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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(182 )

2011-02-17 11:20:43 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(182 )

 『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅠつづき。いろいろ刺激的なことばが多い詩である。

意識は過去だ
意識の流れは追憶のせせらぎだ
時の流れは意識の流れだ
進化も退化もしない
変化するだけだ
存在の意識は追憶の意識だ
「現在」は文法学者が発見した
イリユージョンである
「話す人」の位置だ
永遠は時間ではない
時間は人間の意識にすぎない
人間に考えられないものは永遠だ

 断定の連続である。一か所、「「現在」は文法学者が発見した/イリユージョンである」だけが1行の断定ではなく2行でひとつの文章になっている。しかし、「発見した」でやはりいったん切って、それから「イリユージョンである」をつけくわえたもの、「イリユージョンである」はそれ自体で1行と見た方がおもしろいだろう。
 どの行も、それぞれがひとつの文であり、それは先行する文の、それぞれの「言い換え」なのである。意識は、そんなふうに動いていく。
 そして、この意識、時間、永遠をめぐる断定のあとに、一気に笑いが弾ける。

「教養をつければつけるほど
たたなくなる」
艶美なるイムポテンス
それだけ永遠に近づく
それだけ犬から遠ざかる

 「インポテンス」が永遠に近づくことになるのかどうかはわからない。犬から遠ざかるというのはほんとうのような気がする。(私は愛犬家だけれど--だから犬が結果的に永遠から遠いというのはうれしいことではないけれど……。)そして、このほんとうのような気がするというのは、一種の「笑い」の真実だね。インポテンス自体が笑いだけれど。
 そして、笑いながら、「笑い」の真実についても、ちらりと考える。
 笑いとは突然の断絶、突然の接続だね。「永遠」に「インポテンス」をぶっつける。それは瞬間的にはくっつかない。たとえば「鮮やかな薔薇の色」と「永遠」ならぶつけた瞬間にくっつくけれど、「永遠」と「インポテンス」はくっつかない。そのくっつかないという意識が、「永遠」から何かを引き剥がす。その瞬間「真の永遠」が、いままで気がつかなかった「永遠の真実」が見える。くっつかないことが「断絶」を浮かび上がらせ、その「断絶」の「断面」に、いままで気がつかなかった「永遠」がぴったりとくっつく。
 「永遠」が生まれ変わる。
 笑いの瞬間、それは何かが生まれ変わる瞬間なのだ。
 それは新しい真実(新しい永遠)とことばが「接続」する瞬間でもある。


旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社

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誰も書かなかった西脇順三郎(181 )

2011-02-15 22:35:50 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅠつづき。

銅貨の中の
静寂

 この2行が前後の連とどう関係するのか、見当がつかない。けれど、この2行が私はとても好きである。
 「金貨」のなかに「静寂」があるとは私には思えない。「銀貨」ならありうると思う。そうして、私には「銀貨」の場合、その「静寂」の音は--というのは、へんな言い方なのだが--透明であるように感じられる。「銀貨」は「静寂」というより「沈黙」かもしれない。「銅貨」の場合、透明感のかわりにやわらかい深さがある。何か、遠い「静寂」。それも水平方向に遠いではなく、垂直方向に遠い感じがする。やわらかくやわらかく沈んでいく感じがするのである。

 こういうことは感覚の世界で、あらゆることにまったく根拠がない。根拠かないとわかっているから私自身も困るのだが、こういう根拠のないことを書いていると、何かが見つかりそうな気もする。
 だから書いておくのである。

 この連につづく部分。

夕陽はコップの限界を越えて
限りなく去る
黒いコップの輪郭が残る
女神の輪郭は
猫の瞳孔の中をさまよう

 これは「銅貨」の2行に比べると、物足りない。コップの中を(テーブルの上に置いたコップ、あるいは窓辺に置いたコップの越しに)夕陽が沈んでいく。光が去って、コップの輪郭が残る。黒く見える。「限界を越えて」ということばの速さにひかれるけれど、書かれていることが「イメージ」になりすぎる。目に見えすぎる。そういう感じが物足りなさにつながる。
 「女神」の2行は、「輪郭」のつながりで出てくのだが、私にはなんだかうるさく感じられる。
 「銅貨」の簡潔過ぎる「静寂」を聞いたからかもしれない。



西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店


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誰も書かなかった西脇順三郎(180 )

2011-02-08 12:21:17 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅠつづき。次の部分にも「意味」と「音楽」が同居する。

竹藪になげこまれた石のふためき
鍬にあたる隕石のさけび
旅人の帽子に残るやぶじらみ
パウンドののどだんごの動き
土のついた
タビラコの
にがい根を
かじりながら
逃走する

これらは何も象徴しない
象徴しないものほど
人間を惹きつける
生きていることは
よくきこえないものを聴くことだ
よくみえないものを見ることだ
よくたべられないものを食うことだ

 異質なものの出会い。それらは「何も象徴しない」のではなく、何かを象徴しようとしているが、その象徴をあらわすことばにならない。ことばはまだそこまできていないということだろう。
 象徴は「意味」ということでもある。「もの」と「意味」。その二元論に対して、西脇は「二元論」以前が人間を「惹きつける」というのである。それは「意味」の否定であり、「意味」の破壊である。そして、「音楽」の誕生に耳をすますことである。

生きていることは
よくきこえないものを聴くことだ

 このあと「みる」(見る)「たべる」(食う)とつづくのだが、まず「聴く」から始めるのが西脇である。
 「よくきこえない」(みえない、たべられない)のはなぜか。なにが「きこえない」という状態をつくりだしているのか。「よく」があるところから判断すると、少しはきこえ、みえ、またたべられる。けれど「よく」それができない。
 この「よく」を判断するのは「意識」であろう。「意味」をつくりだす運動であろう。そういうものが邪魔をする。その結果、「よく」きこえない、みえない、たべられない、という状態になる。
 「よし・あし」の判断を捨てて、「肉体」にもどる。そのとき何も象徴しない「もの」に出会う。「肉耳」「肉眼」「肉口(舌?歯?)に人間がもどるとき、世界がはじまる、というのかもしれない。




西脇順三郎全集〈第10巻〉 (1983年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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誰も書かなかった西脇順三郎(179 )

2011-02-07 22:19:29 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅠ。

シムボルはさびしい
言葉はシムボルだ
言葉を使うと
脳髄がシムボル色になつて
永遠の方へかたむく
シムボルのない季節にもどろう

 この書き出しは非常にやっかいである。理由はふたつある。
 ひとつは、ここでは西脇は「シムボル」を肯定的にはとらえていない。「シムボルのない季節にもどろう」と書いているからである。「シムボル」のない季節が西脇が目指しているものである。
 もうひとつは「さびしい」。「さびしい」は西脇にとっては否定的なものではない。肯定的なもののひとつである。木やなにかの「曲がり」と同じように、人間の存在と真っ正面から向き合う「もの」である。
 肯定と否定が結びついているのである。

 でも、まあ、こういうことは、厳密に追究するべきことではないのだ。あいまいでいいのだ。あらゆるものが、あるときは肯定にかたむき、あるときは否定にかたむく。揺れ動きながら、ことばが少しずつ安定してくる。なにかを語りはじめる。
 それを待っていればいいのだと思う。

 いや、理由は「ふたつ」ではなく「みっつ」かもしれない。シンボルである「言葉を使うと/脳髄がシムボル色になつて/永遠の方へかたむく」という西脇にとっては否定的なことがらを、ことばで書いてしまっている。ことばを否定しながら、ことばで書く。しかも、書かないかぎりは、ことばを否定していることがわからない。これは、完全な「自己矛盾」だねえ。
 これもまた、真剣に追究してはいけないことなのかもしれない。

 だから--というのは、かなり強引な言い方なのだが。
 この詩、この書き出しが私はとても好きなのだが、その好きな理由を書いておこう。

脳髄がシムボル色になつて

 この1行が楽しい。「シムボル色」というのはどういう色? 青と赤と、どっちに近い? 黄色と赤とではどっちに近い? わからないねえ。「シムボル色」などあるはずがない。「シムボル」は具体的な「もの」ではなく、概念だからである。「もの」ではなく「抽象」だからである。
 そういうものに、強引に「色」をつけて、ことばの運動に、いままでなかった推進力をつける。そのとき生まれてくるスピード感。
 そのスピード感をあおるように、「シムボル」が繰り返し繰り返しつかわれる。
 書き出しの5行は、なにか「意味」を明らかにしようとしているというよりは、ただ、ことばを加速させているのだ。
 「意味」を吟味して、構築するには、この書き出しは乱暴過ぎる。書かれていることばがなにやら「哲学」的だが、この文体のスピードは「哲学」ではない。ほんとうに「哲学」を、「意味」を作り上げようとするなら、ことばの「定義」をもってとていねいにしないといけない。
 西脇は、そういうことはしていない。
 この数行は、だから、「哲学」から解放して、ただ「音楽」として、そのリズム、響き、スピードを楽しめばいいのだ。
 「詩」の入り口なのだ。「音楽」の入り口なのだ。

 西脇が、「哲学」ではなく「音楽」を問題にしていることは、これにつづく行を読むと自然と納得が行く。

シムボルのない季節にもどろう
こわれたガラスのくもりで
考えなければならない
コンクリートのかけらの中で
秋のような女の顔をみつけな
ければならない季節へ

 「秋のような女の顔をみつけな/ければならない季節へ」。この行のわたりは、まったく不思議である。「秋のような女の顔をみつけ/なければならない季節へ」ならば、まだ、わからないでもないが、「みつけなければならない」がなぜ「みつけな」と「ければならない」に分かれるのか、この理由は「文法」的にはさっぱりわからない。
 けれども、この文法的に不自然な「音」の動きは、とても活発である。スピード感がある。
 「みつけなければならない」と「季節」というのもほんとうならば断絶(/)があるべきなのだろうけれど、そこにはない、というのも楽しい。(季節へもどろう、もどろうが省略されて、「ければならない季節へ」という1行になっていると私は読んでいる。)

 ここには「意味」を深めることば、ことばのなかから抽象的な概念を抽出しながら突き進む運動はない。具体的な「もの」のことばがあるだけである。「秋のような女の顔」の「秋のような」という比喩は、まあ、抽象的ではあるのだけれど……。

 この作品では(あらゆる西脇の詩では、と言えるかもしれないが)、詩は、抽象的なことば(哲学的意味を語っていることば)よりも、具体的な「もの」を語っていることばのなかに動いているとも思う。
 「もの」が美しいのだ。

存在はみな反射のゆらめきの
世界へ
寺院の鐘は水の中になり 
さかさの尖塔に
うぐいが走り
ひつじぐさが咲く
雲の野原が
静かに動いている

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詩人西脇順三郎 (1983年)
鍵谷 幸信
筑摩書房
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誰も書かなかった西脇順三郎(178 )

2011-02-05 13:06:46 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「音」のつづき。「想像力」が聞く音について。

「こんどは笛を追放しよう
白金の絃琴だけにしよう
人間の言葉はあきたから
神々の言葉だけにしよう
林檎がテーブルをかする音
さじが絨毯におちる音
梅がやぶがらしの中へころがる音
音の中の音の中の音の
つり銭の音
乞食の袋の中で
茄子とかんづめの空かんがすれる音
蓮の花の開く音は--
あまりに町人的な……」

 これは、「祭に出す仮面劇(マスク)の相談」の内容である。ここに書かれている音は、そこには存在しない。話しているひと、そしてそれを聞いているひとの想像力の中になっている音である。 
 そして、そういう音を想像するとき、不思議なことに私は「音」そのものを聞いていない。音よりも、そこに語られている存在の動きをイメージしている。
 と、同時に。
 私は何よりも、その語られていることば自体の音を聞いている。
 たとえば「林檎がテーブルをかする音」というときの「かする」を聞いている。ここは理由などはないのだが「ころがる」ではだめ。「かする」だからおもしろい。林檎をテーブルで「切る」音、でもだめである。
 「茄子とかんづめの空かんがすれる音」になると「すれる」という動詞だけではなく、「茄子」「かんづめ」「空かん」も絶対的である。それ以外のことば、それ以外の音はおもしろくない、という気がしてくる。
 そして、「音の中の音の中の音の」という西脇のことばを借りていえば、「ことば」のなかの「音」の中にある「音」が他のことばの「音」のなかの「音」と触れ合って、聞こえない「音」を、聞こえないまま、そこに存在させている--それを聞いているという気持ちになるのだ。
 こういう一瞬を、「音に酔う」といえる。私は「音」に「酔って」、正常な(?)判断力を失ってしまうのである。

 最後の部分もおもしろいのだ。

土手にスカンポの花がまた咲くのを
待つている
どこかへ行かなければ
ならないわ

 だれが「土手にスカンポの花がまた咲くのを/待つている」のかわからないが、この花が咲くとき、なぜかはわからないが、「蓮の花が開く音」を思い起こさせ、きっと「音」がするだろうと思う。蓮の花が開くとき「ぽん」と弾けるような音がするが、その「ぽん」が「スカンポ」のなかにあるからかもしれない。
 仮面劇の相談のなかの「蓮の花が開く音」は「スカンポの花が開く音」なら、その劇(あるいは、そのことばの音)は、もっと別なことばを誘いながらもっとつづいたかもしれない。
 だが、そんなことをすれば、これはまた別の詩にもなってしまう。
 だから、あきらめて(?)、「どこかへ行かなければ/ならないわ」。
 あ、この最後の「わ」の不思議な美しさ。スカンポの花が開くのを待っている、待ちきれずにそこを去ってしまわなければならない--その空しい明るさが、その「わ」のなかにある。

西脇順三郎の詩と詩論
沢 正宏
桜楓社


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誰も書かなかった西脇順三郎(177 )

2011-02-04 13:04:26 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「音」のつづき。「音」だから音がたくさん出てくるのは当然だが、音ということばをつかわずに書かれた音にも魅力的なものがある。

ぜんまいも
大きな葉となる
乞食は自然の無常を
ののしる

 「ののしる」ということばのなかにひそむ音。乞食がいったい何をののしっているのか「自然の無常」というだけでは抽象的すぎるが、それはもしかするとぜんまいが大きな葉になってしまって、もう食べられないということかもしれない。しかし、こんなことは「理屈」をいってもしようがない。岡井隆ではないが、詩なのだから、こういうことはいいかげんでいいのだ(あいまいでいいのだ、だったかな?)。
 この4行でおもしろいのは、「ぜんまいも/大きな葉となる」のなかにも「音」が感じられるところだ。渦を巻いたぜんまいがほどけ、葉になる。そのときの「音」はもちろん耳には聞こえない。そこに「音」があると思うとき、耳のなかに響いてくる音にすぎない。想像力の感じる音である。
 そして、「音」とは、そうやって聞こえない「音」も想像として感じることができるという立場から「音」を読み直すと、ちょっとおもしろいのだ。

よろこびのよろこびの
秋のよろこびのよろこびの
神のよろこび
こばると色の空に
飛ぶひよどりのよろこびの
とけた白いしいの実を落とす
故郷の音の
去る人の音の
山の音の
あけびの皮にはみでる
にがあまい種を
舌を出して吐き出す音

 さて、ここに書かれている「音」をオノマトペにすると、どんな具合に書き換えられますか?
 私は実は書き表すことができない。最後の「舌を出して吐き出す音」は「ぺっ」ぐらいには書くことができるけれど、そのほかは書けない。
 そして書き表すことができないのだけれど--つまり、私の肉体と西脇の書いていることばをつないで、そこから私の肉体をとおしてそれを再現するということはできないのだけれど、私の肉体のなかには変なことが起きる。
 耳が透明になっていって、聞こえない音を聞こうとする。--へんな言い方になってしまったが、耳が透明になって、その聞こえない音と一体になろうとする。ぜんまいが渦巻きから葉にかわるときのように、そこには沈黙の音がある。その沈黙と一体になるために耳が透明になっていく。そういうような変な感覚が私の肉体のなかで動く。
 そして、肉体は動きたがる。その欲望(?)にあわせるようにして「舌を出して吐き出す音」があり、私の肉体は自然に動いてしまう。無意識に舌が動く。
 この無意識の中の感覚--これが、「乞食は自然の無常を/ののしる」の「ののしる」ともなんとなく重なる。乞食が「ののしる」のは「自然の無常」を完全に理解してのことではないのだ。ただ肉体が「ののしる」という動きを必要としていて「ののしる」のである。そんなふうに思えてくる。


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西脇順三郎全詩集 (1963年)
西脇 順三郎
筑摩書房
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誰も書かなかった西脇順三郎(176 )

2011-02-01 22:18:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「音」。

くちずさんで
ズックの靴をはいて出かけよう

 「くちずさんで/ズックの靴を」の音の変化がおもしろい。「く」と「ず」が交錯する。交錯することで、音がかきまぜらる。さらに「ず」「で」という濁音も繰り返されることで、音が豊かになる。
 私は、濁音を聞くと「豊かさ」を感じる。「清音」は美しいけれど、「豊か」という感じではない。音の好みは人によって違うから、濁音は濁っているから嫌いという人もいると思うけれど……。何が豊かかというと、これは説明に困るのだけれど、声を出したとき清音は体の外へ出ていくだけなのだが、濁音は体の外へ出ていくと同時に内側にも響いてくる。体の内側に音が残っている。その残っている音が「豊かさ」を感じさせるのである。
 その濁音が3行目、

いたばしのたおやめの

 の「ば」に響いてくる。
 この行は、西脇独特の「の」を持っているのだが、それ「の」という音は少し濁音の響きに似たところがある。母音「お」の響きが「あ」に比べて内にこもる印象があるからかもしれない。
 この「の」の響きだけで、それから数行が動いていく。

いたばしのたおやめの
裾の
雲の黄金の
みどりの寺の瓦
いくとせの風の
しがらみの
行く春の壺の
暮れ行く
また
かすみはたなびく

 「みどりの寺の瓦」の「瓦」は何と読むのだろう。「かわら」だろうか。私は「いらか」と読んでみたい。「い」らか、だと、「い」くとせ、「い」くはる、と頭韻(?)のようにして音がつながる。もちろん「か」わらでも、「か」ぜの、し「が」らみたそ「が」れ、「か」すみと響きあう。「か」の方が「く」ちずさんで、ずっ「く」、「く」つ、で「か」けよう、「く」れと「か行」全体と響きあうかもしれない。--それでも私は「いらか」は読む楽しさを捨てきれない。「みどり」「いくとせ」「しがらみ」「いくはる」「くれいく」ということばの中にある母音「い」と「い」らかが気持ちよく響くからだ。「いたばし」にも「い」があるし……。
 こういうことは「意味」から詩を読んでいくときは無視されることなのだが、この意味から無視される部分に私はどうも反応してしまう。それはたぶん「裾の」からつづく「の」の連続による行を読むとき、私が「意味」を考えないということと関係があると思う。
 ことばを読むとき、私は、ときどき「意味」をまったく考えない。
 「裾の」からはじまる行に、私は「意味」を読みとっていないのだ。この詩のはじまりに「意味」を感じていないのだ。
 ズックの靴を履いて、歩いている。そのとき見たものを「意味」を考えず、ただ「音」だけを頼りに並べている。私は、そう思って読んでいる。
 ところどころ、ことばがイメージを結晶させる。それは、まあ、ぶらぶら道を歩いているとき、ふと目にするものにすぎない。ここに書かれているのは「意味」ではなく、歩行のリズムだと思う。だから「音」が気になるのである。

 前半では次の部分が好きだ。

戸田のまがりすみだのあさせ
白い煙突の影がゆらぐ
この土手のくさむらに聞く
スズメノエンドウや
すいばに水精の
くちべにが残る
すみれはない
女の子に撲滅された

 「この土手のくさむらに聞く」の「聞く」がおかしい。普通は「見る」だろう。「見る」と「聞く」を、西脇は厳密に区別していないのかもしれない。「見る」も「聞く」も「肉体」のなかに入ってしまえば同じである。情報を集めることを「聞く」というのは、そんなに変な飛躍でもない。
 まあ、この行の「聞く」はそういうややこしいことよりも、次の行の「スズメノエンドウ」の「スズメ」と強く関係しているのだろうけれど。つまり、「スズメ」の鳴く声を「聞く」ということと関係しているのだろう。西脇は頻繁にことばの行から行への「わたり」を行うが、ここでもそういう「わたり」(越境)が行われていると言える。
 深いところで「耳」が動いているひとつの「証拠」になるだろう。



西脇順三郎の絵画
西脇 順三郎
恒文社

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誰も書かなかった西脇順三郎(175 )

2011-01-29 13:17:27 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。
 西脇が「視覚」ではなく「聴覚」の詩人であることは、次の部分がより明瞭に証明しているかもしれない。

ごろごろいう幻像も
曲つた錯覚も
考える心のはてに
きいてしまつた

 「見てしまつた」ではなく「きいてしまつた」。
 「幻聴」なら「ごろごろいう」かもしれない。しかし「幻影」は目にみえるものだから「ごろごろいう」ことなどない。そういう音をともなわないものさえ、西脇は音をともなったものとして書いている。また「曲つた」は「幻影」同様、やはり視覚で判断するものである。それも「きいてしまつた」ということばが引き受ける。目で見たもの、耳できいたもの、それが交錯し、認識(考え)はできあがるのだけれど、その認識を統合するのは、西脇の場合「視覚」(見る)ではなく、聴覚「聞く」なのである。「考える心のはてに」その「考え」を「聞く」という肉体の動きが残るのである。

幻影よまつてよ
このツワブキの花を
びんにさすまで
オドリコソウのおどろきは
おどろの下でひよどりの
おとす糞を待つている

 この「しりとり(?)」を動かすのも、また音である。

 一方、西脇はたしかに「視覚」も書いている。「見る」についても書いている。

永遠という光線を通してみる
とすべてのものは透明になつて
みえなくなるわ
この赤い薔薇の実も
あの女のボウツ派のボートの帽子も
永遠という水の中で
すべて屈折してみえる
すべての色はうすくなる

 ここには「視覚」が強烈に描かれている。しかし、そういうときでも「ボウツ派のボートの帽子も」という音が飛びこんできて「意味」をひっかきまわす。また突然の「みえなくなるわ」という女ことばの音が「肉体」をくすぐる。
 私はどうしても西脇の「音」の方にひっぱられてしまう。音のなかには「考え(認識)」にならないもの、もっと生な現実の「手触り」のようなものがあるのかもしれない。これはもしかすると、西脇は「音」に対しては「絵(視覚)」に対してほど洗練されていなかったということかもしれない。(西脇の描いた「絵」はどこかで見たことがあるが、西脇が歌った「歌」とか演奏した「曲」、あるいは作曲した「音楽」というものを、私は知らない。--洗練されていないというのは、音を「音の芸術」としてつくりだしていないという意味である。)
 「音」は野蛮で、認識からとおい。(かけすが鳴いてやかましい--認識を破るものが音なのである。)それは、次の部分にも書かれている。

無は永遠の存在だ
永遠に存在するものは無だけだ
永遠にやるせない音を残して
女は便所からもどつてまた
帽子をかぶつたまま
そうつづけている

 「永遠」談義を破る「音」。「便所」の「音」。ああ、いいなあ、このリアリティー。「認識」を笑い飛ばす「肉体」。





続・幻影の人 西脇順三郎を語る
クリエーター情報なし
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誰も書かなかった西脇順三郎(174 )

2011-01-28 13:15:07 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。

つんぼになつて聞えない音楽がききたい
たべられない木の実がたべたい

 この2行は不可能なことを想像力のなかで動かしてみる運動だが、最初に「音楽」が登場するところに西脇の西脇らしさがあると思う。「目が見えなくなって見えない絵を見たい」でも不可能を想像するという意味では同じだが、「聞えない音楽を聞きたい」と「音」にこだわっている。
 「目」(視覚)は次に出てくるが、ことばの動きがちょっとおもしろい。

眼をつぶして灰色の世界から
となりの人がススキを刈つてしまつた
夏咲いたバラが赤い実になつているのを
考えてみたい

 耳が聞こえなくなったとき、「聞えない音楽がききたい」と、肉体としての運動が書かれていたのに対し、「眼をつぶして」しまったときは「見たい」ではなく、「考えてみたい」ということばが選ばれている。
 「聞えない音楽がききたい」も現実のことではなく想像(考え)の領域のことだが、ことばはあくまで「ききたい」である。けれど、視覚のときは「見たい」ではなく「考えてみたい」と、正確に「考え」(想像)ということばをつかっている。
 耳は西脇にとっては「肉体」であるけれど、目は西脇にとっては「思考(精神)」なのだ。
 西脇を「視覚」の詩人ととらえる人たちは、また、「思考(精神)」の読書人なのかもしれない。ことばから「精神(意味)」を読みとろうとする人たちは、西脇を「視覚」で考える人ととらえるのかもしれない。

 目のことを書いたあと、西脇はまた音にもどってくる。

マラルメの詩のように灰色の枯葉の音の
ように静かに茶をのみ扇をもつ
女の音がききたい
秋のような顔の女も
オリブ畑を歩く乞食も

 最後の2行は、どの動詞とつづくのか、わからない。まあ、どの動詞とつづいてもいいのだろう。ひょっとすると「考えてみたい」(見てみたい)かもしれないし、見てみたいの方が「意味」のとおりがいいのだけれど、だからこそ、そうではない、と私の直感は私にささやく。
 「女の音がききたい/秋のような顔の女(の音)も(ききたい)/オリブ畑を歩く乞食(の音)も(ききたい)」だとすると、意味は混乱してしまう。だが、その混乱のなかに、何かが動く。ことばにならないものが動く。
 それが、詩。
 だいたい「女の音がききたい」がわからないでしょ? だから、わからないまま、混乱して、混乱できる「肉体」を楽しめばいいのだと思う。それが「つんぼになつて聞えない音楽」を「聞く」ということなのだ。混乱し、自分の「肉体」のなかにある「音」を聞くのだ。


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Ambarvalia―西脇順三郎詩集
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(173 )

2011-01-27 21:56:53 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。

何月何日東横でソバを食うのも
前世の宿命としてあきらめる
この神秘的な原因を前世の
因果応報と考える人々は
はしばみの実を食う人々であつた
売つた自分の帽子にまた
めぐり会うのも
偶然も宿命だ
すべて宿命だ
ブラーマンを考えるのも宿命だ
宿命をあきらめる男は
神やブラーマンを信ずる男だ
すべて配剤だ

 この部分は詩としてはそんなにおもしろいわけではない。「何月何日東横でソバを食うのも/前世の宿命としてあきらめる」と、「売つた自分の帽子にまた/めぐり会うのも」の素材の組み合わせに、あ、まねしてみたいな、という感じがあるが、そこに絶対的な詩があるかというと、そこまでは言いたくない感じがする。
 この詩でおもしろいのは、最後の行「すべて配剤だ」が、あまりにも端的に西脇の詩の特徴をあらわしている点である。
 「配剤」--たぶん、天の配剤というときの「配剤」なのだが、西脇は、天のかわりに彼の感性でことばを「配剤」する。
 「事実」の書き方はいろいろある。その「事実」のなかから、どの「ことば」を選び、とりあわせるか。
 ためしに、こんなことをしてみる。

何月何日東横でうどんを食うのも
前世の宿命としてあきらめる

 「ソバ」を「うどん」にかえると、突然、詩が消える。私の印象では詩ではなくなる。「ソバ」という音が、詩の要なのだと気がつく。
 「なんがつなんにち、とーよこで、ソバをくーのも」「なんがつなんにち、とーよこで、うどんをくーのも」
 「ソバ」の音は、狭い音が爆発して終わる。その爆発の感じが、粘着力がなくていい。「うどん」だと、ことばが、「ん」のなかで閉じこもってしまう。「何月何日」「東横」が「うどん」のなかでからまってしまう。からまったものも「宿命」だろうけれど、いやからまったものこそ「宿命」なのかもしれないけれど、からまってしまうと「意味」になってしまう。「ソバ」という音でばらばらになってこそ、気楽に(?)宿命ということばがつかえるのだ。
 そうしたことばのバランス感覚が西脇の詩の大本にあるように私には思える。

 しかし、どうして「配剤」と書いてしまったのかなあ。
 これが、実は、まったくわからない。書いてしまうことで、それまで書いたことが全部「説明」になってしまう。--あ、これは逆か。それまで書いたことがすべて「配剤」を説明してしまう。
 詩は「配剤」である。
 それがわかるだけに、ここで「配剤」ということばをわざわざ書いているそのときの西脇がわからない。

 「意味」はわかる。けれど、「意味」に詩はない。だから、私は、ここでつまずく。「誤読」できずに、さびしい気持ちになる。



文学論 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(172 )

2011-01-25 12:17:09 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。
  西脇のひとつのことばは次のことばとどういう関係があるのか。修飾語(修飾節)と被修飾語(被修飾節)の関係がわかりにくい。

人間が考えられない記号で仕組まれた
世界に落ちたこの青磁色の世界

 「考えられない」は「記号」の修飾している。では、「記号で仕組まれた」は2行目の冒頭の「世界」を修飾しているのか。それとも2行目の終わりの「青磁色の世界」を修飾しているのか--というような考えがふいに浮かぶのは、「人間が考えられない」ものが何なのか考えてしまうからかもしれない。
 何を考えられない?
 たとえばある「記号」を考えられない。けれど、その記号を考えられないということは考えられる。--変な言い方だが、人間は「考えられないということ」を考えることができるし、ことばにもすることができる。

世界に落ちたこの青磁色の世界

の冒頭の「世界」と末尾の「世界」は同じことば、同じ文字ではあるけれど、違ったものを指し示している--と考えるのが一般的かもしれない。けれど、それは同じものであり、ある瞬間に冒頭の「世界」ということばがあらわれ、次に末尾の「世界」蛾あらわれるとき、冒頭の「世界」は末尾の「世界」のなかに凝縮しているということもあるのだ。どちらが外(大きい)、どちらがその内部(小さい)ということは、ない、と考えることもできる。
 そんなことでは困るのだけれど、そういう困ったものが詩なのだ。きっと。
 そこにあることば--それに触れて、自分の知っていることばがひっかきまわされる。そのとき、ふいに、何かが触れてくる。それが詩である。

人間が考えられない記号で仕組まれた
世界に落ちたこの青磁色の世界
残された金でくるまエビのテンプラと
ラム酒をいそいでたべてもどつて

 「記号」「青磁色の世界」から「くるまエビのテンプラ」へ一気に移動する。その途中には「残された金で」という、なんだか俗っぽいことばの「橋」がある。「残された金」が「考え」「記号」というような抽象的なものでないために、「くるまエビのテンプラ」がとても自然に感じられる。
 こういう変な運動も、ことばはしてしまう。西脇は、ことばにこんな運動をさせている。
 この「残された金」とか「いそいでたべて」とか、あまりに日常的過ぎて、詩には書かないようなことばを書きながら、ことばの「論理」のタガをはず。ことばを自由にする。

この絶望のぼつらくのカミツレの
シオンの紫の夕暮のカーテンが
さがるのをみるこのクロイドンの男の
庭に立寄つてみるこの秋の悲しみを
このすすきの穂がちらつく窓から
悲しむ人間のほそながい顔は
神農のたべものにあげるだけだ

 「意味」を追ってはいけないのだ。没落は「ぼつらく」に、カミレルら「カミツレ」になってしまう。ことばは「意味」ではなく、「音」そのものとして、ここにある。
 いつくものことばが書かれ、それを「この」と「の」がつないで行く。「この」という特定の意識、そして「の」による無限(?)の連続。
 ことばは、動くことで、別のことばを探す。その探すと言う動きのなかに、詩がある。何かが分かっていて書くのではない。分からないから、それを探しあてるために書くのだ。

人間の苦しみから
人間の繁殖が芽生え
「ひさしぶりだな」
だが永遠に別れて行つた

 「この絶望の」からの「この」と「の」の繰り返しによる長い連続があったあとだけに、この4行のリズムの転換、すばやさが気持ちがいい。「ひさしぶりだな」のなかに、「人間の苦しみから/人間の繁殖が芽生え」(恋愛とセックスと出産があり)「だが永遠に別れて行つた」が凝縮する。




Ambarvalia―西脇順三郎詩集
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(171 )

2011-01-24 00:43:58 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。

かんむりのひもをといて今か今かと
待つていたのにすずきの吸物も
なめてしまつたこのうすあかりの
せつない世界に待つ人もなく
なつてなでしこをもつオランダ人の
若木男の肖像だけがくらがりに
のこされてゆくこの坂の家にたれ
さがる白ばなのはぎのしげみに
ひとりのさびしい旅人がゆまりする
音がきこえるばかりだ
これもこじきの女神の
おとずれとなりうれしく思える

 ことばが行を跨いで行く。これは西脇の詩に頻繁することだけれど、「せつない世界に待つ人ともなく/なつて」というのは、「待つ人もなく」ということば自体で完結して見えるから、ちょっと困る。困る、というのは、あ、騙された、という感じである。「待つ人もなく」で「意味」を考えてしまったのに、そうじゃないのか、ずるいよ、という感じである。
 私は「誤読」が大好きだが、ひとの(西脇の)、「だまし」にのせられて「誤読」するのはいやなのだ。「誤読」はあくまで自分自身で「誤読」したい。
 それが私のわがままだとしたら、西脇の「だまし」はまた、西脇のわがままということになるだろう。
 --と、書きながら、私は、まあ、西脇を非難しているわけではなく、楽しんでいるのだけれど。

せつない世界に待つ人もなく
なつてなでしこをもつオランダ人の

 という2行は、そうした行のわたり(またぎ越し)のほかにもおもしろい要素がある。せつ「な」い世界を待つ人も「な」く、「な」つて「な」でしこをもつオランダ人の、と「な」の音の繰り返しの、その最中に、「待(ま)つ」「もつ」と「ま行」の音がはさまる。さらに「つ」の音もそれに加えることができるかもしれないが、この「ま」つ、「も」つの音の変化が「な」に挟まれてあるのは、なんとも不思議な美しさがある。
 「待つ/人も」「もつ/オランダ/人の」の、ふいに割り込んでくる「オランダ」という音もおもしろい。「オランダ」がわりこむことで「ひと」が「じん」に変わる。
 これは、西脇が考えてそうしているのか、本能的にそうしているのかわからないが、そういうおもしろさが西脇にはいつもついてくる。

 行のわたり(またぎ越し)では、

のこされてゆくこの坂の家にたれ
さがる白ばなのはぎのしげみに

 でも、私はだまされてしまう。「のこされてゆくこの坂の家にたれ」の最後の「たれ」を「誰」と読んでしまうのである。その前に「人」「オランダ人」「若き男」と「人間」がつづけて出てくるからだと思う。
 こんなことを思ってしまうのは、西脇の「っ」の表記が常に「つ」であるからかもしれない。旧かなつかいだからかもしれない。それに引きずられて「たれ」を旧かなで書かれたもの、「だれ」と読むのだ、という意識が動いてしまうのかもしれない。
 「さがる白ばなのはぎのしげみに」には濁音の美しさがある。鼻濁音の美しい繰り返しがある。

 その次の1行は、この繰り返される音が引き出した1行だと思う。

ひとりのさびしい旅人がゆまりする

 「ゆまり」。尿。小便をする。しかし、「尿」や「小便」では音が美しくない。
 この「ゆまり」は、それまでまったく登場しなかった音である。「ゆまりする」という音が、音自体として美しい。
 この「ゆまり」以前の音は、なんといえばいいのだろう--一種、技巧の音という感じがするのだが、この「ゆまり」は技巧を離れて、どこか、とんでもないところからふいにやってきた音楽そのもの、天から降ってきた音楽のように感じられるのだ。
 こんな印象は印象にすぎないのだが……。

ひとりのさびしい旅人がゆまりする
音がきこえるばかりだ
これもこじきの女神の
おとずれとなりうれしく思える

 このとき「きこえる」「音」は、尿をする、その尿の音ではなく、私には「ゆまり」ということばそのものの「音」に感じられる。
 「音」そのものが、ことばとも、それを指し示す現象とも離れて、純粋な音楽になる女「神」がもたらしてくれた音楽だ。そのとき、やってきたのは(訪れたのは)、「音」そのも、神をも超越した音楽。
 「おとずれ」のなかには「音」がある。「音・ずれ」としての「訪れ」。

 「意味」にはなりえない、こんな「たわごと」を書くことのが、私はとても好きだ。



西脇順三郎の絵画
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(170 )

2011-01-23 15:08:35 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。

多摩川から梨をもつてきてくれた
女のくつしたのなま白い
秋のすみれの香りにもまさる
このくだものの露のつめたい
出世が出来ない男が宮人のまねして
沼のほとりをひとりで歩いている

 行と行とのつながり具合がよくわからない。詩だから、「意味」がきちんと成り立たなくてもいいのだろうけれど……。梨(くだもの)、女、男、沼が断片的に思い浮かぶ。男が「沼のほとりをひとりで歩いている」という1行の「ほとり」「ひとり」の音は、「ほとり」というものは「ひとり」で歩かないといけないのだ、という気持ちを呼び起こす。そして、その前に「女」と「宮人」が登場するからかもしれないが、私は「ほとり」のなかに「ほと(陰)」を読んでしまう。女の陰部。「沼」が、そのまま「ほと」でもあるような感じがするのである。
 この「ほと(陰)」呼び覚ますものに、2行目がある。「女のくつしたのなま白い」。これは、ほんとうに女の靴下を描写しているのかどうかわからない。梨の果肉の色が「くつしたのなま白い」色に似ているというイメージに受け取れないことはないけれど、「なま白い」の「なま」の音がいろいろとスケべこころを刺激するのである。
 この行自体は、つく「し」た、なま「し」ろいという音のつながりによって成立しているのだが、そこに「なま」が入ってくることで、「女」が「なま」めかしくなる。そして、それが「ほと(陰)」につながる。
 「このくだものの露のつめたい」というのは、ふつうなら「露」ではなく「汁」(果汁)だと思うが、「つ」ゆによって、「つ」めたいが自然に動く。そして、その「つめたい」はなんとなく、「なま」めかしい「女」の、「なま」めかしいくせに「つめたい」感じを浮かびあがらせる。それとも、「女」は「つめたい」ことによって、男には「なま」の欲情をそそるのか、めざめさせるのか……。
 女がいて、男がいて、そして、そこにはセックスは存在しない。そのとき「ひとり」が浮き彫りになり、その「ひとり」がいろいろと妄想を誘ってくれる。
 --こんなふうに読みながら、遊んでしまうのは、私だけかもしれないが……。

 そして、このあと。

葦のなかでかいつぶりがねずみを追つている
「身分のひくい」女がひしをとつている

 これは「沼」の描写かもしれないが、「身分のひくい」ということばが強烈である。「宮人」(男)と「身分のひくい」女の対比が、私が先に書いた妄想をばっさり切り捨てる。
 「宮人(男)」と「身分のひくい」女がセックスをしてはいけないというのではないが、「宮人」ということばと「身分のひくい」ということばが、それまでのことばのなかに、「接続」ではなく「断絶」を持ち込む。
 この「断絶」の挿入(乱入?)を、私はとても美しいと感じる。
 この美しさは--一種の爆発である。爆発の瞬間、「空間」がかわる。「空気」がかわる。爆発とは、空気(空間)そのものの変化なのだ。
 この「断絶」と、それにともなう激しい「空気」の変化。このなかに、西脇が頻繁に書いている「淋しい」があると、私は感じている。
 異質なものが出会う瞬間、それまでの「空気」ががらりとかわる。そういう劇的な変化をもたらしてくれる「存在」。その存在(もの)に淋しさがあり、淋しさだけが、世界を変えうるのだ。





野原をゆく (1972年) (現代日本のエッセイ)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(169 )

2011-01-19 12:01:51 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。

なにしろあの山百合は
歯医者のかえりにいさらごのあたりを
うろつくちばの魚うりの女が
駅まで出る坂道で折つてきた
美しいへそくりの胡麻すりの
八月の日の愛情のあわれみだ
銅銭のやわらかみはもう
入口のくらやみには残つていない

 ここには何が書かれているのか。
 「あの山百合は」「ちばの魚うりの女が」「折つてきた」もの。その花には「あわれみ」「やわらかみ」「くらやみ」というような淋しさは「残つていない」--と、私の「頭」は強引に読みとってしまう。つまり、山百合の花と魚売りの女が出会い、その出会いのなかで、こころの奥にある感情がゆさぶられ、ゆさぶられるままに、ああでもない、こうでもないとことばが動いている。
 でも、そんなことはどうでもいいなあ。
 こころが、ことばが動くとき、その動きを私は自分でコントロールできない。西脇のことばのリズムに突き動かされて、いま書いたばかりの魚売りの女と山百合の出会いから逃れられなくなる。
 かえ「り」に、あた「り」を、「う」ろつく、魚「う」り、駅ま「で」、坂道「で」、へそく「り」、胡麻す「り」、あわれ「み」、やわらか「み」、くらや「み」。
 そこに書かれていることばは、「意味」もあるだろうけれど、それ以上に「音」をもっていて、その「音」がどうしても気になる。その「音」から逃れられなくなる。

美しいへそくりの胡麻すりの

 という1行は、これはほんとうに「意味」なんか、ぜんぜん、つかめない。澤正宏(福島大、人間発達文化学教授)にでも聴けば、出典と、それらしい「意味」は教えてくれるかもしれないが、私は「へそくりの胡麻すりの」という音だけで満足だし、「美しいへそくり」ということばのなかには「美しいへそ」があり、そこから女の裸なんかが浮かび上がるところが大好きだ。「へそ」の「胡麻」ということばを連想させるのもいいなあ。「「へそ」の「胡麻」と感じているときは、ことばではなく、女の裸を感じているのだけれど。
 そして、そこに女の裸を感じるからこそ「あわれみ」「やわらかみ」「くらやみ」ということばがぴったり感じられる。
 魚売りのたくましい(?)というか、頑丈な女と山百合。その取り合わせが、「意味」はわからないけれど「美しいへそくりの胡麻すりの」なんだなあ。

なまなすに塩をかけて
この美しい紫の悪魔を食うのだ
ピースにすい口をつけて吸い
呪文をとなえて充分
女神の分裂をさけるのだ
永遠は永遠自身の存在であつて
人間の存在にはふれていない
永遠をいくらつぶしてうすくしても
限定の世界にはならない
にわつとりがなく
また人類の夜明けだ
神々のたそがれはもう
ふたたびたまごの中にはいつた

 先に指摘したのとおなじ「音」の動きがここでも見られる。しかし、ここでいちばんおもしろいのは、

にわつとりがなく

 の1行である。
 ことばの転換の仕方としては、「旅人かへらず」の「ああかけすが鳴いてやかましい」とおなじものだが、音がケッサクである。
 「にわとりがなく」(鶏が鳴く)では、「音」がまったくおもしろくない。「にわつとり」(にわっとり)と促音が入ることでことばが弾む。「にわつとり」は次の行の「夜明け」を呼び出すのだが、その夜明けは「にわつとり」の「音」(なく--ということばに従えば、にわとりの「トキ」をつくる声だね)に破られて、夜明けどころか、真昼も飛び越してしまいそうである。実際、次の行では「たそがれ」になるのだけれど。
 その前に書いてあるのは、なにやら哲学じみたことがら、「意味」のありそうなことばなのだが、そんなものは、もういいなあ。「にわつとり」「にわつとり」「にわつとり」と叫びながら走り回りたい気持ちになる。
 この「無意味」、ナンセンスな肉体のよろこびが私は大好きだ。




詩学 (1968年)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(168 )

2011-01-09 11:11:17 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」の、たとえば、次の部分。

空間と時間しか残らない
生きるために死ぬのだ
死ぬために生きるのだ
存在するものは永遠しかない
そういう考えも人間とともに
また失くなつて行く
そういう会話が汽車の中で
桃をたべながら話す人間の中から
きこえてくることがあつた

 哲学的なことばにふいに割り込んでくる「桃をたべながら」という肉体的なことば。哲学から遠いことば。その出会い。この瞬間、私は「空間と時間しか残らない」や「存在するものは永遠しかない」ということばが無意味に思えてくる。「桃をたべながら」の方が哲学的だと感じる。
 なぜだろうか。
 「桃をたべながら」の方がわかりやすいからである。納得できるからである。頭ではなく、肉体で実感できるからである。
 おもしろいのは、そういう実感できること、その人間の「中から」ことばが聞こえてくるという表現である。ことばが「人間の中から」聞こえてくるというだけなら、それは「哲学」なのだが、その人間が「桃をたべながら話す」ということばと結びつけられるとき、「哲学」が不思議と肉体的になる。--私のことばで言いなおすと、真実になる。
 もし、「桃をたべながら」ではなく、(そして、汽車の中で、ではなく)、たばこをふかしながらだったり、酒(紅茶)を飲みながらだったりだったら、たぶん、それらのことばは「頭」のなかだけに
存在したと思う。
 「桃をたべながら」だからこそ、そこに肉体があらわれる。
 私は、こういう部分がとても好きだ。

 そのことばのつづき。

存在は存在自身存在するだけだ
人間の脳髄と関係がないのよ
もうやがてたま川へまた
まんだらげを取りにいらつしやいな

 「存在は存在自身存在するだけだ」というのは「存在するものは永遠しかない」ということばを否定しているのか、あるいは肯定しているのか。どっちでもいい。--私は、どっちでもいいと考える。それは「人間の脳髄とは関係がないのよ」ということばとは裏腹に、「人間の脳髄」で考えられたことばにすぎない。
 ほんとうは「桃をたべながら」話す人間とは関係がないということである。
 こんな私の読み方では、ことばの「意味」(論理)というものが解体されてしまうかもしれないが、そうではないかもしれない。
 「存在は存在自身存在するだけだ」は、実は「桃をたべる」肉体とは関係がない。その肉体と関係がないことを承知の上で、それを「脳髄とは関係がない」というとき、「脳髄」もまた「肉体」になる。「脳髄」もまた「頭」ではなく「肉体」だから、「存在は存在自身存在するだけだ」は「脳髄とは関係がない」ということになるのだ。

 あ、きっと、こんな書き方ではわからない。

 言いなおそう。
 ここでは、二元論と一元論が瞬時にかわっているのである。
 「哲学」を考える「頭」が一方にあり、他方に「哲学」を考えずにただ桃をたべる「肉体」がある。人間は「頭」と「肉体」でできているという二元論が一方にある。
 他方に、「哲学」を「頭(脳髄)」と関係があると考えるのはまちがい、「頭」とは関係がない、ただ「肉体」とのみ関係があると考える立場がある。--というか、「頭」も「肉体」なのだから、「頭」だけを取り出して、それを「脳髄」と呼び、「哲学」と「脳髄」を結びつけるのは「まちがい」だと考える立場がある。一元論である。「脳髄」と関係があるのではなく(つまり「脳髄と関係がなく」)、ただ「肉体」と関係しているのだ。「桃をたべる」肉体と関係しているのだ。
 そして、この一元論の立場をとるのは、「まんだらげを取りにいらつしやいな」と、即物的なことばを語る「女」の立場なのだ。
 哲学は「脳髄(男)」のなかにはない。あるとしたら、それはあくまでも括弧付きのもの。「哲学」。哲学は、「肉体」のなかから聞こえてくるものである。肉体と関係があるというよりも、肉体そのもの。

 ここには、なにかしら、矛盾したものが矛盾したまま書かれている。矛盾を排除し、整理し直すと、それは詩ではなくなってしまうのだ。ことばの直感とは無関係なものになってしまうのだ。
 ことばの直感は、「空間と時間しか残らない」というようなうさんくさいことばを否定し、「桃をたべながら」ということばのなかで息を吹き返すのだ。あるいは、「存在は存在自身が存在するだけだ」というような「頭」のことばを、そんなものは「脳髄と関係がない」と切り捨てることで、直感的に別のことばへと生まれ変わるのだ。
 論理から、直感へ。
 男から、女へ。

もうやがてたま川へまた

 この1行のなかの「たま」川と「また」の、その音の動きそのもののなかに、論理から直感へ、男から女へという運動が凝縮している。「論理」(意味)を音のなかで解体し、音そのもののなかで遊んでしまうのだ。
 音のなかで、西脇はみずから(進んで)迷子になり、ことばを解体する。
 --ということを、できるなら「結論」として、私はなんとか書きたいのだが、うまく書けないなあ。私自身にもよくわからないのだ。直感的にそう感じるだけであって、その直感をどう説明すればいいのか、ほんとうにわからない。
 きょう引用した部分には何か矛盾したものがあって、その矛盾に私は強く動かされて、「誤読」をしたくなるのである。

詩人西脇順三郎 (1983年)
鍵谷 幸信
筑摩書房
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