誰も書かなかった西脇順三郎(163 )
『豊饒の女神』の「豊饒の女神」つづき。
後半は、
という行から、「意味」の強いことばを挟みながら動いていく。私は、西脇が書いていることをそのまま受け取ることができずに、「絶対の幸福」「本当の極楽」を、逆に「絶対の不幸」「本当の地獄」と読んでしまう。なぜか、書き落とされた(?)ことば「地獄」がとても気にかかってしまう。
そして、それが最後に突然よみがえってくると、なぜか、うれしくなってしまう。
「地獄」の復活がうれしいと同時に、私は、ここでは「さ行」の動きが音楽としてとてもおもしろいと思う。豊饒、祭祀、野げし、地獄、セメント、すきま。そこには「さ行(ざ行)」が動いている。
それは「ささやいている」「ささやきをさけようと」ということばを経て「ソバや」へとつながる。そば屋がでてくるのは「諧謔」、ユーモアというものかもしれないが、うどん屋やてんぷら屋では音が違ってくる。「三級酒」「生物」「無常」とつながっていくとき、そこは絶対に「ソバや」でなくてはならないのだ。
この「さ行」の音楽を優先させるために、「祈る」という強いことばは、行の冒頭にあるにもかかわらず、「意味」を奪われ、埋没している。「意味」を剥奪するために、西脇は、あえて行のわたりをして、そのことばを行頭に置いたのかもしれない。
「意味」ではなく、音楽。酒、日本酒ではなく「三級酒」ということばが選ばれているのも、ただ音楽のためだと私は思う。
この音の選択は西脇が意識していたことかどうかわからない。無意識にやっていたことかもしれない。無意識だとすれば、それは「本能」というのもだと思う。そうだとすれば、その「本能」こそが「思想」だと私には思える。

『豊饒の女神』の「豊饒の女神」つづき。
後半は、
幸福もなく不幸もないことは
絶対の幸福である
地獄ものなく極楽もないところに
本当の極楽がある
という行から、「意味」の強いことばを挟みながら動いていく。私は、西脇が書いていることをそのまま受け取ることができずに、「絶対の幸福」「本当の極楽」を、逆に「絶対の不幸」「本当の地獄」と読んでしまう。なぜか、書き落とされた(?)ことば「地獄」がとても気にかかってしまう。
そして、それが最後に突然よみがえってくると、なぜか、うれしくなってしまう。
これは豊饒の女神であり
祭祀の二月の女であるか
春の野げしもタビコラも
地獄の季節をにげて
セメントのすきまから
また人間のいるところへ
頭を出して
何事かささやいている
弓の弦の大工のささやきをさけようと
祈るやがてソバやにあがり
三級酒に生物の無常を
語る日が近づいた
「地獄」の復活がうれしいと同時に、私は、ここでは「さ行」の動きが音楽としてとてもおもしろいと思う。豊饒、祭祀、野げし、地獄、セメント、すきま。そこには「さ行(ざ行)」が動いている。
それは「ささやいている」「ささやきをさけようと」ということばを経て「ソバや」へとつながる。そば屋がでてくるのは「諧謔」、ユーモアというものかもしれないが、うどん屋やてんぷら屋では音が違ってくる。「三級酒」「生物」「無常」とつながっていくとき、そこは絶対に「ソバや」でなくてはならないのだ。
この「さ行」の音楽を優先させるために、「祈る」という強いことばは、行の冒頭にあるにもかかわらず、「意味」を奪われ、埋没している。「意味」を剥奪するために、西脇は、あえて行のわたりをして、そのことばを行頭に置いたのかもしれない。
「意味」ではなく、音楽。酒、日本酒ではなく「三級酒」ということばが選ばれているのも、ただ音楽のためだと私は思う。
この音の選択は西脇が意識していたことかどうかわからない。無意識にやっていたことかもしれない。無意識だとすれば、それは「本能」というのもだと思う。そうだとすれば、その「本能」こそが「思想」だと私には思える。
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新倉 俊一 | |
みすず書房 |
