高橋睦郎『永遠まで』(6)(思潮社、2009年07月25日発行)
死者の生を歩きなおす。生まれ変わる小夜子となって、高橋が、小夜子を生きる。そのとき、「時間」を歩くのだが、そこには「歩く」(生きる)という時間があるだけで、ここが「過去」、ここが「いま」、ここが「未来」という点と線で、直線的に描ける時間は存在しない。
「一秒」と「千年」の区別がつかない。それは、小夜子となって歩く高橋にとって、過去も未来もなく、ただ「いま」があるだけだということだ。「時間」はある点と別の点を結んだ直線ではなく、つねに「いま」があるだけなのだ。
この「いま」を「永遠」とも呼ぶ。
歩いても歩いても、あるゴールにたどりつくわけではないから、そこには「経過」というものがない。「経過」がなければ「老いる」という年齢の変化、年齢の経過もありえない。
永遠を歩くものは「老いる」ということができない。
いつまでも「自分」ではなく、「他人」として存在しつづける。そこに「いのち」がある。生まれ変わる「いのち」がただわき出る泉のようにあふれる。輝く。
詩人は老いることができない。小夜子の死を生きなおす高橋は老いることができない。こういう哲学に達してしまったら、ことばは、いったいどこへ行けばいいのだろう。
老いることができない詩人、つまり死ぬことのできない詩人は、最後をどうやって祝福すればいいのだろう。
詩は、とても美しく、光そのものになっていく。最終連。
夜明けになった小夜子を、高橋は着た。そして、小夜子になって、小夜子を通って、夜明けになった。その小夜子とも、高橋ともつかない「いのち」の夜明け--それが、いま、読者に、こうやって差し出されている。
死者の生を歩きなおす。生まれ変わる小夜子となって、高橋が、小夜子を生きる。そのとき、「時間」を歩くのだが、そこには「歩く」(生きる)という時間があるだけで、ここが「過去」、ここが「いま」、ここが「未来」という点と線で、直線的に描ける時間は存在しない。
私はくりかえし歩き
くりかえし歩を返した
長いステージ それは
世界を幾巻きも
その時間は一秒
それとも千年
私のことをいつまでも若いと
人は首をかしげる
どうしたら老いないないのか
教えてほしいと言う
老いないのではない
老いられないのだ
自分に顔がなく
体がないと気付いた者に
どうして老いることができよう
「一秒」と「千年」の区別がつかない。それは、小夜子となって歩く高橋にとって、過去も未来もなく、ただ「いま」があるだけだということだ。「時間」はある点と別の点を結んだ直線ではなく、つねに「いま」があるだけなのだ。
この「いま」を「永遠」とも呼ぶ。
歩いても歩いても、あるゴールにたどりつくわけではないから、そこには「経過」というものがない。「経過」がなければ「老いる」という年齢の変化、年齢の経過もありえない。
永遠を歩くものは「老いる」ということができない。
いつまでも「自分」ではなく、「他人」として存在しつづける。そこに「いのち」がある。生まれ変わる「いのち」がただわき出る泉のようにあふれる。輝く。
詩人は老いることができない。小夜子の死を生きなおす高橋は老いることができない。こういう哲学に達してしまったら、ことばは、いったいどこへ行けばいいのだろう。
老いることができない詩人、つまり死ぬことのできない詩人は、最後をどうやって祝福すればいいのだろう。
詩は、とても美しく、光そのものになっていく。最終連。
蒙古斑の幼女のお尻
のような すべすべの
満月がのぼる
いつか風が出て
満月の表面に
蒙古斑のような
さざなみをつくる
さざなみがくりかえし
月を洗い 洗いながした後
夜明けが立ちあがる
私は夜明けに溶け
私は夜明けになる
かつて着たことのある夜明けに
夜明けになった私を着るのは
誰だろう
夜明けになった小夜子を、高橋は着た。そして、小夜子になって、小夜子を通って、夜明けになった。その小夜子とも、高橋ともつかない「いのち」の夜明け--それが、いま、読者に、こうやって差し出されている。
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