「主語」という作品は、いくつもの断章で構成されている。そのなかの「言葉」。
文字で読むものではない
耳で触れるものだ
この2行が、私は好きである。私は黙読しかしない。音読・朗読はしない。けれども、「耳で触れる」。耳で受け止めることのできないことばは、私には理解できない。「耳」は「声」を聞く。書かれたことば、文字には、もちろん「声」はないが、その文字のむこうから「声」を感じる。「耳」で触れるとは、そういうことだ。視覚(読む)が視覚を逸脱する、超越する、そして耳・聴覚は、聴覚を逸脱して、触覚にさえなる。
これに類似したことが「夜よ ゆるやかに歩め」にも書かれている。
近代の人間くらい哀れな存在はない
科学的不可逆性の世界に生きる人間という生物は五感を奪われ
明日になれば死滅する言葉と
一握りの灰で造られた動く標的
「五感を奪われ」というのは、それぞれの感覚のことではない。「五感」として「ひとつ」の感覚のことだ。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。それは、「ひとつ」である。「肉体」のなかで融合している。互いに越境し合っている。絵をながら感じる音楽がある、音楽を聴きながら感じる手触りがある、匂いのなかに味覚がある。そういうことは誰もが体験する。けれど「科学」はそれを分断し、それぞれを独立させてしまった。
そのために、ことばは「生物」(生きている存在)から切り離され、つまり「いのち」を失い「死滅」するしかなくなってしまった。
田村は、そういう「死滅」を強いるものと闘っている。ことばで。ことばに「五感」を取り戻すために。感覚が融合した、あいまいなもの、矛盾したものにするために。
「ぼくは歩いている」の感想を書こうとして、ふいに、その前に書きたくなったことがある。それが、いま、書いたことだ。「ひとつ」と「五感」の関係。ことばと「五感」と「ひとつ」ということと、「孤独」というものを結びつけたいのだ。私は。
北へ北へむかって歩いているうちに
やっと
「孤独」の意味がわかってきた
「孤独」とは「歓び」
人手をかりて生きてきたくせに
北海の
大西洋の
湖の
光と香りとが
その微風と牧草の色彩の変化が
教えてくれたのさ
ぼくは歩いている
ジェット旅客機
皮靴
ネクタイ
みんな嫌い 大嫌い
拘束されないために
歩いている できるなら
裸足で歩きたい 小さな花 小さな星
「拘束されないために/歩いている」。そこに「孤独」と「歓び」の融合がある。「拘束」とは、「視覚は視覚」「聴覚は聴覚」というような「分類」のことだ。そういう分類のなかに「歓び」はない。「歓び」は「五感」そのものになること。「五感の融合体」になること。「五感」そのものとして「ひとつ」、つまり「孤独」。そのとき、「歓び」があふれてくる。
田村は、イギリスで知った「微風と牧草と色彩の変化」そのものについては具体的には書いていないが、その「変化」のなかに「孤独」を鍛える何かを感じている。
この「孤独」は「礼節」とも通い合う。「灰色のノート」の「3」の部分に、次の行がある。
野の花を見よ
といったって年という高層ビルが林立する廃墟には
野はない
野がなければ野辺送りもできないじゃないか
礼節が失われたゆえんである
礼節とは自然を敬愛することではない
「自然」のなかで、人間は「孤独」になる。「人手をかりて」生きることをやめる。「視覚は視覚」「聴覚は聴覚」というような「近代的分類」を捨て去って「五感」にもどる。引き戻される。「孤独」へと生まれ変わる。その瞬間、「五感」が復活し、「歓び」があふれる。
Do it!―革命のシナリオ (1971年)田村 隆一,金坂 健二,ジェリー・ルービン都市出版社このアイテムの詳細を見る |