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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(167 )

2011-01-05 10:02:28 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(167 )

 『豊饒の女神』のつづき。「最終講義」。

けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で
なければタバコを
すわないと叫んでみても
やはりあの古いネツケがすいたい

 岡井隆が『詩歌の岸辺で』で平田俊子の詩に就いて書いている。平田は最初から最後まで計算されつくした上で書かれたものというよりも漠然とした感覚で書きすすめるタイプではないのか、と推測している。
 西脇はどうだろう。私には、西脇も漠然とした感覚で書きすすめるタイプだと思う。漠然とした感覚で書きすすめるだけではなく、書きまちがい(?)というか、書いている途中で気が変わったら、それはそのとき、前に書いたことを書き改めるのではなく、そのまま残して次へ進んでいくタイプではないかと思う。
 この書き出しには、特にそういう印象がある。何を書くか--それはまだ明確になっていない。「けやきの木」と「先生の窓」の関係は西脇のなかで決まっているわけではない。「けやきの木」は「先生」の部屋へ行く途中で見たものか。あるいは、「先生」の部屋から窓越しに見えるものか、決まっていない。「決まっていない」というのは変な言い方だが、西脇はどちらの意味と決めてそのことばを書いているのではないということだ。西脇が「体験した事実」と「ことば」は別のものなのである。西脇の「現実」と「ことば」は別のものであり、西脇は「ことば」を優先させて「現実」をつくっているのである。
 最初から最後までを計算しつくして詩を作り上げるのではなく、ことばを動かしてみて、その動きにしたがって詩を先行きをまかせる--そういう詩人だと思う。

先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で

は、「学校教科書」の「文法」では「先生の窓に梨色のカーテンがかかっている」でいったん終わって、「死の床の上で」は別のことばと1行をつくるべきものだろう。しかし、西脇はそれを1行にしてしまう。なぜか。

けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている

 これでは1行目と2行目が「対句」になってしまう。「いる」「いる」と脚韻を踏んでしまう。そして、こんな言い方が正しいかどうかわからないが、「対句」になることでことばがことばであることをやめて「現実」になってしまう。「意味」になってしまう。外から先生の窓を見ているのか、あるいは先生の部屋から外を見ているのかわからないが、「見る」ということ、そして、その「見る」が「けやき」と「窓」を結びつけてしまうことから「意味」が生まれてきてしまう。「かれている」が「木」と「窓」に結びつけば、それは「病室」になり「死」が暗示される。そういう窮屈さがどうしてもでてきてしまう。

けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で

という2行は、いわばその「死」を踏まえてことばを加速させたものだが、ここからが西脇独特の音感(リズム感)のおもしろさだ。「意味」へぐいと突き進みながら、その「意味」を「無意味」に変えてしまう。

けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で
なければタバコを

 「なければタバコを」には「意味」がない。「意味」に通じるものがあるかもしれないが、この1行は完結していない。「未完」である。あらゆる可能性へ向けて開かれている。「木」「窓」「かれている」「死」という「意味」を破るために、西脇はわざと、そういう不完全な1行を挿入しているのだ。「意味」をつくるのではなく、「意味」を破る--それが西脇の詩であるかぎり、西脇は詩の構造を最初から計算して書くということもできはしない。ことばが「意味」になろうとする--そういう動きにであったら、それを否定する、というのが西脇の詩なのである。

けやきの木がまたかれている
先生の窓に梨色のカーテンがかかっている死の床の上で
なければタバコを
すわないと叫んでみても
やはりあの古いネツケがすいたい

 「タバコを/すわないと叫んでみても/やはりあの古いネツケがすいたい」という部分にも不思議な「意味」の破壊がある。タバコをすわないと叫ぶとことと、ネツケがすいたいと思うことの間には、「意味」がない。
 --ただし。
 私がいう「意味がない」にはひとつ前提がある。「ネツケ」がタバコの銘柄ではない、という前提が必要である。もし「ネツケ」がタバコの銘柄なら、「タバコを/すわないと叫んでみても/やはりあの古いタバコ(ネツケ)がすいたい」と「意味」をつくってしまうからである。すわないと叫んでみたものの、あのタバコだけはすいたい、と「意味」になり、また私たちがふつうになじんでいる「学校教科書」の「文体」になってしまう。
 私はタバコを吸ったこがないし、関心もないのでよくわならないが、「ネツケ」をタバコとは思わなかった。
 で、何と思ったかというと--「にっけい(ニッキ、シナモン)」である。にっけいの棒。それは「すう」というよりも「しゃぶる」「なめる」ということばのほうがふさわしいのかもしれないが、まあ、タバコのように口にくわえる。そういう口の動きを、わざと「すう」ということばで結びつけている。
 「古い」ということばも出てくるが、ここでは西脇は、「現実」から「思い出」(記憶)へと動かすということもしているのだと思う。「現実」(けやき、かれる、先生の窓)が「思い出」(にっけい)によってかき混ぜられ、時間が交錯する。そして、その時間の交錯は、

まだこの坂をのぼらなければならない
とつぜん夏が背中をすきとおした

 と「夏」を呼び込む。けやきが「かれる」は、ふつうに考えれば「秋」である。もちろん「葉」ではなく「木」と書いているのだから、それは季節は関係がないかもしれないが、「古いいねつけ」と、その前の不思議な文脈の破壊が時間の構造を解体し、それ以後のことばの自在な時間の往復を呼び込んでいるといえるだろう。
 西脇は、いつでも自在なことばの運動だけを優先している--と私には思える。そういう自在な運動というのは、最初から最後までを決めてしまう詩の書き方とはまったく違っている。何か漠然とした書きたいものはあるけれど、それを決めてはいない。書きながら探すということになると思う。
 「結論」(意味)を決めていない。だから、西脇の詩はおもしろい。



 「ネツケ」に関する補足。
 私は以前、新潟のことばは「い」と「え」があいまいである、と指摘した。(東北のことばに共通することかもしれない。)NETUKE、NIKKEI、NIKKI。ローマ字で書いてみるとよくわかる。「え」を「い」に変えると「ねつけ」はそのまま「肉桂(ニッキ)」になる。
 ここに「方言」(なまり?)を持ち込むことで、西脇の「いま」と「古い時間(古里の時間)」が交錯する。「いま」(東京)と「過去」(新潟)が交錯するとき、そこには幅の広い「時間」と「空間」が広がる。東京-新潟は日本のなかにとどまるが、「いま」と「過去」のあいだの「時間」のうちには西脇は日本を飛び出しヨーロッパにも行っているから、東京-新潟という「広がり」は「時間」を加えることでさらに日本-ヨーロッパという広がりを含むことになる。
 ことばは、その領域を自在に駆け回ることになる。その自在さが、冒頭でつくりだされたことになる。



西脇順三郎全集〈第1巻〉 (1971年)
西脇 順三郎
筑摩書房


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誰も書かなかった西脇順三郎(166 )

2011-01-02 11:49:52 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『豊饒の女神』のつづき。
 だれの詩にも、まったくわからない行(ことば)というものがある。西脇の詩の場合、「わかる」といえる行の方が少なく、私はかってにわかったつもりになっているだけなのだが、そのかってにわかったつもりにもなれない行があるから、ちょっと自分がいやになるときがある。
 「九月」。

またカマクラへもどつた
戦争の時代には朝に道をきいて
金沢街道をまがると
茄子に水をやる
あの老人のまがつた足などを
ほこりのいたどりとともに見れば
夕に死ぬもかなり
すべて思い出である
つまらないものだけが
永遠のイメジとして残る
それはローソクを買いに出たのだ
昔のように茄子ときうりとみょうがを
きざんで醤油をかけて
白シャツをきてたべてみたい

 「つまらないものだけが/永遠のイメジとして残る」の「つまらない」は別のことばで言えば「淋しい」だろう。その「淋しさ」に「まがつた(まがる)」が同居するのは西脇の特徴である。
 そう理解した上で、

それはローソクを買いに出たのだ

 この1行が私にはまったくわからない。何を読み違えたのだろう。私はカタカナ難読症だからもしかしたら「ローソク」は「ろうそく(蝋燭)」ではないのかもしれない。そう思って何度か読み返すが、どうみてもローソクである。
 戦争の時代、夜停電があり(あるいは灯火規制があり電灯がつかないことがあり)、明かりが必要なのでろうそくを買いに行ったということだろうか。そう解釈すれば「意味」は通じるが、なんとも窮屈である。朝に道をきいて夕に死すという文脈からも「夜(ろうそく)」が出てくる余地はないように思える。
 これはいったい、何?
 わからない行を含むのだが、私は、実はこの部分がとても好きだ。「永遠」の定義が好きだし、「ローソク」のあとの3行が、とてもしゃきしゃきした音でつくられていて気持ちがいいのだ。「き」うり、「き」ざんで、白シャツを「き」ての「き」がつくりだすリズムが気持ちがいい。みょうが、醤油、シャツにも通い合う音がある。
 なぜ「白シャツをきて」という味とは無関係なことばがあるかといえば、もちろん書き出しの

つくつくぼうしが
もう鳴いている
断頭台に行く囚人のように
白いシャツ一枚をきてポプラの
なみき路をひとり歩く

と関係するのかもしれないが、そんな絵画的なこだわりよりも、「白シャツ」という音そのものが私には美しく感じられる。「白いシャツ」ではなく「白シャツ」というのもいいなあ。ことばが短くなって、その分、次のことばの登場が早くなる。この速度感が楽しい。




詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(165 )

2011-01-01 12:51:45 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(165 )

 『豊饒の女神』のつづき。「桃」は後半がとてもおもしろい。

この寺にはまだ根岸のクコの生垣が
残つておりますそれでも見ていつて下さい
悲劇の誕生はおさけなさいましよ
銀のナイフをつけ露にしたたる
桃を出してどうぞめしあがつて!
つれの女とさつきとうふをたべたばかり
その危険な関係を謝した
遠く旅立つ人がいないのは悲しい
こんなに別離の情がわき出ているのに!
たそがれのきらめきが
藤だなのくらやみにゆれている

 突然出てくる「とうふ」にびっくりしてしまう。

つれの女とさつきとうふをたべたばかり

 なぜびっくりするかというと、桃をすすめられて、それを断るのには変な理由だなあと感じるからだ。とうふをたべたから桃が食べられない? そういう状況がわからない。いったい、何? 事実?

 わからないものに驚いたとき、ひとはどんな反応をするのだろう。
 私は笑いだしてしまう。たぶん、笑うことで、ふいにやってきた緊張をほぐすのだと思う。これは私の自己防衛本能のようなものである。笑わずに、これ何? と真剣に考えはじめると苦しくなる。だから、笑ってリセットし直すのである。
 そういうリセットは、笑いながらも、どこか悲しいものを含む。淋しいものを含む。自分のなかからなじんでいた自分が離れていくような感じがする。
 そんなことを思っていると、

遠く旅立つ人がいないのは悲しい

 という行がやってくる。わけはわからない(意味の脈絡はわからない)のだが、そこに「悲しい」ということばがあるので、ふいになつかしいような、あ、これだ、この悲しみだ、私がいま感じているのは--と錯覚する。
 何もわかっていないのに、その行がこころに落ち着く。繰り返して読んでしまう。繰り返し読むと、なんとなく、肉体のなかで「悲しい」がほんとうになるような気がするのだ。
 追い打ちをかけるように、

こんなに別離の情がわき出ているのに!

 これも変だねえ。桃をすすめられ、ほかの女ととうふを食べたばかりだと思い出し、急に悲しくなる。
 もし、ここに旅立つ人がいるなら、そのひとにことよせて、悲しい気持ち、別離を悲しむ気持ちを発散することができるのに……。

 脈絡があるようで、ない。ないようで、ある。まあ、あるように、読んでしまうということなのかもしれない。
 こういう変な(変じゃない、これにはこういう意味がある、という声もあるかもしれないけれど……)行が、変だけではなく、おもしろいと感じるのはなぜなのだろう。なぜ何度も何度も読み返してしまうのだろう。
 私はやはり「音」に引きこまれるのだと思う。いろいろな音があるが、「た行」の音のつながりだけを取り上げてみると、

ぎんのないふを「つ」け「つ」ゆにし「た」「た」る
ももを「だ」して「ど」うぞめしあが「つ」「て」
「つ」れのおんな「と」さ「つ」き「と」うふを「た」べ「た」ばかり
そのきけんなかんけいをしゃし「た」
「と」おく「た」び「だ」「つ」ひ「と」がいないのはさびしい

 「連れ」の女と「とうふ」「食べた」、「遠く」「旅立つ人」--特に、そこに「た行」の音が集中して、豆腐と旅立つ人が不思議な感じで接近する。「その危険な関係を謝した」という行には最後に「た」が出てくるが、これは私には非常に印象が薄い。まるまる1行「た行」がなかったかのような印象がある。その「た行」の空白の1行が、さらに「つれの女……」と「遠く旅立つ人……」の「た行」の呼びかわしあいをくっきりさせるように思える。




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誰も書かなかった西脇順三郎(164 )

2010-12-22 11:23:34 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(164 )

 『豊饒の女神』のつづき。「あざみの衣」は、とても好きな詩である。どこが好きなのか--説明するのはむずかしい。

路傍に旅人の心を
悲します枯れた
あざみのうすむらさきの夢の
ようなものが言葉につづられる
あざみの花の色を
どこかの国の夕陽の空に
たとえたのはキイツという人の
思い出であつた

 2行目がとても不安定である。不安定--というのは、「悲します枯れた」ということばが「意味」をもたないからである。この1行だけでは何のことかわからない。わからないけれど、「悲します」は1行目につながっていることはわかる。「旅人のこころを/悲します」であることはわかる。そして、「枯れた」は次に登場する何かを修飾することばであることも想像できる。「意味」はわからないが、この1行のなかで、ことばが普通とは違うスピード(普通よりは早いスピード)で動いていることがわかる。「か」なします「か」れたという頭韻がスピードを加速させていることもわかる。--わたしは、きっとこのことばのスピード感が好きなのだ。
 そして、西脇のことばのスピードは、直線の高速道路を走るようなスピード感ではない。複雑な街角を曲がっていくときのスピード感である。急ブレーキと一気にエンジンを噴かせる燃料の爆発のようなものが同居している。ブレーキの音や道に落ちているものをはねとばすノイズのようなものも混じっている。しかし、それはすべて「軽快」である。そこが好きなのだ。
 よく読むと1行目から、とても変なのだ。

路傍に旅人の心を

 「路傍に」を受け止めることばが1行目にはない。1行目は1行として独立していない。詩の1行目が1行として独立していなければならないという理由などないけれど、たとえば1行目が「路傍に」だけであるとか、あるいは「旅人の心を」だけであると仮定してみると、西脇の書いている1行の特徴がよくわかる。
 「路傍に」あるいは「旅人の心を」は、それぞれ独立している。けれど「路傍に旅人の心を」は独立していない。なにかしら次の行をせかせるものがある。「路傍に」どうしたんだ、「旅人の心を」どうしたんだ(どうするんだ)とふたつの思いがことばを駆り立てる。「路傍に」か、「旅人の心を」が1行だったら、それはどちらかの思いがことばを駆り立てるだけだが、「路傍に旅人の心を」だと、ふたつの思いがことばを駆り立てる。
 駆り立てるものが「ひとつ」か「ふたつ」か。
 西脇のことばは「ふたつ」を駆り立て、そして、そのどちらに重点があるかを明らかにしない。「あいまい」である。これが、たぶん、おもしろさの「秘密」である。詩の「秘密」である。
 「散文」だと、こういう文章は嫌われる。ある事実を踏まえ、その先にことばを動かしていく。ふたまたの道を用意していては、ことばはどちらへ行っていいか迷ってしまう。読者はことばの動きを予測できない。したがって、読むスピードが落ちる。これは散文にとっては不幸である。迷いながら長い文章、積み上げられた文章を読むのはつらいからね。
 ところが詩ではこういう運動が逆の効果を産む。ふたまたの道によって、どっちへ行ったっていいじゃないか、という「自由」が生まれる。どうせ「長旅(長い文章)」ではない。ぶらぶらしていけばいい。そのときそのとき、道草をする楽しみを味わえばいい。
 「ふたまた」は、また方向性が見えないことをとらえて「不安定」と呼ぶこともできる。そして、そう考えるとき、2行目が、その構造がより鮮明に見えてくる。2行目「悲します枯れた」は「ふたまた」を加速させる「ふたまた」である。このときの「また」は「またがる」の「また」でもある。「ふたつ」を「また」いで、「ひとつ」にし、その「ひとつ」のなかへ加速して飛びこむのである。
 「ひとつ」って、どっち?
 わからないねえ。
 わからなくしているのだ。わからなくて、いいのだ、そんなことは。
「ふたつ」を「また」いで「ひとつ」にして、その「ひとつ」をさらに突き破っていく。そのスピードの中に詩がある。
 「わからない」ものをあれこれ分析して「意味」にしてしまったら、「ふたつ」を「ひとつ」にする強引な喜びが消えてしまう。

 たとえば川がある。あるいは深い深い溝がある。それを跳び越す--そういう危険なことをせずに橋を渡ればいいという考えもあるけれど、この「跳び越す」よろこび、ね、味わったことがあるでしょ? 何でもないことなのだけれど、「肉体」に自身があふれてくる。「できた」というよろこびがあふれてくる。
 これに似ているのだ。西脇のことばの運動の、不安定なよろこび、不安定なスピードの加速は。どうしようかな、跳べるかな、ちゃんと着地できるかなという不安と、「ほら、やれ、がんばれ」という悪友のはげましが交錯する中、ともかくやってしまうのだ。

 跳び越してしまって、後ろを振り返ると、不思議なものが見える。走ってきて、跳び越す瞬間に見えた何か--それは障害物だったのかな? それともジャンプ台だったのかな?
 たとえば、この詩では「ようなものが言葉につづられる」という1行。前の行からわたってきた「ようなもの」という行頭のまだるっこしさ。それは「障害物」? それとも「ジャンプ台」? 「キイツ」は? それは「障害物」なのか、それとも「ジャンプ台」なのか。
 わからないけれど、そのわからないものが全部「背景」になって輝いている。
 それは、どうやっ跳べたのかわからないけれど、跳び越してしまったときの「肉体」のなかにあふれてくるよろこびの輝きに似ている。




西脇順三郎詩集 (新潮文庫 に 3-1)
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誰も書かなかった西脇順三郎(163 )

2010-12-21 12:22:29 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(163 )

 『豊饒の女神』の「豊饒の女神」つづき。

 後半は、

幸福もなく不幸もないことは
絶対の幸福である
地獄ものなく極楽もないところに
本当の極楽がある

 という行から、「意味」の強いことばを挟みながら動いていく。私は、西脇が書いていることをそのまま受け取ることができずに、「絶対の幸福」「本当の極楽」を、逆に「絶対の不幸」「本当の地獄」と読んでしまう。なぜか、書き落とされた(?)ことば「地獄」がとても気にかかってしまう。
 そして、それが最後に突然よみがえってくると、なぜか、うれしくなってしまう。

これは豊饒の女神であり
祭祀の二月の女であるか
春の野げしもタビコラも
地獄の季節をにげて
セメントのすきまから
また人間のいるところへ
頭を出して
何事かささやいている
弓の弦の大工のささやきをさけようと
祈るやがてソバやにあがり
三級酒に生物の無常を
語る日が近づいた

 「地獄」の復活がうれしいと同時に、私は、ここでは「さ行」の動きが音楽としてとてもおもしろいと思う。豊饒、祭祀、野げし、地獄、セメント、すきま。そこには「さ行(ざ行)」が動いている。
 それは「ささやいている」「ささやきをさけようと」ということばを経て「ソバや」へとつながる。そば屋がでてくるのは「諧謔」、ユーモアというものかもしれないが、うどん屋やてんぷら屋では音が違ってくる。「三級酒」「生物」「無常」とつながっていくとき、そこは絶対に「ソバや」でなくてはならないのだ。
 この「さ行」の音楽を優先させるために、「祈る」という強いことばは、行の冒頭にあるにもかかわらず、「意味」を奪われ、埋没している。「意味」を剥奪するために、西脇は、あえて行のわたりをして、そのことばを行頭に置いたのかもしれない。
 「意味」ではなく、音楽。酒、日本酒ではなく「三級酒」ということばが選ばれているのも、ただ音楽のためだと私は思う。
 この音の選択は西脇が意識していたことかどうかわからない。無意識にやっていたことかもしれない。無意識だとすれば、それは「本能」というのもだと思う。そうだとすれば、その「本能」こそが「思想」だと私には思える。




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誰も書かなかった西脇順三郎(162 )

2010-12-19 14:19:38 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(162 )

 『豊饒の女神』のつづき。
 「豊饒の女神」の書き出しは西脇の音楽をとてもよくあらわしている。

二月だのに秋の枯葉の音がする
税務署へ出す計算をたのみに
田園の坂の町をさすらつた
夕陽は野薔薇の海で
街路をオペラの背景のように照らしている

 もし、1行目、その書き出しが「二月なのに」だったら、この詩は動いていかない。「なのに」「だのに」は「意味」は同じ。同じだけれど、響きがぜんぜん違う。
 二月「な」のに、だったら、あき「の」はれは「の」と「な行」が響き、次は「ね」がする、と読んでしまうかもしれない。
 二月「だ」のに、だから、あきのかれはのお「と」がする、とつづき、それが次の行の、ぜいむしょへ「だ」すけいさんを「た」のみに、とつながり、さらに3行目の「で」んえんのさかのま「ち」をさすら「っ」「た」と響いていく。
 この3行には「だ」のに、「ぜ」いむしょ、「だ」す、「で」んえんという濁音の響きも美しく響いている。そして、これが「な」のにだとしたら、4行目の野薔薇、の「ば」ら、の濁音が登場する理由がなくなる。「だ」という濁音が、の「ば」らという濁音を呼び寄せている。また、「だ」という濁音が、「野薔薇の海で」の「で」を許しているである。

夕陽は野薔薇の海で
街路をオペラの背景のように照らしている

というのは、なんとも華々しいイメージで、絵として見るには芸術的というよりは、かなり毒々しい。うるさい。けれど、これを音楽から見るとまったく違う。
 「のばら」は「オペラ」のためにあるのだ。絵画的イメージを超えて、ここでは音楽が優先しているのである。
 のば「ら」、おぺ「ら」は、さらに、て「ら」してい「る」という「ら行」につながっていく。
 このとき「だ行」(た行)ではじまった音楽が「ら行」にかわっているのだが、ここには西脇の出身地、新潟の「音」の影響があるかもしれない。「た行」と「ら行」は「ら行」をRではなくLで発音するとき、とても接近する。
 私は西脇自身の声を聞いたことがないが、私の生まれの富山の東部、つまり新潟よりの人が「ら行」をLで発音するのを聞いた記憶がある。「オペラ」は外国語そのものはRの音だが、RとLを基本的に区別せず同じ音として聞いてしまう日本人には、Lで発音してしまうということもあるかもしれない。西脇自身は英語の人間なので、明確に区別するだろうけれど。
 まあ、ここには、私の感じている音楽と、西脇の耳とのすれ違いがあるのだけれど、すれ違いと感じながらも、先の引用が次のように展開していくとき、私はそんなにずれたことを書いているのではないという気持ちにもなる。

おつ 先をよこぎるものがあつた

 突然の変化。「先をよこぎるものがあつた」の「先」。これはもちろん「目の先」なのだろうけれど、私には「音の先」(耳の先)のようにも感じられるのである。
 「た行」と「ら行」、その揺れ動きのなかにLとRが交錯して動く。あれは何?

猫ではなかつた
射られた虎が足をひきずつて
森へにげこむように
貧しいびつこの老婆がよこぎつた

 「猫」と「虎」。まあ、似ているね。LとRのようなものかもしれない。
 私の書いていることは、たぶん強引な「誤読」というものだろうけれど、私はどうしてもそんなふうにしか読めない。
 ひとがことばを動かすとき、「意味」だけでは動かせない。
 「二月なのに」と書くか「二月だのに」と書くか、そのとき、そのことばを選ばせているのは「意味」ではない。肉体にしみついた音楽である。

貧しいびつこの老婆がよこぎつた

 この行の「びつこ」は今ではたぶん西脇も書かないだろうけれど、そのことばが選ばれているのも「び」つこ、ろう「ば」という音のためなのである。

 この「老婆」から詩のテーマ、「豊饒の女神」が動きだすのだが、テーマそのものは私にはあまり関心がない。だから、書かない。




西脇順三郎詩集 (新潮文庫 に 3-1)
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誰も書かなかった西脇順三郎(161 )

2010-12-17 10:54:15 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(161 )

 『豊饒の女神』のつづき。
 「二月」。

こん夜は節分である
だんなの豆まきの日であつた
だが論文をかかなければならない
なにも書くことがない
冬は梅の中にふるえている
なさけない女のような日だ
ああ灰色のペルシャ猫の
なくなつた言葉を祭る日だ

 この書き出しのリズムがとても気持ちがいい。イメージの展開も楽しい。あることを書いて、そにれ関係するのか、関係しないのか、関係するといえば関係するし、関係ないといえば関係ない、そういうイメージを展開する遊びのような気持ちが楽しい。そして、気持ちが楽しいと書いたとたんに、「気持ちが楽しい」というのは変なことばだと思いながら、私は、これは何かに似ているなあ、と感じる。
 あ、連歌だ。

こん夜は節分である
だんなの豆まきの日であつた

 これは、発句。あいさつだね。書いたのは、豆まきに招かれた客である。「だんなが豆まきをするというので、およばれにやってきました。お招きしてくださり、ありがとうございました」。
 この2行に対して、主人が答える。

だが論文をかかなければならない
なにも書くことがない

 あ、そうか、豆まきの日だったか。だが、論文を書かなければならない。豆まきをしている暇はない。なにも書くことがないから、書くことをつくりださなければならない。
 これは季節を分ける「節分」を、まあ、むりやりの「記述」のようなものと解釈して、何かを書くことは、何かを分節することだ、などとしゃれているかもしれない。

 節分であることと、だんなが豆まきをすることと、論文をかかなけれはならないということのあいだには何の関係もないが、それを「つなげる」者の意識のなかには「つながり」がある。そして、それを「つなげて」読むものの意識のなかにも「つながり」が生まれてくる。
 詩は、そういう「むりやり」の意識、「つながり」遊びの意識のなかにあるのかもしれない。
 この冒頭の4行は、連歌にしては突然過ぎる展開かもしれないけれど、「現代詩」なのだからこれくらいの飛躍はあっていいだろう。

冬は梅の中にふるえている
なさけない女のような日だ

 この2行は連歌では「反則」かもしれない。最初の2行、いや、それ以前にもどってしまうからね。しかし、やはり「現代詩」なのだから、連歌そのものでなくてもいい。ただ、前に書いたことと、「つながり」ながら「はなれる」。その接続と分離を繰り返して、ことばをどこかへ動かしていけばいいのだ。
 あ、そんな動かし方があったのか、そんな取り合わせがあったのか、と思い、それを楽しめばいいのだ。
 前の4行が「男(だんな)」の世界だったので、ここでは主役を「女」へと動かしているのだ。

 一方、連歌は、前へ前へと進むが、西脇のことばは、そういう方向には頓着せず、過去の(前の)ことばの世界を引っかき回すようなところがあると思う。「節分」なのに、「冬」へもどる。「節分」のなかにある「春」ではなく、西脇は「冬」をひっぱりだしてきて、それが「ふるえている」と書く。
 このとき、梅が冬のなかでふるえているなら、それは節分の印象に非常にぴったりした感じがする。あるいは「春は」梅の中にふるえている、硬い梅のつぼみをえがいていることになるかもしれないが、西脇は「冬は」梅の中にふるえていると書く。
 一瞬、えっ、何? と感じる。その、「わからなさ」がおもしろい。
 「連歌」自体、ある「世界」に別の「世界」をぶつけて遊ぶものだが、そういう衝突の瞬間はいったい何が起きたかわからない。一瞬の空白があって、そのあと衝突によって「新しい世界」が動きはじめる。
 新しい世界が動きはじめるためには、空白--驚きが必要なのだ。

 この「空白」--意識の空白を利用して、西脇のことばは加速する。

ああ灰色のペルシャ猫の
なくなつた言葉を祭る日だ

 「節分」はどこかへ完全に消えてしまった。けれど、どこかで「論文をかかなければならない」「なにも書くことがない」を引きずっている。かきまわしている。「なくなつた言葉」ということばが。
 いや「節分」は消えていない。「祭る日」ということばのなかに生きている、ということもできる。
 --なんだって言える。これが、たぶん一番楽しいことばの楽しみ方なのだと思う。
 私流に言いなおせば「誤読」を楽しむ、ということだが。


西脇順三郎詩画集「〓」 (1972年)
西脇 順三郎
詩学社


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誰も書かなかった西脇順三郎(160 )

2010-12-15 11:43:48 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(160 )

 『豊饒の女神』のつづき。
 私は「意味」ではなく、音に引きずられる癖がある。「女の野原」。

夢ははてしなくつづく
窓から首を出して考える男の
心のくらやみにはもう
すみれも涸れてパンジーも見えない
おぼえているのはてんてんまりない
ふくべとあんずとからす
げんごろうむしとふなだ

 引用部分の最後の2行を漢字混じりで書くと

瓢と杏と烏
ゲンゴロウ虫と鮒だ

 になるのだと思うが、私には「ふなだ」がどうしても「鮒だ」が結びつかない。「だ」が「である」という「断定」のことばとは思えない。
 「ふなだ」という虫(?)や植物があるとは思えないのだけれど、そういう私の知らないものがここに書かれていると思いたいのだ。西脇の詩にはたくさんの植物が出てくる。私は田舎育ちなので、そこに書かれている野の草花は見ていることが多い。そして見ていることは見ているけれど、どっちにしろ山の花、野の花と思って生きてきたので、名前はほとんど知らない。その名前は知らないけれど、どこかに咲いていたり、どこかで遊んでいる虫--それだと思いたいのだ。その知らない「名前」に触れたとき、あ、ことばはこんなところにもある、という驚きが生まれる。あ、こんな何でもない花にも「名前」をつけてきた人がいるんだという驚きが生まれ、なんだかなつかしい気持ちになる。その「気持ち」が優先して「ふなだ」という何かわけのわからないもの求めてしまうのだ。それは「ふなだ」が「鮒だ」とわかったあとでもそうなのだ。
 なぜ、こんなことが起きるか。ひとつには、先に書いたように、「名前」があるにもかかわらず、名前を知らずに見てきたはずのものがある、ということがある。その「もの」の名前の力と関係がある。「もの」に名前をつけるとき、そこには何かしらの「思い」がこめられている。その「思い」、長い時間をかけて引き継がれてきた「思い」が、そこに生きている。「意味」も「もの」もわからないのに、何かその「思い」だけが、そのことば、その音から噴出してくるように感じるのだ。
 音というのは不思議なものだと思う。声というのは不思議なものだと思う。それは「耳」で聴き取り、その「意味」を判断するのだけれど、私の場合、どうも「耳」だけでは「意味」を判断しないようなのである。自分のことなのに、ようなのである、というのも変だけれど、そのことばを自分で声にしたときに感じる肉体の喜び、喉や口蓋、舌、歯、鼻腔などの動きがどうも影響している。肉体に気持ちがいい音は、意味を超えて、好きになってしまう。その音を中心に書かれていることを判断してしまったりするのだ。

げんごろうむしとふなだ

 この1行は、「げんごろうむしとふな」だったら、私の場合、とてもつまらなく感じてしまう。「ふなだ」によって肉体が落ち着く。そしてそれは「鮒だ」ではだめなのだ。「鮒である」という「意味」になってしまってはだめなのだ。
 「やなだ」のまま、「やなだ」って何? そう思うこころ、肉体のなかに響く音を聞きながら、「ふなだ」という「もの」、私が見てきているはずなのに、その「名前」を知らないもの--それを音をたよりに探す。そのときの、不思議な感覚が、私は好きなのだ。その、知っているけれど知らないものを探すということと、詩が、とても強い関係にあると感じているのだ。

ふくべとあんずとからす

 この1行を例に、言いなおした方がわかりやすいかもしれない。
 「ふくべ」は「ひょうたん」だと思う。田舎にいたころ、どこかで、「ふくべ」という音を聞いた記憶がある。ひょうたんを植えていた家で聞いたのかもしれない。そんな役に立たないもの(食べられないからね)を植えているのは、物好きの爺さんである。そういうひとは、まあ、だらしなく着流していたりする。はだけた服から褌が見えていたりする。そこには「ふぐり」の感じが残っている。いや、あらわに見えている。私の肉体のなかで、「ふくべ」は「ふぐり」につながるのである。そして、それは「ふくべ」の丸い形や「ふぐり」の丸い形とも通い合う。「ふくべ」というのは誰が思いついたことばか知らないけれど、そこには「ふぐり」との共通点がある、と私は勝手に思うのである。そうやって、そこにひとつの「世界」ができる。
 そうすると、そのあとの「あんずとからす」がとても変な具合に変化する。「あんず」は「あんず」のままだが、「と、からす」と「とからす」という、どこにも存在しないものになる。そこには「とかす、とける」という音があって、それが、子どもごごろ(?)に、「ふぐり」とはか「セックス」とかを思い出させる。何も知らないくせに、田舎の子どもというのは、そういう連想だけはしっかりとしてしまうのだ。「ふくべと」の「べと」という音のつながりも、なぜか、とても好きだなあ。「べと」や「とからす」が影響して「ふなだ」もひとつの「音」の連続になるんだろうなあ。
 でも、なんだろうなあ、これは。こういうことって、ほかの人には起きないのだろうか。「音」にひっぱられて「意味」からかけはなれたところへ行ってしまうということは、ほかの人には起きないのだろうか。

 「げんごろうむしとふなだ」は「春」の印象が私にはあるのだが、西脇の詩はなぜか秋につながっていく。

秋はかすかに袖にふれる
友人が手紙と夏のおわりのばらを
送ってくれたこの朝
あの下手なつるの文字はみえないが
指先が女神のつゆにぬれる
香いは昔住んだ庭をおもわはる
この切られた女の野原

 この部分では、私は、

あの下手なつるの文字はみえないが
指先が女神のつゆにぬれる

 の2行が好きだ。「つる」「つゆ」「ぬれる」の音が楽しい。まあ、これを楽しいというのは、私がまたすけべな連想をするからなのだが。
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西脇順三郎詩集 (世界の詩 50)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(159 )

2010-12-14 09:56:25 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(159 )

 『豊饒の女神』のつづき。
 「大和路」は、タイトルどおり大和路をたずねたときのことを書いているのだが、最後の方に「種明かし」があって、それがおかしい。

それからまたここへもどって
半治のやんごとなき踊りに終る
別れの宴に出なければならない
東大寺のおかみも忙しいから
出られないだろうが
この予言は恐らく当たるだろう
過去のことを未来で語ることは
旅人の悪いくせであるけれども--

 詩は「現在形」で書かれている。「ここにもどって」「宴に出なければならない」「東大寺のおかみも(略)/出られないだろう」と書いてあるが、実際は、「でることができなかった」のである。それを知っている。けれども、そういうことを「未来」の「推量」として書く。その書き方の、「わざと」のなかに、詩があるのだ。
 旅人(西脇)は、「わざと」知っていること(過去)を「未来」として書くのか。それは、詩が「過去」のなかにあるのもではなく、「いま」という「現在」にしか存在しないものだからである。「いま」あっても、次の瞬間、つまり過去になったとたん消えてしまう。また逆に、過去のものであっても「いま」思い出す瞬間に、その過去は過去ではなく、現在そのものになり、そこから時間は過去へむけてではなく、未来へと動いていく。だから、どんな未来も「いま」として書く。
 その書き方が詩なのである。内容ではなく、書き方が詩を決定する。



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誰も書かなかった西脇順三郎(158 )

2010-12-08 11:44:27 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『豊饒の女神』の巻頭の「どこかで」。

どこかでキツツキの音がする
灰色の淋しい光が斜めにさす
コンクリートのせまい街を行く
アンジェリコの天使のような粋な
野薔薇のように青ざめた若い女が
すれちがった--ゆくりなく
ベーラムがかすかにただよう
この果てしないうら悲しさ
「おどりのけいこに行つて来たのよ」

 「淋しい」と「うら悲しさ」と、どう違うのだろう。はっきりとはわからない。けれど、もし、「この果てしない淋しさ」だったら、この詩の印象は違ってくるだろうと思う。「うら悲しさ」、とくに「悲しさ」の「か行」のことばが、次の「おどりのけいこ」の「けいこ」ととてもいい感じで響きあう。「この果てしない淋しさ」だと「おどりのけいこ」とはうまく響き合わない。遠く離れてしまって、音楽が生まれてこない。
 この「か行」はどこからきているか。

すれちがった--ゆくりなく

 この1行の、とくに「ゆくりなく」の「く」からきている。「ゆくりなく」の「ゆくり」は「ゆかり」。「ゆかり」がない。「縁」がない。そこから「思いがけない」という意味が生まれているのだと思うが、「ゆくり」と「ゆかり」には音のすれ違いがある。「く」という音を意識しながら、どこかで「か」の音を聞いている。そのすれ違いの中に「か行」の意識が強くなる。
 「か」すかにただよう。(音楽なのに、かすかに、かおる、そのかおりのようなものもある。)「こ」のはてしないうら「か」なしさ。おどりの「け」い「こ」にいって「き」たのよ。
 「この果てしないうら悲しさ」はまた、このはて「し」ないうらかな「し」「さ」であり、その「さ行」の動きは、「さ」びしいを呼び覚ます。
 「この果てしないうら悲しさ」という1行には「かなしさ」と「さびしさ」が出会っているのだ。
 けれど、そういう「意味」を突き放して、

「おどりのけいこに行つて来たのよ」

 という1行でおわる。
 「おどりのけいこに行って来」て、それがどうした? どうもしない。一瞬の「すれ違い」のおもしろさがあるだけである。それは、「無意味」かもしれないが、その「無意味」が詩なのである。




詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(157 )

2010-12-07 11:45:17 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(157 )

 「失われたとき」のつづき。

ねむりは永遠にさまようサフサフ
永遠にふれてまたさまよう
くいながよぶ

しきかなくわ
すすきのほにほれる
のはらのとけてすねをひつかいたつけ
クルヘのモテルになつたつけ
すきなやつくしをつんたわ
しほひかりにも……
あす あす ちやちやふ
あす

セササランセサランセサラン

永遠はただよう

 「葦」のあとの行をどう読むのだろう。「鴫が鳴くわ/芒の穂にほれる/野薔薇の棘でスネをひっかいたっけ」と読んでいいのだろうか。音にしていいのだろうか。
 濁音混じりの「音」にしてしまうと「さまよう」「ただよう」という感じがしなくなる。「意味」から「意味」を剥奪して、「意味」にならないようにことばを動かしている。
 このとき。
 私は、ふと、思うのである。表記から濁音を省く--それでも、そのことばの思い描いているものが垣間見える。それはなぜだろう。
 ことばには音がある。そして、ことばはその音のなかにリズムももっている。音そのものがかわっても、リズムがそのままのとき、そのリズムからもことばがよみがえる。
 さまよう、ただよう、とは、そういうリズムそのものに身をまかせることなのかもしれない。

 この引用部分に先立って、次の行がある。

潮の氾濫の永遠の中に
ただよう月の光りの中に
シギの鳴く音も
葦の中に吹く風も
みな自分の呼吸の音になる
はてしなくただようこのねむりは
はてしなくただよう盃のめぐりの
アイアイのさざ波の貝殻のきらめきの
沖の石のさざれ石の涙のさざえの
せせらぎのあしの葉の思いの睡蓮の
ささやきのぬれ苔のアユのささやきの
ぬれごとのぬめりのヴェニスのラスキン
の潮のいそぎんちゃくのあわびの

 「呼吸の音」。ことばは、結局、呼吸の音ということかもしれない。「はてしなく……」からつづく「の」の連結によることばの動き。そこにあるのは、「意味」ではもちろんないのだが、もしかすると「音楽」さえ拒絶した「音楽」かもしれない。「音楽」以前の「呼吸の音」なのかもしれない。
 「呼吸」に声がまじるとことばになる。ことばから「意味」があらわれる。
 逆に、ことばから「意味」をとると、声になる。声から濁音をとると--呼吸になる。「永遠」は「呼吸」のなかにある。その「呼吸」を確立するのが西脇の夢かもしれない。




カンタベリ物語〈上〉 (ちくま文庫)
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誰も書かなかった西脇順三郎(156 )

2010-12-05 11:22:19 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(156 )

 「口語」も、「自然」と同じように西脇の思考を攪拌する。そうして自由にする。そういう働きをしていると思う。

たそがれの人間はささやくだけだ
しかし人間は完全になくなることはない
ただ形をかえるだけだ
現在をなくすことは
人間の言葉をなくすことだ
どこかで人間がまたつくられている
--おつかさんはとんだことだつたね
--ながくわずらつていたんですよ
かくされたものは美しい
葡萄と蓮の実の最後のばんさんを祝福する

 「頭脳」で考えていた窮屈なことがらが、口語によって「肉体的」になる。
 人間が存在をなくすこと--死。これに対する反対概念は「生」である。「誕生」である。人間が死んでも、どこかでまた人間がつくられる--これは、誕生するという具合に読むことができる。あ、しかし、このものの見方、考え方は、私の感覚ではあまりにも「頭脳的」である。
 西脇は、ほんとうに、そんなことを言っているのか。
 私には違ったふうに感じられる。

--おつかさんはとんだことだつたね
--ながくわずらつていたんですよ

 ここには赤ちゃんの「誕生」は書かれていない。逆に、母の(たぶん、老いた母の)死が語られている。そして、その語りの中にこそ、「人間がまたつくられている」というふうに私は読むのである。
 語ることのなかで、母がよみがえる。「ながくわずらつていた」という時間がよみがえる。
 だけではない。
 そういう母の姿をひとり抱え込んでいた話者の時間がよみがえる。いのちのありかたが浮かび上がる。
 それに対して「かくされたものは美しい」というのである。このとき「かくされたもの」とは病気の母をかかえ、苦労しているその暮らしを「かくす」話者の生き方である。
 こういう態度に「美」をみるというのは、あまりに東洋的かもしれない。けれど、西脇には、そういう東洋的なものがあるのだと思う。そして、その東洋的なものが、西脇を不思議にすばやく動かしているように感じられる。



詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(155 )

2010-12-03 11:19:38 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(155 )

天国と地獄は方向の差だ
方向は永遠になくならない
空間と時間の永遠は一つだ
過去と未来は方向の差だ
時間の方向のなくなるところは永遠だ
愛もにくしみも方向の差だ
美もグロテスクも方向の差だ
野ばらの実も苺の実も方向の差だ

 哲学的(?)な「方向の差」のあとに、ふいに登場する「野ばらの実」「苺の実」。それは「天国と地獄」のように、あるいは「愛とにくしみ」のように対立する「もの」なのだろうか。「野ばらの対立概念(?)は」と問われて「苺の実」と答えられるひとはたぶんどこにもいない。西脇だって、そういう質問をされたら答えられないだろう。
 そういう「無意味」を「わざと」書く。そこに西脇の詩がある。
 西脇は、天国・地獄、愛・憎を野ばらや苺の実と同じように考えようとしているのか。あるいは、野ばら、苺の実を過去・未来、美・醜のように考えようとしているのか。どちらでもない。そういう何かと何かを対比するものの考え方から飛躍するために、わざと、無意味をもちだしている。
 詩は、次のように螺旋を描く。

それは一つの祈祷である
あらゆる方向は円周の中にあり
遠心ですべての方向は消滅する

 そして、ここから「東洋哲学」に向かう。

存在と存在しないものは方向の差だ
空も有も方向の差だ
空と有とが相殺するところにゼロがある
それはインド人の祈祷だ

 この東洋哲学への方向転換というか、螺旋階段をのぼるように、前に書いた部分の哲学から離れるために、「野ばらの実」「苺の実」が必要だったのだといえるかもしれない。「自然」は西脇の「頭脳」を解放し、西脇を「肉体」へ返す--と言ってしまうわけにはいかないだろうけれど、一種の、ことばの飛躍のきっかけとしての働きをしているとはいえるだろう。



鹿門―詩集 (1970年)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(154 )

2010-12-01 11:11:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(154 )

 「失われたとき」のつづき。

ああほそ長い顔をして
なでしこを一本もつ男は
いまどこにいるだろうか
灰色の海の中へプッ プッ
ほし葡萄の種子をまいている男は
翻訳者の曲つたペンは
永遠に人間の肝臓をつきさしている

 たとえば、この部分の、「なでしこを一本もつ男は」の「一本」とは何だろうか。もちろん意味的には「茎」の一本である。それはわかるが、日本語では花を数えるとき「一本」とはふつうは言わない。「一輪」「二輪」と数える。西脇の数え方は違う。
 そして、何気なく読んでしまっているのだが、それが「灰色の海の中へプッ プッ」という行にきたとき、ふいになつかしく響いてくる。「いっぽん」「プッ」「いっぽん」「プッ プッ」と。あ、あの「一本」は「プッ プッ」という音のための「補助線」だったんだなあ。
 そういう音のつながりに気がつくと、全体がちがってみえてくる。
 「いっぽん(と、あえてひらがなで書いておく)」「プッ プッ」「ペン」とここにはぱひぷぺぽへつながる音がばらまかれている。
 それから「ほそ」長い、「ほし」葡萄、「ほ」ん訳家という「ほ」の響きがある。そして「いまどこにいる」と「まいている」の音の不思議な交錯もある。
 もし翻訳家のペンが「曲つ」ていなかったら、つまり「曲つた」がなかったら、そいペンは、はたして「人間」の「肝臓」をつきさしたかどうかわからない。「まがつた」のなかにある「か(が)行」「っ」という短い音、濁音があるからこそ「にんげんのかんぞう」というスピードがあってか行が響き、濁音も響くという行が自然に呼び込まれるのだと思う。
 ことばには「意味」があり、その「意味」が呼びあうということはもちろん自然なことなのだが、他方に「意味」とは関係なしに、音が音を呼びあうということがある。ことばは、何かしら独自の自律性をもって動いているのである。
 この音の自律性(?)から、いくつもの「外国語」は生まれた--というと、おおげさな仮説になるが、私はなんとなく、そう感じている。「意味」は同じなのに「音」が違うのは、「意味」をつたえるだけでは満足できなくて、ことばの「音」そのものが何かしらのことを伝えようとして変化したにちがいないと感じるのである。
 フランス語、イタリア語、スペイン語--そこには、何か「意味」と同時に「音」の類似性がある。音のイメージは、そういうひとつの「語圏」を超えて、隣接するドイツ語、英語にも響いていく。「黒」という意味の「ノワール」「ネグロ」「ニニグロ」という音には何か深みがあるそして、そこから「黒い」だけではなく「豊かな」という印象もあらわれてくる、という感じである。
 外国語同士でさえそうなのだから、同じ日本語同士なら門といろいろ響きあうにちがいないと思う。

 もちろん西脇のことばには、「意味」、あるいは「視覚」の響きあいもある。「ほし葡萄の種子をまいている男は」は、先に引用した部分に先立って、

死は種子をつづけるだけである

という1行をもっている。「種子」がそっくり繰り返されている。



あざみの衣 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(153 )

2010-11-12 22:14:31 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(153 )

 「失われたとき」のつづき。

 西脇のことばは人を(読者を--私を)騙す。

盆地の山々は
もう失われた庭の苦悩だ
失う希望もない
失う空間も時間もない
永遠のうら側を越えて
違つた太陽系の海へ
洗礼に行くのだ
菖蒲が咲いて水銀に
むらさきの影をなげている
牛はみなよい記憶力がある
四重の未来がもう過去になつた
三角形の一辺は他の二辺より大きく
見える季節を祝うのだ

 「三角形の一辺は他の二辺より大きく」ということは、ありえない。数学の事実に反する。そんなふうに「見える」ということは何かが間違っていて、この詩の「意味」としては、そういう「間違い」を祝うということが書かれているのだが……。
 実際に読んでいて、その「意味」を意識するだろうか。
 たとえば、「菖蒲が咲いて水銀に/むらさきの影をなげている」というのは、紫色の菖蒲が水面に映っているという美しい光景を描いている。あ、美しいなあと感じる。風景が美しいと同時に、その風景を「水銀」(の水面)ということばとともに描き出すことばの運動も美しいと感じる。--それを「真実」と感じて、美しいと感じるのだ。
 次の「牛はみなよい記憶力がある/四重の未来がもう過去になつた」というのは牛に胃袋が四つあって、反芻しながら咀嚼しているということを踏まえているのだな、あ、牛の食べたものは角四つの胃袋のなかを、過去へいったり未来へいったりするように、動き回るのだな--おもしろい表現だなあ。そんなふうに未来や過去を動き回るということのなかにも、人間の意識の「真実」があるなあ、とも感じる。
 西脇のことばの書いている「意味」に、知らず知らず共感している。そんな「共感」のあとに、「三角形の一辺は他の二辺より大きく/見える」。まさか、嘘が書いてあると思いもしない。だいたい、「三角形の一辺は他の二辺より……」という定義は常識的過ぎて「意味」として意識しない。ことばが、その「リズム」が肉体になってしまっている。いちいち、その「意味」を歌か疑うようなことはしない。
 そして、騙される。
 西脇は、読者を(私を)騙すのに、とても有効にリズムを使っている。
 西脇のことばを絵画的ではなく「音楽的」と感じるのは、こういうことろがあるからだ。リズムは「意味」を忘れさせる。「意味」を検討することを忘れさせ、一気にことばを動かしていく。音が「肉体」になじんでしまい、音そのものとして動いていくのだ。

永遠はかなしい煙突のように
リッチモンドのキューのパゴーダ
のようにポプラの樹のように
向うの小山の影より高く
立つている--
舟をこぐ男の腰の悲しい
まがりに
薄明のバラの香りに
渡しをまつ男のほそいズボン
のうす明りに
塔の幻影がラセンのように
くねくねと水にうつる時に
ハンの樹の下側がたにしのように
うつる魔術家の帽子に
牛の乳房が写る水に
あひるの黄色いくらばしのうら
がうつるこのエナメルのなめらかな

 「のように」「……に」の繰り返し。さらには「うつる」という音の繰り返し。そのリズムがすべての「もの」を飲み込んで動いている。なぜ、そんな動きに? そこにある「意味」は? ああ、そんなものなどないのだ。「意味」を捨て去って、つまりナンセンスにリズムが駆け抜ける。その無意味の軽快が詩なのだ。




ペイタリアン西脇順三郎
伊藤 勲
小沢書店

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