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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(155 )

2010-12-03 11:19:38 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(155 )

天国と地獄は方向の差だ
方向は永遠になくならない
空間と時間の永遠は一つだ
過去と未来は方向の差だ
時間の方向のなくなるところは永遠だ
愛もにくしみも方向の差だ
美もグロテスクも方向の差だ
野ばらの実も苺の実も方向の差だ

 哲学的(?)な「方向の差」のあとに、ふいに登場する「野ばらの実」「苺の実」。それは「天国と地獄」のように、あるいは「愛とにくしみ」のように対立する「もの」なのだろうか。「野ばらの対立概念(?)は」と問われて「苺の実」と答えられるひとはたぶんどこにもいない。西脇だって、そういう質問をされたら答えられないだろう。
 そういう「無意味」を「わざと」書く。そこに西脇の詩がある。
 西脇は、天国・地獄、愛・憎を野ばらや苺の実と同じように考えようとしているのか。あるいは、野ばら、苺の実を過去・未来、美・醜のように考えようとしているのか。どちらでもない。そういう何かと何かを対比するものの考え方から飛躍するために、わざと、無意味をもちだしている。
 詩は、次のように螺旋を描く。

それは一つの祈祷である
あらゆる方向は円周の中にあり
遠心ですべての方向は消滅する

 そして、ここから「東洋哲学」に向かう。

存在と存在しないものは方向の差だ
空も有も方向の差だ
空と有とが相殺するところにゼロがある
それはインド人の祈祷だ

 この東洋哲学への方向転換というか、螺旋階段をのぼるように、前に書いた部分の哲学から離れるために、「野ばらの実」「苺の実」が必要だったのだといえるかもしれない。「自然」は西脇の「頭脳」を解放し、西脇を「肉体」へ返す--と言ってしまうわけにはいかないだろうけれど、一種の、ことばの飛躍のきっかけとしての働きをしているとはいえるだろう。



鹿門―詩集 (1970年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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