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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(161 )

2010-12-17 10:54:15 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(161 )

 『豊饒の女神』のつづき。
 「二月」。

こん夜は節分である
だんなの豆まきの日であつた
だが論文をかかなければならない
なにも書くことがない
冬は梅の中にふるえている
なさけない女のような日だ
ああ灰色のペルシャ猫の
なくなつた言葉を祭る日だ

 この書き出しのリズムがとても気持ちがいい。イメージの展開も楽しい。あることを書いて、そにれ関係するのか、関係しないのか、関係するといえば関係するし、関係ないといえば関係ない、そういうイメージを展開する遊びのような気持ちが楽しい。そして、気持ちが楽しいと書いたとたんに、「気持ちが楽しい」というのは変なことばだと思いながら、私は、これは何かに似ているなあ、と感じる。
 あ、連歌だ。

こん夜は節分である
だんなの豆まきの日であつた

 これは、発句。あいさつだね。書いたのは、豆まきに招かれた客である。「だんなが豆まきをするというので、およばれにやってきました。お招きしてくださり、ありがとうございました」。
 この2行に対して、主人が答える。

だが論文をかかなければならない
なにも書くことがない

 あ、そうか、豆まきの日だったか。だが、論文を書かなければならない。豆まきをしている暇はない。なにも書くことがないから、書くことをつくりださなければならない。
 これは季節を分ける「節分」を、まあ、むりやりの「記述」のようなものと解釈して、何かを書くことは、何かを分節することだ、などとしゃれているかもしれない。

 節分であることと、だんなが豆まきをすることと、論文をかかなけれはならないということのあいだには何の関係もないが、それを「つなげる」者の意識のなかには「つながり」がある。そして、それを「つなげて」読むものの意識のなかにも「つながり」が生まれてくる。
 詩は、そういう「むりやり」の意識、「つながり」遊びの意識のなかにあるのかもしれない。
 この冒頭の4行は、連歌にしては突然過ぎる展開かもしれないけれど、「現代詩」なのだからこれくらいの飛躍はあっていいだろう。

冬は梅の中にふるえている
なさけない女のような日だ

 この2行は連歌では「反則」かもしれない。最初の2行、いや、それ以前にもどってしまうからね。しかし、やはり「現代詩」なのだから、連歌そのものでなくてもいい。ただ、前に書いたことと、「つながり」ながら「はなれる」。その接続と分離を繰り返して、ことばをどこかへ動かしていけばいいのだ。
 あ、そんな動かし方があったのか、そんな取り合わせがあったのか、と思い、それを楽しめばいいのだ。
 前の4行が「男(だんな)」の世界だったので、ここでは主役を「女」へと動かしているのだ。

 一方、連歌は、前へ前へと進むが、西脇のことばは、そういう方向には頓着せず、過去の(前の)ことばの世界を引っかき回すようなところがあると思う。「節分」なのに、「冬」へもどる。「節分」のなかにある「春」ではなく、西脇は「冬」をひっぱりだしてきて、それが「ふるえている」と書く。
 このとき、梅が冬のなかでふるえているなら、それは節分の印象に非常にぴったりした感じがする。あるいは「春は」梅の中にふるえている、硬い梅のつぼみをえがいていることになるかもしれないが、西脇は「冬は」梅の中にふるえていると書く。
 一瞬、えっ、何? と感じる。その、「わからなさ」がおもしろい。
 「連歌」自体、ある「世界」に別の「世界」をぶつけて遊ぶものだが、そういう衝突の瞬間はいったい何が起きたかわからない。一瞬の空白があって、そのあと衝突によって「新しい世界」が動きはじめる。
 新しい世界が動きはじめるためには、空白--驚きが必要なのだ。

 この「空白」--意識の空白を利用して、西脇のことばは加速する。

ああ灰色のペルシャ猫の
なくなつた言葉を祭る日だ

 「節分」はどこかへ完全に消えてしまった。けれど、どこかで「論文をかかなければならない」「なにも書くことがない」を引きずっている。かきまわしている。「なくなつた言葉」ということばが。
 いや「節分」は消えていない。「祭る日」ということばのなかに生きている、ということもできる。
 --なんだって言える。これが、たぶん一番楽しいことばの楽しみ方なのだと思う。
 私流に言いなおせば「誤読」を楽しむ、ということだが。


西脇順三郎詩画集「〓」 (1972年)
西脇 順三郎
詩学社


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