詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案再読(30)

2021-10-27 10:18:51 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(30)

(現行憲法)
第69条
 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。
(改正草案)
第69条(内閣の不信任と総辞職)
 内閣は、衆議院が不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

 「衆議院で」か「衆議院が」か。「衆議院で」の場合は、「衆議院で議員が」ということになる。「衆議院が」の場合、現行憲法で省略されている「議員」ということばが見えにくくなる。「衆議院」が意志を持っているかのように表現されている。しかし、議会は国民の信託を受けたひとりひとりの議員から構成されている。
 このことは、忘れてはならない。
 というのも、この第69条は「議院内閣制」を定義しているからである。「議院」は「議員」によって構成されているからである。
 そして、それは「解散」の問題につながるからである。
 この条文で重要なのは「十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」である。解散すると総選挙がある。議員構成そのものから、選び直すことになる。「不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決する」というのは、議員にとっても重要な問題なのである。単に内閣を批判するだけではなく、自分自身の判断に責任を持つということなのである。そして、ここには内閣が勝手に「国会を解散できる」とはひとことも書いていない。「解散しない」なら「総辞職しなければならない」と書いてある。つまり、そこに居すわっていてはいけない、ということである。内閣不信任の場合、国会を解散し、内閣の判断が正しいか議院(議員院)の判断が正しいか国民の判断にゆだねるか、総辞職をしなければならない、「居すわっていはいけない」と「禁止事項」を申し渡しているのである。
 少し離れることになるのか、より詳しく説明することになるのかわからないが。「又は」ということばのつかい方について、もう一度書いておく。
 この条項を見ればわかるように、「又は」(又)いうことばは、ある定義を反対の方向から見て言いなおすことで「定義漏れ」を防ぐときにつかわれている。「不信任の決議案を可決」はあくまで「不信任の可決」、その逆の場合が「信任の決議案を否決」である。どちらの案が出てくるかわからないが、どちらの場合でも、ということである。
 だからもし、内閣が国会を解散したいと思うなら、野党の不信任案提出→可決という経過を待つのではなく、内閣が信任案を提出し議会がそれを否決するという方法をとらないといけない。信任案提出→可決→解散という例を私は記憶していないが、たしか、大平内閣のとき、不信任案決議に自民党内から造反者が出て不信任案が可決→解散ということになった。解散するかどうかは、一義的に議員が決めるのだ。不信任案の可決は、内閣が正しいか、議員が正しいか、その判断を国民に問え、ということでもある。
 国民の代表である議員が何も言っていない(内閣不信任を可決していない)のに、国会を解散するのは、極端にいえば無実の人間をつかまえて有罪というのに等しい。そのひとは何もしていないのに、自分の主張を通すために、他人を排除する、野党の議席を減らすために選挙をする、ということである。異論の排除は民主主義そのものの否定である。

(現行憲法)
第70条
 内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない。
(改正草案)
第70条(内閣総理大臣が欠けたとき等の内閣の総辞職等)
1 内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員の総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職をしなければならない。
2 内閣総理大臣が欠けたとき、その他これに準ずる場合として法律で定めるときは、内閣総理大臣があらかじめ指定した国務大臣が、臨時に、その職務を行う。

 「内閣総理大臣が欠けたとき」が具体的に何を指しているのか。第69条と関連づけて読む限り(法律は、たいてい前に書かれた条項を補足する形で展開する)、内閣が不信任されたとき、である。「急死/事故死」で欠けたということを想定してのことではないだろう。
 ここで、「又は」ということばのつかい方を再点検したい。「又は」は前項を逆の方向から言い直し、補足したもの。逆の方向から定義し直し、「漏れ」をふせぐためにつかう。
 「内閣総理大臣が欠ける」とはどういうことか。総選挙が行なわれれば、当然、議員構成もかわる。そのとき、前の国会で選ばれた内閣総理大臣は、無効になる。新しい議員が選んだものではないから、それは選び直さなければならない。「衆議院議員の総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職をしなければならない」は新しい議会では新しい内閣総理大臣を選び、その総理大臣の元に新しい内閣を組織しなければならないということを、逆の方向から言いなおしたのである。
 ここから第70条を読み直せば、内閣(総理大臣)が、勝手に国会を解散する(いわゆる第7条解散)が「違憲」であることは明らかだ。
 もう一度書くが、もし総理大臣が国会を解散したいと思うなら、信任案をみずから提出すするか自民党(与党)に提出させ、それを否決する必要がある。そのために第69条で「不信任案」「信任案」の二通りのことを書いている。
 改正草案で「新設」されている第2項は、やはり「内閣総理大臣が欠けたとき」の定義がわからない。「急死/事故死」を指しているのか。大平が選挙中に急死したときは、どうしたのだろうか。私には記憶がない。
 病気療養のときや外国での会議に出席するときは「欠ける」とは言わないだろう。いまだって「副総理」という職がある。それを思うと、この新設条項は、もっと他のことを企んでいる、と思って読んだ方がいいだろう。
 というのも。
 不信任→国会解散、という場合、それでは内閣総理大臣(という職)はどうなるのか、という疑問が生じる。そして、それを解消するために、次の第71条がある。

(現行憲法)
第71条
 前二条の場合には、内閣は、あらたに内閣総理大臣が任命されるまで引き続きその職務を行ふ。
(改正草案)
第71条(総辞職後の内閣)
 前二条の場合には、内閣は、新たに内閣総理大臣が任命されるまでの間は、引き続き、その職務を行う。

 「前二条」とは第69条、第70条のことである。内閣不信任→国会解散(議院内閣制だから、当然のこととして内閣総理大臣も議席を失っている。つまり、基本的には総理大臣である資格に欠ける)の場合、内閣総理大臣が「不在」になってしまう。憲法に書かれていることばに従えば「内閣総理大臣が欠けた」状態である。
 その場合は、「内閣は、新たに内閣総理大臣が任命されるまでの間は、引き続き、その職務を行う」。本来なら資格がないのだけれど、条件付きで「内閣」としての仕事をまかせるというのである。
 これから見ても、改憲草案の「新設条項」は、何かしら他のことを企んで新設されたものということになる。
 もしかすると、自民党の内部抗争で、与党の判断だけで「総理大臣を欠けた」状態にすることができるということかもしれない。いまの岸田内閣でいえば、岸田を「お飾り総理大臣」にしておいて、他の誰かが実権を握るというようなことに「お墨付き」を与えるためのものかもしれない。

 それにしても。
 いま、総選挙の最中であるが、なぜ野党は、岸田による「解散」をそのまま認めたのか。衆議院議員の任期がきれることは予めわかっている。それなのに衆議院選挙の日程よりも自民党の総裁選の日程を優先させる(自民党の大宣伝を許す)というようなことをしたのか。自民党の総裁選は任期満了にともなう衆院選のあとにしろ、と主張すべきだっただろう。
 多くのジャーナリズムも、そして憲法学者も、なぜ、そのことに異議を唱えなかったのか。不思議でならない。
 2016年の参院選のとき、私は、私だけが日本の誰かが書いた「脚本(自民党が圧勝する/憲法改正、戦争へ向けての準備をする)」を知らずに生きている、けれども他のひとはその「脚本」を知っていて、その「脚本」を見据えて、これからどう行動するか考えている。つまり、安倍のご機嫌とりをして、どうやって安倍に気に入られようかを考えているように見えた。「脚本」がそうだとしたら、その「脚本」をどう変更できるか、というようなことはまったく考えない。ひたすら、安倍に気に入られることだけを考えて行動している。そう見えて、ほんとうにぞっとした。私が憲法についてほんとうに考え出したのは、そのときからである。あのときの恐怖感は、まだつづいている。私は日本がどうなるか知らない。けれど、多くのひとは自民党にすがって生きていくしかない、とあきらめている。生きていくには、自民党のご機嫌とりをして、奴隷として生きていくしかないと思っている。しかも、一番下の奴隷はいや、少しでも上の奴隷がいい、と思って「下」になる人間を探そうとしている。立憲民主の枝野にしてもそうである。自民党があるから、対抗勢力として存在が許されている。対抗勢力としての議席を守ろうとしているだけである。民主主義がどうなってもかまわない。自分が当選すれば、金が稼げるとおもっているとしか思えない。

 

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