誰も書かなかった西脇順三郎(159 )
『豊饒の女神』のつづき。
「大和路」は、タイトルどおり大和路をたずねたときのことを書いているのだが、最後の方に「種明かし」があって、それがおかしい。
詩は「現在形」で書かれている。「ここにもどって」「宴に出なければならない」「東大寺のおかみも(略)/出られないだろう」と書いてあるが、実際は、「でることができなかった」のである。それを知っている。けれども、そういうことを「未来」の「推量」として書く。その書き方の、「わざと」のなかに、詩があるのだ。
旅人(西脇)は、「わざと」知っていること(過去)を「未来」として書くのか。それは、詩が「過去」のなかにあるのもではなく、「いま」という「現在」にしか存在しないものだからである。「いま」あっても、次の瞬間、つまり過去になったとたん消えてしまう。また逆に、過去のものであっても「いま」思い出す瞬間に、その過去は過去ではなく、現在そのものになり、そこから時間は過去へむけてではなく、未来へと動いていく。だから、どんな未来も「いま」として書く。
その書き方が詩なのである。内容ではなく、書き方が詩を決定する。

『豊饒の女神』のつづき。
「大和路」は、タイトルどおり大和路をたずねたときのことを書いているのだが、最後の方に「種明かし」があって、それがおかしい。
それからまたここへもどって
半治のやんごとなき踊りに終る
別れの宴に出なければならない
東大寺のおかみも忙しいから
出られないだろうが
この予言は恐らく当たるだろう
過去のことを未来で語ることは
旅人の悪いくせであるけれども--
詩は「現在形」で書かれている。「ここにもどって」「宴に出なければならない」「東大寺のおかみも(略)/出られないだろう」と書いてあるが、実際は、「でることができなかった」のである。それを知っている。けれども、そういうことを「未来」の「推量」として書く。その書き方の、「わざと」のなかに、詩があるのだ。
旅人(西脇)は、「わざと」知っていること(過去)を「未来」として書くのか。それは、詩が「過去」のなかにあるのもではなく、「いま」という「現在」にしか存在しないものだからである。「いま」あっても、次の瞬間、つまり過去になったとたん消えてしまう。また逆に、過去のものであっても「いま」思い出す瞬間に、その過去は過去ではなく、現在そのものになり、そこから時間は過去へむけてではなく、未来へと動いていく。だから、どんな未来も「いま」として書く。
その書き方が詩なのである。内容ではなく、書き方が詩を決定する。
![]() | 西脇順三郎詩集 (世界の詩 50) |
西脇 順三郎 | |
彌生書房 |
