高橋睦郎『永遠まで』(4)(思潮社、2009年07月25日発行)
七歳のときにみた祖母の記憶。乳房から乳を絞り出している。その若いいのちの記憶--それを描いている。そして、その記憶を高橋は「横顔」として覚えている。1行目の冒頭に出てくる。
この「横顔」には「意味」がある。
見えている「横顔」の裏側には、見えているものと違ったものがある。--そして、その「事実」は冒頭の1行そのものをも裏切って動く。「八十歳」の祖母。その横顔は、ほんとうは片目がつぶれている。ほんとうは高橋はつぶれた方の目の横顔を見ている。けれど、意識は、そのむこうがわにある「若い時代の祖母」を見てしまうのだ。
ほんとうに七歳のときにみた光景なのか。あるいは、乳房が張って痛い、だからあまった母乳を絞り出して捨てる--という若い母性の話を聞いて、その話の中に若い祖母の姿が重なるようにして紛れ込んできたのか。
それがほんとうであるか、それとも紛れ込んできた錯覚であるか--それは重要なことではないのかもしれない。それが錯覚であっても、ことばとして動かしていくとき、そこに「いのち」があふれだす。
これは、ことばの力がそうさせるのだ。ことばは記憶をよみがえらせるためにある。ことばのなかに、記憶がよみがえる。それは、死んだひとがふたたび生き返ることである。ただ生き返るのではない。生き返って、詩人のことばを生きなおす。詩人といっしょに、もう一度、人生をやりおなすのである。そのやりなおしの人生の伴侶としての詩人。そこに、愛がある。
祖母は八十歳
横顔の祖母は 八十歳
つやつやと張った片乳房を
古寝巻の襟から こぼして
両の手でもみしだく しぼりたてる
細い 勢いのいい 乳の筋が二本 三本
小さな金だらいのふちを 叩く
たらたらと音を立てて つたい落ちる
「朝になると 張りつめて痛くてね」
驚いて見つめるぼくを 尻目に
言いわけのように つぶやくのだ
彼女の末の息子 ぼくのあこがれの叔父が
二十歳で ビルマの野戦病院で死んで
もう 何年も経っているというのに
この奇怪な若さは 何だろう
がっしりと 骨太な怒り肩
掘り出された土俗の女神の横顔
だが こちらからは見えない
むこうがわの片目は 潰れている
ぼくは七歳 いいや 七十歳
横の祖母は 永遠に若若しい八十歳
三十年後 ぼくが百歳になっても
七歳のときにみた祖母の記憶。乳房から乳を絞り出している。その若いいのちの記憶--それを描いている。そして、その記憶を高橋は「横顔」として覚えている。1行目の冒頭に出てくる。
この「横顔」には「意味」がある。
掘り出された土俗の女神の横顔
だが こちらからは見えない
むこうがわの片目は 潰れている
見えている「横顔」の裏側には、見えているものと違ったものがある。--そして、その「事実」は冒頭の1行そのものをも裏切って動く。「八十歳」の祖母。その横顔は、ほんとうは片目がつぶれている。ほんとうは高橋はつぶれた方の目の横顔を見ている。けれど、意識は、そのむこうがわにある「若い時代の祖母」を見てしまうのだ。
ほんとうに七歳のときにみた光景なのか。あるいは、乳房が張って痛い、だからあまった母乳を絞り出して捨てる--という若い母性の話を聞いて、その話の中に若い祖母の姿が重なるようにして紛れ込んできたのか。
それがほんとうであるか、それとも紛れ込んできた錯覚であるか--それは重要なことではないのかもしれない。それが錯覚であっても、ことばとして動かしていくとき、そこに「いのち」があふれだす。
横の祖母は 永遠に若若しい八十歳
三十年後 ぼくが百歳になっても
これは、ことばの力がそうさせるのだ。ことばは記憶をよみがえらせるためにある。ことばのなかに、記憶がよみがえる。それは、死んだひとがふたたび生き返ることである。ただ生き返るのではない。生き返って、詩人のことばを生きなおす。詩人といっしょに、もう一度、人生をやりおなすのである。そのやりなおしの人生の伴侶としての詩人。そこに、愛がある。
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