詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋亜綺羅『十二歳の少年は十七歳になった』

2021-10-09 16:33:15 | 詩集

 

秋亜綺羅『十二歳の少年は十七歳になった』(思潮社、2021年9月30日発行)

 秋亜綺羅の詩の特徴は、ことばにリズムがあること、ことばが音楽であることだ。ただ、このリズム、音楽というのは世代によって感じ方が違うかもしれない。私が秋のことばを音楽的、リズムが快適であると感じるのは、私と秋とが同じ年代に属していることも関係しているかもしれない。私がことばを覚えたときの、音、リズムが秋のことばから聴こえてくる、ということである。これは「生理的反応」であって、それがほんとうに詩を読んだことになるのかどうかはわからないが、私は「生理的反応」を優先する。
 ただし、気に食わないところもある。リズム、音楽を、もしかすると秋は「仕掛け」として利用していないか。秋の書いているリズム、音楽はもしかしたら「仕掛け」をくぐり抜けたあとの響きなのかもしれない。もちろんこの「仕掛け」を「哲学」と読み直せば、それは好意的なものにかわるかもしれない。
 この部分は、ちょっと「保留」するしかない。でも、「保留する」と言いながら、それを書くしかない、とも思う。

 「十二歳の少年は十七歳になった」は東北大震災のテーマにしている。全行引用する。
季節よ、城よ
無傷なこころがどこにある
とランボーは書いている

海が目の高さまでやって来て
握っていたはずの友だちの手を
離してしまった瞬間から
きみの時間はずっと止まったままだ

凍えていたね手と足と
おにぎりも飲み水もなかった淋しさと
叫びたかったおかあさんということば
泣くことも忘れていた吐息の温度と
暗闇に海の炎だけが映る瞳と
ぜんぶ拾い集めたらきみになるかな
きみは歩き出すかな

動かない時計だって宝物だね
けれどきみがいま秒針に指を触れれば
時間はきっと立ち上がる
空間はすっときみを抱きしめる

どんな鳥だって
想像力より高く飛ぶことはできない
と寺山修司はいった

傷はまだ癒えていないけれど
今度はきみが
青空に詩を書く番だ

 大震災から五年後に書かれたものだ。五年間があるから動き始めたことば、という部分もあると思う。たとえば、二連目。「離してしまった瞬間から/きみの時間はずっと止まったままだ」。ここに秋の「哲学(仕掛け)」がある。「時間」はふつうは止まらない。でも「止まった」と感じることはあるし、実際に「時間が止まった(止まったままだ)」というのは、「慣用句」になっているかもしれない。「慣用句」というの、その表現と同時にその「感情」が多くの人に「共有されている」ということでもある。奇妙な言い方になるかもしれないが、俳句で言えば「季語」のようなもの。秋は、こういう「隠されている(とまでも言えないかもしれないが)共有された感覚」を揺さぶりながらことばを動かす。つかうのはいつでも「隠されている/しかし共有されている」感覚である。
 三連目の「ぜんぶ拾い集めたらきみになるかな/きみは歩き出すかな」についても、同じことが言える。人間はさまざまな部分(記憶)でできている。そのひとつが欠けても、人間は生きるのがむずかしい。欠けている何かに引っ張られてしまう。では、それをもし拾い集め、欠けたものがない状態にしたらどうなるのか。ここからは想像力の問題だね。「隠されている/しかし共有されている」感覚を刺戟し、それを想像力へと変えていく。
 二連目の「止まったまま」の「時間」は、動かなくなった「時計」という「存在」を手がかりに、動いていく。四連目の「時間はきっと立ち上がる/空間はすっときみを抱きしめる」は、もう一つの「仕掛け」だ。「時間」のほかに「空間」というものがある。「時間」と「空間」はセットにして考えられる。これは「隠されている/しかし共有されている認識(理性)」というものかもしれない。ここから読み直せば「隠されている/しかし共有されている感覚」というのも、不定形の感覚というよりは「理性化された感覚」「理性をくぐり抜けることで定型にたどりついた感覚」ということかもしれない。
 秋はなんといっても「理性的」な詩人なのである。それは、古今、新古今のことばにいくらか似ているかもしれない。共有され、いまそこに隠れた形で存在しているものを活性化させる。それを詩の仕事と秋はとらえているかもしれない。自分の肉体をつかうのではなく、「理性」をつかう。
 それはランボーを引き合いにだし、寺山修司を引き合いに出すところにもあらわれている。ランボーと寺山修司を書かずに、この詩を秋は書くことができるか、と問うのは見当外れかもしれないが、私はふいにそういう問いかけをしてみたくなる。

 別の「仕掛け」もある。「馬鹿と天才は紙一重」は「馬鹿」と「天才」が紙の表と裏に書かれている。さらに「馬鹿」は「鏡文字」になっているものとふつうの文字になっているものが「鏡」のように重ね合う形で展開されている。「ことば」を「仕掛け」として「見せる」。これは最初に書いた「リズム」「音楽」とは無関係に見えるかもしれないが、やはり「鏡文字」というものがあるということ、活字は左右反対である(鏡文字である)という誰もが知っている「共有認識」を利用しているという点では同じである。さらに「わかる」「かわる」ということばをはさみ、この二篇はどちらから読んでも「意味」が通じるように書かれている。とても手が込んでいる。
 ここでは、また読者は「肉体」をも刺戟されていることになるのだが……。
 この「肉体」の問題と関連して、私には、実は「仕掛け」の問題でわからないことがある。これは秋にかぎらず何人かの詩人に通じることなのだが。
 秋は「あきは詩書工房」という出版会社を持っている。自前の出版社を持っているのに、なぜ思潮社から詩集を出すのか。流通の問題があるのかもしれないが、私には、これがよくわからないのである。「出版社」は、本を出すためのいわば「仕掛け」。そして、それは私から見れば、秋の「肉体」である。どこかで「肉体」と「ことば」が切り離されていないか、という疑問がしきりに浮かぶのである。自分の肉体よりも、完成された「仕掛け」に信頼をおいていないか。信頼をおくが強すぎれば、確立された他人の「仕掛け」を利用していないか。もちろん利用してもかまわないのだが、その場合、「あきは詩書工房」から出版するひとはどういう気持ちになるのかなあと他人のことながら、私は気になったりするのである。
 これは詩とは関係ないかな? それとも関係するかな?

 

 

 

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岸田の首相所信表明演説の嘘

2021-10-09 10:32:31 |  自民党改憲草案再読

 「早く行きたければ一人で進め。遠くまで行きたければ、みんなで進め」ということわざを引用している。読売新聞(web 版)は「アフリカのことわざ引用した首相…「安倍・菅路線」との違い、所信表明で強調」と好意的に書いている。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20211009-OYT1T50043/ 

 さて。
 それはどんな文脈で語られているか。
↓↓↓↓
新型コロナという目に見えない敵に対し、我々は、国民全員の団結力によって一歩一歩前進してきました。
 改めて、この日本という国が、先祖代々、営々と受け継いできた、人と人のつながりが生み出す、やさしさ、ぬくもりがもたらす社会の底力を強く感じます。正に、「この国のかたち」の原点です。
 この「国のかたち」を次の世代に引き継いでいくためにも、私たちは、経済的格差、地域的格差などがもたらす分断を乗り越え、コロナとの闘いの先に、新しい時代を切り拓いていかなければなりません。そのために、みんなで前に進んでいくためのワンチームを創りあげます。
 「早く行きたければ一人で進め。遠くまで行きたければ、みんなで進め」
 一人であれば、目的地に早く着くことができるかもしれません。しかし、仲間とならもっと遠く、はるか遠くまで行くことができます。私は、日本人の底力を信じています。
↑↑↑↑
 日本人の団結力(みんなで進む)がコロナを解決に向かわせた。それが日本社会の「底力」であり、日本の「原点」だという。
 だったら、そういうことわざが日本にあるはずだろうなあ。なぜ、アフリカのことわざを引用した?
 こういうなんというか、「自分の都合」のために他人のことば(外国のことば)を利用するというのは、どうなんだろう。

 もし「みんな」がアフリカを含めた「世界」のことを問題にしているのなら。
 私は、違う問題を語るときに「アフリカのことわざ」(世界のどこかで発せられた、世界の智慧)を利用すべきだろう。
 それはどの部分か。
↓↓↓↓
 地球規模の課題に向き合い、人類に貢献し、国際社会を主導する覚悟です。
 核軍縮・不拡散、気候変動などの課題解決に向け、我が国の存在感を高めていきます。
 被爆地広島出身の総理大臣として、私が目指すのは、「核兵器のない世界」です。私が立ち上げた賢人会議も活用し、核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努め、唯一の戦争被爆国としての責務を果たします。
 これまで世界の偉大なリーダーたちが幾度となく挑戦してきた核廃絶という名の松明(たいまつ)を、私も、この手にしっかりと引き継ぎ、「核兵器のない世界」に向け、全力を尽くします。
↑↑↑↑
 「核兵器禁止条約」を日本が批准するよう、そのことにこそ全力を尽くすべきだろう。
 広島市のホームページによれば、条約は「平成29年(2017年)9 月20日から各国による署名が開始され、令和2 年(2020年)10月24日に、批准した国が発効要件である50か国に達しました。条約は、批准から90日後となる令和3 年(2021年)1 月22日に発効を迎えました」とある。
 日本は批准していない。アメリカに追随して、拒否している。なぜなんだろう。早く、みんなと一緒に進もうとしないのか。なぜアメリカを説得しないのか。日本こそ、この分野でリーダーになって「みんなで進もう」と呼びかけるべきなのではないのか。

 結局、岸田は何も考えていない、ということだ。広島出身で、広島の願いは知っているはずだ。でも、その広島のことを考えるとき「みんなで進む」を放棄している。これは、どうしたって、おかしい。
 この「おかしさ」は菅の「集団就職」だか「苦学」だか知らないが、それを「前面」に打ち出した姿勢に通じる。「苦学」するのは「学問の重要性」を知っているからだろう。それなのに平気で「学術会議」では新会員の任命を拒否している。新会員のやっていることが「学問の否定」につながるというのならわかるか、そうではない。さらに「苦学」の原因をつくっている「格差是正」をほったらかしにしている。「自助共助公助」ということばをつかって、学校で勉強したいけれどできないという人の問題を「自助が足りない」と切り捨てている。

 岸田は、だいたいが、ことばを自覚できない人間なのだろう。「口が軽い」。それが、この所信表明演説にもあらわれている。「早く行きたければ一人で進め。遠くまで行きたければ、みんなで進め」という、日常的に聞かない「他人のことば」を平気で引用するところからもわかる。「聞く力」をアピールし、「国民の声」を書き留めたノートがあるそうだが、どうにもあやしい。「一人暮らしで、もしコロナになったらと思うと不安で仕方ない」「テレワークでお客が激減し、経営するクリーニング屋の事業継続が厳しい」「
里帰りができず、一人で出産。誰とも会うことが出来ず、孤独で、不安」。もっともらしいが、こんなことを直接岸田に言える人は誰だろう。「アフリカのことわざ」のように、どこかからかテキトウに引用したものではないのか。
 何も考えず、「他人のことば」をそのまま引用し、大失敗したことが岸田にあるはずだ。新聞(読売新聞)は明確には書いていなかったが、共同声明さえ出せなかった日露首脳会談の内幕をラブロフに暴露されていたではないか。交渉の過程で「日本が経済援助しているんだから、北方領土の二島を返して」と言ったのだろう。それは安倍かだれかが「日本が金を援助するのだから、ロシアは北方領土を返すだろう。それが常識だろう」というようなことを言って、それをそのままラブロフとの交渉で言ってしまったということだ。だからラブロフが怒って「ロシアは日本に経済援助(支援)を持ちかけたわけではない。日本が支援すると言ってきたのだ。(だから見返りとして北方領土を返還する必要などない)」と言い切られてしまった。で、その結果を引き継いでの、安倍の故郷での日露階段は大失敗、さらに日露会談(北方領土の二島返還)成功をひっさげての年末の衆院解散→総選挙で圧勝という計画もつぶれてしまった。私はこのとき新聞社に勤めていたので、新聞社が総選挙の準備にあたふたしているのを知っている。私は、ラブロフの内幕暴露の記事を読んで「総選挙なんて、絶対ない」と言っていたのだが、この予測は誰にも信じてもらえなかった。私は自民党支持者ではないが、あのとき「岸田の政治生命は終わった。こんな口の軽い人間が政治をリードできるはずがない」と確信した。
 この「口の軽さ」というか、自分で世界を把握するのではなく、「他人のことば」に乗っかるというのは、甘利を自民党幹事長にし、麻生を副総理にするという「人事」にも端的にあらわれている。岸田が考えた人事ではなく「周辺」が考えた人事をそのまま「聞き入れている」ということだ。岸田にあるのは「聞く力」ではなく「聞いて、鵜呑みにする力」である。それを言ったらどうなるか、を考える力がない。演説で披露した「国民のことば」を読んでみればいい。その「声」を聞いたとき、私はこう言った、とはどこにも書いていない。岸田にそういう訴えをできるひとが、いったいこの国に何人いるかを考えてみればいい。「口が軽い」から、こういうデタラメを言えるのだ。もし、岸田が、ほんとうに国会で披露したような声を聞いてノートに書きためているというのなら、みんなで岸田に電話をかけてみよう。岸田に会いに行ってみよう。「みんなで進め」と岸田が言ってくれている。まさか「みんなでこられたら困る」と追い返したりはしないだろう。

 私が思うに、岸田がほんとうに「ことばの人」(ことばを大切にする人)なら、ノートに記されているはずの広島の被爆者の声をこそ、国連などの積極的に紹介すべきだろう。それができないなら、そのノートは単なる飾りだ。何かのときに「つかえそうなことば」を集めたアンチョコにすぎない。

 

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