっかりおぼえている。忘れることができない。
それを「におい」を嗅ぐように、呼吸したい。
そう思ったとき、また、別のことにも気がつく。
池井はいつだって「どこかではなのにおいがし/やさしい匂いがなかれてき」ということを体験している。池井はその「幸福」から離れて生きることができない人間なのである。だからこそ、誰かに対して「なんにもできなかったし」、誰かに対して「なにんもしてやれなかった」という思いが募る。
それは、また池井が誰かから「何かをしてもらった」ということは、忘れることなくおぼえているということでもある。
なんだかなつかしいひざに
しどけなくただあまたれて
びろうどばりのあるばむの
せぴあいろしたいちまいに
もうあとかたもないものたちと
うまれてまもないこのぼくと
ぼくだけいまにもなきそうに
あらぬかたみて
これは池井の子どものときの記憶である。「おぼえていること」である。
池井は家族に愛されていた。家族の愛につつまれていた。それは「はなのにおい」につつまれること、「やさしいにおい」につつまれることと同じである。
しかし、そういうときも、池井は、そこにある「におい」だけでは満足せずに、「あらぬかた」を「みて」いる。
「どこかではなのにおいがし/やさしいにおいがながれてき」ているのを感じている。ものごころのつかない先から。「永遠/非情」に見つめられ、見つめかえし、その「におい」を感じている。
池井は詩人であることを「赦されて」いる。いま、そうなのではなく、生まれたときから、「赦されて」ている。「赦されて」いる人間だけが感じる「苦悩」のなかに池井はいる。
「宿命」とか「運命」というものを私は信じるわけではないが、池井の詩を読むと、そこに何か「必然」を感じてしまう。詩人の「必然」。私なんかとは無縁の「必然」の美しさを感じてしまう。
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谷内 修三 | |
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