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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(159 )

2010-12-14 09:56:25 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(159 )

 『豊饒の女神』のつづき。
 「大和路」は、タイトルどおり大和路をたずねたときのことを書いているのだが、最後の方に「種明かし」があって、それがおかしい。

それからまたここへもどって
半治のやんごとなき踊りに終る
別れの宴に出なければならない
東大寺のおかみも忙しいから
出られないだろうが
この予言は恐らく当たるだろう
過去のことを未来で語ることは
旅人の悪いくせであるけれども--

 詩は「現在形」で書かれている。「ここにもどって」「宴に出なければならない」「東大寺のおかみも(略)/出られないだろう」と書いてあるが、実際は、「でることができなかった」のである。それを知っている。けれども、そういうことを「未来」の「推量」として書く。その書き方の、「わざと」のなかに、詩があるのだ。
 旅人(西脇)は、「わざと」知っていること(過去)を「未来」として書くのか。それは、詩が「過去」のなかにあるのもではなく、「いま」という「現在」にしか存在しないものだからである。「いま」あっても、次の瞬間、つまり過去になったとたん消えてしまう。また逆に、過去のものであっても「いま」思い出す瞬間に、その過去は過去ではなく、現在そのものになり、そこから時間は過去へむけてではなく、未来へと動いていく。だから、どんな未来も「いま」として書く。
 その書き方が詩なのである。内容ではなく、書き方が詩を決定する。



西脇順三郎詩集 (世界の詩 50)
西脇 順三郎
彌生書房

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