「市民権」という詩は、「肉・体」と「心」の関係について書いている。さらに、「肉・体」「心」とロートレックについて書いている。
骨なし男のヴァランタンがリーダーで
女たちに肉だけになるように訓練する
心などという余計なものは捨ててしまえ
その捨てられた心を造形するのが
小男の貴族
フレンチ・カンカンを踊る女たちは「肉・体」だけになる。「肉・体」だけになってしまうと、それが「心」なのだ。--この表現は「矛盾」しているが、矛盾しているからこそ、そこには田村の「思想」がある。そのことをよりいっそう明確にするのが、
捨てられた心を造形する
の「造形する」である。
「小男の貴族」とはロートレックのことだが、「捨てられた心」はそのままそこにあるわけではない。「肉・体」は、いつでもそこにあるわけではない。「心」を捨てて、「肉・体」になった女性たち。--それは、ロートレックが絵にすることによってはじめて19世紀の世紀末のパリに、芸術のなかに誕生したのだ。
ロートレックが、「肉・体」=「心」というものを、絵として、造形したのである。
「造形する」は、主語をロートレックから「女」にかえるとき、「誕生する」に変わる。「誕生する」とは「生まれ変わる」であり、「再生する」である。女たちはフレンチ・カンカンという踊りのなかで「肉・体」に生まれ変わる。「肉・体」に再生する。その運動をロートレックは絵に「造形する」。
そして、田村隆一は、ロートレックが「造形」したものを、ことばによって「語り直す」。詩にする。
そのとき、ロートレックと田村隆一は共犯者になる。
この世紀末には捨てられた心は数えきれない
女たちが心を捨てるのは芸だが
その刺戟的な芸によって
山高帽だけをかぶって肉欲のかたまりになったブルジョアは
やっと市民権を得る
肉欲にシルクハットをかぶった自然主義の子どもたち
白髪の老人だってミュージック・ホールにはいれば
性に目覚める小動物に変わる
自然という生きものの血液は
緑色にちがいない
その繁殖力 針の穴の中にだって忍びこんでくる生命力
その邪悪な力から
赤と黄と黒の原色で緑の血液にあらがうのだ
「肉・体」を描くこと。それは「肉・体」となった「心」を、もう一度ひっくりかえすことだ。「肉・体」そのものが「心」なのだから、「肉・体」を描くことで、そこにもう一度「心」を誕生させることである。ロートレックは「肉・体」を描いているのではなく、「心」を描いている。つくりだしている。「造形」している。
いつでも、芸術というものは、その運動の中に「矛盾」をかかえている。矛盾があるから芸術である。
「肉体」は「心」を捨てることで「肉・体」になる。そして、「肉体」ではなく、「心」を捨てきった「肉・体」を描くことが「心」を描くこと、「心」を「造形する」ことである。
--こんな回り道をしなくても、さっさと「心」を描けばいい、というのは、しかし不可能なのだ。
回り道をする。矛盾を生きる。そうしなければ、何も「誕生」しない。「思想」はいつでも「矛盾」を生きる--つまり、「矛盾」そのものになる、そして、そのなかでいままでの「生」の形を叩き壊すときに、はじめて、「生まれ変わる」という形で「誕生」するのである。
それは「邪悪」な「生命力」に生まれ変わるということでもある。「邪悪」な「生命力」。それだけが「純粋」なのものである。
もっと詩的に生きてみないか―きみと話がしたいのだ (1981年)田村 隆一PHP研究所このアイテムの詳細を見る |
絵は筆を使った造形であり、詩は言葉を使った造形なんですよね。
少なくとも、ぼくはそう思っています。
そして、それが詩の神髄だと。
谷内さんは、小生の詩を、説明が多すぎると仰る。その通りだと思います。
上記の続きで言えば、小生の詩は4コマ漫画なんですね。
谷内さんは、「いつも1枚の絵に描き上げよ」と仰っているわけです。
そう理解しています。