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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(151 )

2010-11-07 12:26:31 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(151 )

 「失われたとき」のつづき。

欲望は見えないものを指さし
空は有に向つて有は空に向つて
あこがれる苔むした指環の廻転に
空は有を通つて空にもどる
有は空を通つて有にもどる
下馬の数学者は空は有に有は
空に絶対にならない
とペルノーの影でいう
カマクラのツァラトゥストラは空でも
有でもない大空がある
とミズナの影でいう
竹藪のささやきかきのこの香いだ
もう立ち話はつかれた
どこから有が空になり空が有になる
かその紫の線がひけない

 空(くう)と有(ゆう)をめぐる哲学。しかし、哲学というには、ここに書かれていることはあまりに簡単過ぎる。哲学の「意味」は、テーマではない。ただ、そうしたことを話しあった、という「事実」を告げるだけである。西脇がこの問題を真剣に考えていたとは思えない。「真剣に」というのは、ある結論を出すまでにいたっていないということである。
 この部分がおもしろいのは、「空(くう)」がカマクラを境にして「空(そら)」に変わってしまうことである。カマクラという具体的な「場」に出会い、「大空」にかわってしまうことである。具体的な「場」が「ミズナ」や「竹藪」という具体的なものによってより具体的になるとき、哲学は具体性を書いた空論に似てくる。この空しさ--それを西脇は「つかれた」と書いている。

もう立ち話はつかれた

 ミズナや竹藪の登場によって、具体的な「肉体」があらわれる。哲学的話題で「頭」がつかれる--のではなく、「立ち話」(ふと始めてしまった話)、立ったままつづけてしまった話によって、「肉体」がつかれる。
 「立ち話」ではなく、これが机に向かって(あるいはテーブルを挟んで)椅子に座っての議論なら「つかれた」は「頭」かもしれないが、西脇は「立ち話」と書くことで、哲学を狭い領域からすくいだし、さらに「頭」から「肉体」へとすくいだしている。
 「頭」のなかで繰り広げられるだけの「話」は、そもそも哲学ではないのかもしれない。
 私は、この1行が非常に好きだ。「ああかけすが鳴いてやかましい」(旅人かへらず)と同じように大好きである。

 この詩の引用部分には、また魅力的で不思議な1行がある。

竹藪のささやきかきのこの香いだ

 これは文脈の「意味」にしたがって読めば、カマクラのツァラトゥストラがいったことば、その内容になるだろう。空や有のややこしい問題のかわりに、カマクラには「大空」がある。そしてそれがもし「空」につながるものだとしたら、「有」につながるのが「竹藪のささやきかきのこの香いだ」ということになる。「大空」に対して「大地」。その「大地」あるのが竹藪やきのこだ。
 空・有の哲学問題に対して、カマクラの「大空」と「竹藪」「きのこ」を向き合わせる。その「肉体感覚」。それをいっそう具体的にいうと「ささやき」(これは聴覚であると同時に発声器官に属することがら)、「香い」(におい、と読ませるのだろう--嗅覚)になる。「聴覚」と「嗅覚」が並列している。「か」で結ばれているのだから、それは対立するものであるはずだが、実際に読むと、そのことばは「対立するもの」とはいえない。「か」で結ばれているにもかかわらず、それはからみあい、融合しているように感じる。
 「大空」は「竹藪のささやき」のなかにも存在する。「きのこの香い」のなかにもある。「竹藪」と「きのこ」は別々のものだが、その「竹藪」「きのこ」の「肉体」をとおるとき、「青空」はそのどちらになることもできる。
 「空」「有」ということばをつかず、西脇は存在そのものと向き合い、そこにある「運動」を嗅ぎ取る。太陽が(空が)、たとえば「竹藪」(有)をとおって「空」にもどる。逆に「竹藪」が「大空」を通って、「竹藪」になる。
 そして、この運動が運動としてそこにあるとき、そこにはひとつの特徴がある。
 「ささやき」と「香い」が、区別なく、西脇の思いを代弁する。




雑談の夜明け (講談社学術文庫)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(151 )

2010-11-02 11:41:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「失われたとき」のつづき。

 西脇の詩には、割り算のようなところもある。割り算という比喩が適当かどうかわからないが、えっ、そういうことばの動きがあったのか、とびっくりしてしまう。

動かないものは現在だけだ
現在がなければ過去も未来もない
過去と未来は方向の差だ
秋が終わるところも始まるところも
夏だ秋から夏に逆にまわしてみる
それは永遠の絶対の廻転だ

 詩は「意味」ではない。「意味」ではないが、そのことばのなかで何が語られているかが気になるときがある。
 ふつう、季節は春→夏→秋→冬と動いていく。そして、「現在」を「秋」と仮定すれば、「秋」は「夏」が終わり、「冬」が始まるまでのあいだということになる。「秋」は「夏」のおわりから「冬」のはじめに向かって動いていく。
 ところが、西脇はその「現在」という時間は動かない、という。そして、「秋が終わるところも始まるところも/夏だ」という。
 なぜ?
 時間を春→夏→秋→冬と動いていくと仮定すると西脇の書いていることは奇妙なことがらになるが、時間の動きがもしそうではないと仮定したら? 「現在」は過去から未来へ向かって動いていく一直線の流れのなかにあって、その流れに沿って動いているのではないと仮定したら?
 でも、どんなふうに仮定したら?
 時間は、過去へも未来へも自在に動いていく。「現在」自体は動かない。「意識」が「過去」の方へ、あるいは「未来」の方へ動いていく、「過去」や「未来」を「現在」と結びつけてそこに「時間」というもの(錯覚?)を描き出すのだとしたら?
 「未来」へ向かう時間のなかでは夏の終わり→秋はじまりになり、「過去」へ向かう時間のなかでは、秋の終わり→夏のはじまりになる。
 このことを西脇は「秋から夏へ逆にまわしてみる」と書いている。
 とても論理的である。どこにも「間違い」はない。そして、そこに「間違い」がないということに、私はびっくりする。「永遠の絶対の廻転」と西脇は定義しているが、その論理は「間違いがない=絶対」であり、またそうあることで「永遠」でもある。

 あ。

 としか、いいようがないのだが。
 と書きながらも、「あ」以上のことを書きたいと私は思っているのだが……。

 私は、あらゆる「詩」は「間違い」にある、と感じている。詩にかぎらず、芸術のすべては間違いである。そして、その間違えることにこそ、真実があると思っている。ある「現実」がある。誰にでも「現実」がある。それをそのままでは納得できない。納得するために、人間は「現実」を加工してしまう。「間違い」をくわえることで、自分が納得できるものにする。その加工の仕方(わざとする何か)、そこに詩があると考えている。
 でも、西脇の論理には「間違い」がない。あまりにも正確で、絶対的である。
 これはなぜ? どうして?
 「間違い」がないのは「頭」の世界だからである。「頭」のなかで論理が完結するからである。

 あ。

 西脇は「頭」で「現実」を叩き割って、そこに「絶対的に間違っていない論理=永遠の絶対」を流し込む。そのとき、「現実」は解体し、孤立してしまう。
 その瞬間に、詩が輝く。
 そういう運動が西脇のことばにある。
 これを私は「割り算」と呼ぶ。これは「現実を叩き割る」の「割る」にひっかけただじゃれのようなものであるけれど……。

 困ったことに--といっても、私だけにとっての困ったことなのだが、私は「頭」で書かれたことばのなかには「思想」はない、「思想」は「肉体」にしかない、と考えている。
 もし私の考えをそのままあてはめると、西脇の「永遠の絶対」を考える「頭」によって、現実を叩き割ることで生まれてくる作品は、詩ではない、ということになる。
 そういう詩ではない作品を、私が、詩ではないと書きながら、それでも大好き、というのは矛盾になる。
 なにが、どこで間違っている? どこを、どう踏み外している? そういう疑問が私を困らせることになる。私は困ってしまう。

 と、書きながら、実は、困ってはいない。

秋から夏に逆にまわしてみる

 これは、西脇の「論理」の「絶対性」の基本になる運動だが、この「逆にまわしてみる」が間違いである。西脇がこの詩で犯している「間違い」である。
 時間を秋から夏へ逆にまわしてみる--というようなことを人間はしなくていい。そんなことをしなくても「自然」(宇宙)はかってに動いて行って、季節をつくっている。逆にまわしてみる必要性は、宇宙には、ない。
 それを必要としたのは西脇だけである。宇宙をねじ曲げてみる、逆廻転させてみる、というのは西脇の「欲望」のしわざである。この「欲望」はどこからきているか。それは何でも考えてしまう「頭」から生まれているのだが、こんなでたらめ(?)をやってしまうのは、その「頭」がすでに「頭」ではなくなっているからだ。
 余分なことをしてしまう。つまり「間違い」の方向へはみ出す、逸脱する。そういうことをしてしまうとき、「頭」はすでに「頭」ではなく、「肉体」になっている。「肉体」のたとえば視覚と嗅覚がとけあったり、視覚と触覚がとけあうように、「頭」が「肉体」の何か(その何かを私は特定できないけれど)と溶け合って、不思議な具合にずれていくのだ。
 こういう「頭」を私は「肉体化した頭(肉・頭)」と呼ぶ。
 西脇は「頭」でことばを動かしているのではない。「肉・頭」でことばを動かしている。だから、そこから始まることばは、一見「間違いがない」ようにみえて、「大間違い」。そして「大間違い」であるがゆえに、「間違える」という真実に触れる。つまり、詩とぶつかりあうのだ。

 西脇のことばが「頭」ではなく「肉・頭」のことばであるということは、引用した先の2行、

秋が終わるところも始まるところも
夏だ秋から夏に逆にまわしてみる

 に具体的に書かれている。「秋が終わるところも始まるところも」は算数で言えば問題の部分「1+1=」まで。そして次の「夏だ」は答え。ところが、その答えは「2」ではなく、たとえば「0」なのだ。もちろん「1+1=1」ではない。だから、その「答え」を西脇は強引に言いなおす。「問題が間違っている。正しい問題は1-1なのだ」と。--これは、「逆にまわしてみる」ということから、私がかってに考えた「算数」だが、……。
 この「算数」は便宜上のもの。私は、実はもっと違う感じの算数を「肌」で感じている。西脇の算数は「1+1=2」ではない、「1-1=0」でもない。「1×1=1、1×0=0、0÷1=0」の世界である。常に「0(ゼロ)」を含んでいる。
 これは、まあ、私の直感のようなものが、そう言っているだけで、ほんとうにそうなのかどうか、説明のしようがないことなのだけれど。
 そして、このゼロの存在が、ゼロという存在を「頭」ではなく「肉体」として動かすことができる西脇の「肉・頭」が、あらゆることばを詩にしてしまう。
 西脇は、ことばを動かしてきて、ことばが煮詰まると、一気にゼロをぶつけてしまう。「旅人かへらず」の「ああかけすが鳴いてやかましい」のように、突然、それまでの行から飛躍する。

あなたの手紙に長い間返事を
しなかつたことを恥しく思うしかも
このみすぼらしい手紙を書くことも
うちの庭でとれた薄荷を少し
この封筒の中へ入れておきます





雑談の夜明け (講談社学術文庫)
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(150 )

2010-11-01 12:12:12 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「失われたとき」のつづき。

 私はふいに立ち止まる。

乞食のカメラはすべて四つに見える
恋人の眼は八つになるへそが四つに

 この四は何だろう。なぜ二つや三つではなく、四つなのか。すべてが四倍に見えるとき、二つある眼が八つになるのは簡単な数学なのだが、なぜか、この部分で私は止まってしまうのだ。私が「四つ」という単位になれていないせいかもしれない。私のリズムは二つ、三つだが、西脇のリズムは三つ、四つ、いや四つ、三つかもしれない。
 こういうことはあまりに感覚的過ぎて説明がつかないのだが(どう語っていいかわからないのだが)、私のリズムと西脇のリズムは合わない。そして、合わないことがとても刺激的なのだ。私がもっていないリズムが西脇にはあって、それが西脇のことばを動かしている。私は西脇のことばを「乱調」と感じる。乱調の美がある感じる。けれど、もしかすると、西脇にはそれは乱調ではないのかもしれない。

「あなたはキケロの全集をおもちでしようか
ラテン語をわたしはこのごろあまりやつており
ませんが 少し勉強したと思いますの--
キケロの演説や手紙などを読みたいと
思つておりますの--お貸し下さるかそれとも
どこでどうしてかりられますか教えて下さつた
ら大変うれしいのですが--」

 この行のわたりは、とても変だが、その変なところが私には不思議に快感である。行のわたりのたびに、からだが軽くなる。私のことばのリズムがかちかちなのを、西脇のリズムが突き破っていく。その、突き破られる瞬間が快感である。そして、それは大きなものを小さなもので割るのではなく、小さなものを大きなものが内側から破壊していく感じがある。
 私のリズムが2、3拍なのに対し、西脇はおそらく4拍のリズムでことばが動くのだ。音楽の場合、ひとつの長さを分割してリズムがある。けれど、言語の場合、ことばを分割してではなく、ことばを積み重ねてリズムをつくる。2、3拍より4拍の方が大きい。だから、2、3拍のなかに4拍を入れると、どうしても内部から破裂するしかないのである。この瞬間が、なんともいえず楽しい。あ、そんなふうに世界が見えるのか、と驚くのである。
 ただ、というべきかどうなのか、適当なことばがみつからないが、大きなリズムは小さなリズムでは測れない。私の2拍をふたつ重ねたら4拍になるかといえば、そうはならない。リズムが届かない(?)のだ。
 たとえば、

この女の手紙をもらつたホッグは
太陽に感謝して蝋燭を吹き消した
淋しい弓づくりはリッチモンドの小山に
林檎酒の祭をかいたカルヴァトは
どこかに住んでいたが
ゴボーの花と葉をかいたクロームは
黄色い世界が好きだった
野原と路と雲を指してみせる
旅人と犬のわきに日まわりの花が
永遠に見えるくらやみの心のはてだ

 何かが過剰に存在する。西脇のことばは追いかけても追いかけても、その先へ進んでしまっている。行のわたりのことばのように、あ、いま、西脇のことばが私のことばの枠を突き破った。そのために私のことばが「乱調」に墜落していく、あるいは「乱調」へ飛び散っていく--というのではなく、ここでは私のことばは連続したまま、内部から何かがぎゅうっと伸びてくるもののために引き伸ばされる。引き伸ばされるのだが、それは実際に私のことばが拡張するというのではなく、伸ばされても伸ばされても、実は西脇には届かないという感じがする。

 あ、こんなことを書くよりも、「四つ」については、別に書きたいことがあったのだ。それは、次の部分。

レンズみがきの永遠のカメラに
四重の四重のその四重の一つしか
みえないまたその一つもゼロに
なつて四重のゼロは単にゼロではない
ゼロがゼロに見えるときは
存在のゼロのゼロの夕暮れの日の
女のなげすてた野原にふく風に
また夕暮れのゼロの夕暮れが来た

 「四」と「一」と「ゼロ」。この数の「基数」のあり方--これが、私の場合とはまったく違う。「一」と「ゼロ」。私のリズムはそれがたぶん基本である。「一」と「ゼロ」とで「二」。「ゼロ」「一」「二」で合計「三」。私のリズムはそういう感じだ。でも、西脇の場合「三」がなくて、突然「四」。
 これは、どういうことかなあ。
 私はたぶん足し算なのだ。0+1=1、そこに数字がふたつあり、「2」が誕生する。それを合わせて0+1+2=3。ところが西脇は足し算ではなく掛け算なのだ。0と1、ふたつの数字。二つのものがもう一つ追加されると2×2=4。「四」はここから出てくる。(--私の書いている「算数」はちょっと奇妙だけれど、私は、そんなふうに感じている。)
 2+2というのは私の4の出し方だが、西脇は2×2=4の世界。そういえばいいだろうか。2+2=4も2×2=4も4であること、そしてその内容が同じなのだが、それは見かけのことであって、算数の「式」が違う。つまり、考え方の基本が違う。
 そういうことが、ある瞬間、ふっと感じられるのである。
 「四重」ということばが出てくるが、その「重」。それは足し算ではなく、掛け算なのだ。西脇は掛け算。そのスピードが、私のことばを破っていく。




西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(149 )

2010-10-28 10:57:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(149 )

 「失われたとき」のつづき。「Ⅲ」のパート。

ああ生命のあるうちにまた
少し歩いてみたいものだ
くるみをかめる人間はもう来ない

 私は何度も読み返してしまう。そこにある音の不思議さに読み返してしまう。3行目になぜ「くるみ」が出てくるのか。博識の研究者は出典を見つけ出してくるかもしれないが、この音の不思議さは出典では解明できないことだ。

くるみをかめる

 くるみをかむ、ではなく「かめる」。「め」が入ることで「くるみ」と「かめる」の音が3音でそろい、同時にか行、ら行、ま行の音が交錯することになる。そうすると「意味」ではなく、音--いや、発音器官の筋肉、神経が喜ぶのだ。「肉体」のなかで「音楽」がはじまる感じがするのだ。
 この音楽は、しかし、3行目で急にはじまるわけではない。1行目から静かにはじまっている。

ああ生命のあるうちにまた

 これは発声練習のようなものだ。「あ」の音が繰り返される。「生命」は「せいめい」とひらがなでは書くが、発音器官は「せーめー(せえめえ)」とゆったり動く。それは「ああ」からはじまる、音の解放と、解放の持続である。声帯をゆっくりひろげて、声をのびやかに出して、「あるうちにまた」と「あ」ではじまり「ま」「た」と「あ・あ」という母音の繰り返しでおわる。
 こういう音のつながりは、その行の「意味」が「生命のあるうちに」といういわば深刻(?)なものであることを裏切って、とても美しい。(あ、変な日本語になってしまった。)--言い換えると、「意味」を無視して、音が音として「音楽」をめざして広がっていく。その音の解放感が美しい。
 「あ」の美しい響きを通りすぎた発声器官は、どうしたって2行目で「あ」のつづきをほしがるものだ。「歩いてみたい」。ここには「あ」の交錯(「歩」いて、み「た」い)と「い」の交錯(歩「い」て「み」た「い」)がある。「あ」は「ものだ」の「だ」にも含まれていて、それは1行目の「また」の「た」と響きあう。
 こういう交錯、呼びかけあいがあって、「くるみをかめる」という音が自然にはじまる。
 2行目「ものだ」、3行目「もう来ない」の「も」の繰り返しもおもしろい。

 西脇のことばは「意味」ではなく、音の響きあいで動いていく。だから、3行目の「もう」を引き継ぎながら、4行目。

もう無限に来ないパー!

 無意味にはじける。解放される。
 前の行で「もう」をつかったばかりなのに、次の行でまた「もう」をつかうというのは、「学校教科書」の「作文」では「へたくそ」の部類に分類されるかもしれない。「学校教科書文法」では「意味」が優先されるからである。
 「意味」を優先してしまえば、「パー!」は絶対に許されないことばだろう。
 「パー!」って、何?
 わからない。わからないけれど、ここで「パー!」と唇を破裂させ、のどを開いて音を出すと、気分がいい。人が来ようが来まいが、そんなことはどうでもいい。

甘味にはちきれるいちじくの実も
黄金の栗も蟻とともに去つた
さいかちの古木の下に碑文を読む
流浪の学者も退職手当もなく去つた
存在するものも存在しないものも
問題でなくなりすべては去つて行く
すべてはせりふの音となつて
海の方へそよかぜのように去るパー!

 ここにも音そのものの繰り返しが何度もあらわれる。少しだけ取り上げると「去つた」「去つて行く」「去る」がある。「意味」としても繰り返されている。
 「すべて」の2行続けての登場という「へたくそ」作文も登場する。
 それは、すべて「せりふの音」--「音」そのものなのだ。
 「意味」ではなく、「音」がことばを動かしていく。

 「そよかぜ」というのは、そよそよと吹く風のことだから、厳密には季節に関係があいかもしれない。けれど、「日本語」の「歴史」(肉体)は、「そよかぜ」を「春」と結びつけている。「意味」的には「春」になってしまう。「いちじく」「栗」は「春」ではなく「秋」だろう。
 「意味」を重視してことばを動かせば、海の方へ去るのは「そよかぜ」ではなく、ほかの風になるだろう。
 けれど、西脇は「そよかぜ」と書く。
 それは、それまで動いてきたことば、その音のなかに「そよかぜ」の「そ」、さ行と呼び掛け合うことばがたくさん出てくるからである。



最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
実業之日本社
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誰も書かなかった西脇順三郎(148 )

2010-10-27 11:31:50 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。

 俗なことば、といっていいのかどうかわからないが、西脇の詩には、私の感覚からすると「俗なことば」が頻繁に出て来る。

リキュア・グラスのようなヴィーナスが
山際にふるえる九月の夕方近く
無限に近い悲しみを背負つて
すみれ色の影のある壁によりかかつて
永遠にふるえる存在の涙をさがした

 「涙」ということば自体は「俗」ではないかもしれないが、「悲しみ」「すみれ色」「影」ということばといっしょになると、非常にセンチメンタルになる。「意味」よりも先に「感情」があふれてくる。
 こういう「感情」に「無限」「永遠」「存在」という堅苦しいことばがぶつかる。そうすると、センチメンタルもつきつめ方しだいて「哲学」になるような気持ちになる。一瞬、「感情」が破られたような気持ちになる。
 あ、でも、私のこの書き方は、間違っているね。
 西脇は「無限」「永遠」「存在」ということばを先にもってきて、それに「悲しみ」「すみれ色」「影」「ふるえる」「涙」をぶっつけている。
 「無限」「永遠」「存在」は、西脇にとって「哲学」のことばではなく、センチメンタルなことば以上に「俗」なのものなのかもしれない。その「俗」を悲しみ」や「涙」という「俗」で破ろうとしている。
 だから、「涙」という「俗」なことばが、それ自体では「俗」なのに、この詩のなかでは「俗」ではなく、もっと違うものになる。
 なんといえばいいだろう。
 粗野--ちがうな。荒々しい何か。野蛮--あ、きっとそうなのだ。野蛮なのだ。
 西脇は野蛮の美しさ、強さを書いているのだ。

 「背負つて」「よりかかつて」という脚韻(?)の響きを「さがした」が破るとき、その「が」という濁音がとても美しい。ここでいったん世界が完結する、という印象がする。「無限」「永遠」「存在」に呼応する漢字塾語の動詞では、野蛮は見えてこない。「さがした」という日常のことばだからこそ、それは美しい。

 野蛮がいったん成立すると、むきだしになる「いのち」、汚くよごれたものが「俗」から「聖」にかわる。

神聖なものはこのとうもろこしと
この乞食のつぶれた帽子だけになつた
野ばらのとげに破れ
やぶじらみがついた
この冠だこの夕暮の冠だ

 「乞食」「やぶれた(帽子)」「とげ」「破れ」「やぶじらみ」。破れ目からのぞくのは、しぶとい「いのち」である。「いのち」があざやかに見えてくる。
 それは、真っ白な肌に流れる血のように赤い。鮮烈だ。



西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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誰も書かなかった西脇順三郎(147 )

2010-10-26 11:01:13 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「失われたとき」のつづき。

 西脇の詩には「哲学的」なことばがたくさんある。それはしかし同時に「音楽的」でもある。

たずねた人が留守であるほど
人間らしいなやみが
無限につづく
考えるということを考えるだけで
考えるものはなくなつて
時間もなくなつて空間ばかり
が永遠にはてしなくつづいていて
それがまた自分のとたろへ
もどつて来る悲しみは
人間の生命となつてまた悲しむ

 ここに書かれていること、考えるとなんだか深刻なテーマであるような気がするが、私は、まあ、そんなことは考えない。
 ここに書かれていることばが私は大好きだが、ふたつ理由がある。
 ひとつは「たずねた人が留守であるほど/人間らしいなやみが/無限につづく」の奇妙なことばの動きである。たずねた人が留守なら、私の場合、がっかりする、空しい、というような感じだが、そういうどうでもいい(?)ことを「人間らしいなやみ」と深刻に動かすこと、そしてそれが「無限につづく」とおおげさにいうこと。その「わざとらしい」ことばの運動が、「がっかり」とか「むなしい」を異化する。あ、そうか、「がっかり」を「人間らしいなやみ」といってしまうと、ことばの動き方が変わってきて、そのいつもとは違うという感じが詩なんだな、と思う。
 もうひとつは、そのとに繰り返されることば--ことばの繰り返しの面白さである。
 ことばは繰り返すと、同じことばのままでは存在しえなくなる。繰り返すたびに、意識のなかに「ずれ」がうまれてくる。前のことばと、次のことばのあいだに、反復による深みがうまれて来る。その深みはさっかくかもしれないが、そう錯覚することが、なにやら「思考」している気分を高めるのである。また繰り返すことで、ことばにリズムが生まれ、「思考」というような重苦しいものが軽快なダンスのようにかわる。
 西脇が「意味」を書いているかどうか、私にはよくわからないが、

考えるということを考えるだけで
考えるものはなくなつて

 という繰り返しは非常に楽しい。先に書いたこととは矛盾するのだが、繰り返しはまた、ことばから「意味」を剥奪してしまうのである。「深み」をうみながら、その「深み」を軽々と飛び越してしまう。
 この「深み」と「超越(飛躍、飛翔?)」の一種の矛盾が、西脇の詩を楽しくさせる。




西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)
クリエーター情報なし
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誰も書かなかった西脇順三郎(146 )

2010-09-17 10:08:49 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。

七月の末になつてしまつた
カメキューラの山々には
ネムの木に花が咲きかける

 2行目の「カメキューラ」は何だろう。たぶん「カマクラ、鎌倉」なのだろうが、なぜ、そんな不思議な音にして書く必要があったのか。
 こんなことは、よくわからない。いや、まったくわからない。「鎌倉」だと「ノイズ」にならない。「カマクラ」でも、つまらないのだ。
 「オーメ街道」ということばが以前でてきたが、「青梅街道」でも「オウメ街道」でもきっとだめなのだと思う。声に出してしまえば同じだが、いや、同じだからこそ、違った表記にすることで「音」を印象づけようとしたのではないだろうか。
 西脇が朗読をする詩人だったかどうか知らないが、書くということは西脇にとっては朗読と同じだったのだと思う。声には出さないが、ことばを書くとき、発声器官が動く。その発声器官に対して「文字」を変化させることで「ノイズ」を送る。「ノイズ」を受け取ると、そこで「和音」が違ってくる。聞き慣れない「音」が紛れ込む。西脇はその刺激が好きだったのではないのか。
 「ノイズ」によって「鎌倉」が「鎌倉」から離れる。鎌倉でありながら、鎌倉でなくなる。「カメキューラ」という、その「音」を出すときにのみ存在する「場」になる。そこにさく「ネムの木」も独自のものになる。孤立したものになる。
 詩は、現実から離脱した存在なのである。
 鎌倉ではなく、カメキューラであるとき、その後に出てくる「ゼウス」も「ペネロペ」もギリシャとは無関係である。たとえ、その音があらわすものがギリシャ神話の神と同じ名前であっても、それをギリシャ神話のゼウスと考えてはいけない。そこから分離したもの、無関係なものと考えないといけないのではないか、と思う。

 ことばには必ず「出典」がある。その「出典」を特定し、詩のことばを説明する--そういうやり方に私はかなり疑問を持っている。それは、きょう読んでいる「カメキューラ」のような部分を読むと強く感じる。
 西脇は、それがまぎれもない「鎌倉」であっても、鎌倉ではなく「カメキューラ」という土地へ離脱して書こうとしている。そうであるとき、そこに登場するたとえばゼウスがギリシャ神話のゼウスそのままでいいはずがない。違った存在として登場してこないと、「カメキューラ」を異化することができない。
 「カメキューラ」はギリシャ神話によって異化されただけのものになってしまう。そんなことなら「カメキューラ」にする必要はない。鎌倉とギリシャ神話の出会い自体に「異化」が含まれているからである。

 こうした、「わざと」仕組んだことばによって西脇は何に出会おうとしているのか。
 ふたつの部分が、私には気にかかる。

二人は何も語らないが
果てしないものを語っている
二人は何にもふれないが
はてしないものにふれている
何も見ないが
永遠にさけたいものを見ている

「すべて大切なものは大切ではない
大切でないものが大切である
すべてが同じものであーる
山のはじまるところと
山のおわるところは同じところだ」

 矛盾したもの。対立したもの。それが「出会う」瞬間、「同じ」になる。「二人」ということばがあるが、「二人」は二人であるが、出会い、「一人」になる。「同じ」ものについて考える。「同じ」ものを見る。
 引用した部分は「禅問答」みたいだが、禅の「問答」も、現実を「異化」するための仕組みかもしれない。現実を異化することで、ほんとうに出会おうとする。「来歴」をすてさり、「個」になる。
 「個」になることによって、自由になる。自由な出会い、自由な衝突、自由なビッグバン。
 「カメキューラ」には、そんな夢想が含まれているかもしれない。



西脇順三郎コレクション〈第4巻〉評論集1―超現実主義詩論 シュルレアリスム文学論 輪のある世界 純粋な鴬
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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誰も書かなかった西脇順三郎(145 )

2010-09-16 10:31:43 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。
 西脇の音--その美しさは、奇妙に聞こえるかもしれないが「雑音」にある。純粋に研ぎ澄まされた音ではなく、「ノイズ」にある。「ノイズ」の音楽。現代音楽を先取りしている感じである。

十一月は半ばすぎた
オーメ街道の友達を訪ねて
雨のなかに立つているケヤキの木の
しめつぽい存在のなかをうろついた
またかぜをひいているだろうか
果てしない鼻声は
ジュピーテルの神の
耳をそばだたせる

 「オーメ街道」とは「青梅街道」だろう。「青梅街道」と書いてしまえば、そこに「ノイズ」はないが、「オーメ」と書いた瞬間に「ノイズ」がうまれる。それは、脳ひっかく音である。「オーメ」というのびやかな「肉体の音」の一方で、その表記は脳に別の刺激を与える。「ノイズ」は脳にも関係している。
 「果てしない鼻声」は、「音」そのものをあらわしたものである。それは「美しい」とは一般に言われていない。それも、こんなふうに書かれてしまうと、不思議に脳を刺激する。
 意識の乱調がうまれる。
 「ノイズ」とは意識を乱すものなのである。

 引用部分は、そのあと、

西海岸の紫の波の音に
よく似ている音と怒りだ

 とつづいている。「鼻声は」は「よく似ている音と怒りだ」はつづくのかもしれない。つづき具合が、散文論理ではつかみきれない。この、乱調。これもまた、「ノイズ」であり、新しい音楽だと思う。

 このあとにも、好きな部分がある。

この倫理学の先生はソクラテスのような
男を使つて桑畑を耕された
「これはわたしのところで作つた茶です」
バケツと鍬がすてられている神々の
たそがれの国について話をうつした

 「バケツと鍬がすてられている神々の」の「バケツ」という音、そして存在が、突然の「ノイズ」で、はっとさせられる。意識が強い刺激で叩かれる。
 これは、「現実」の音楽である。
 西脇は、こういう音楽とは別の音楽も聴いている、ようである。

友達をたずねるだけが天体の音楽だ
友達は柿をむいてくれた
竹藪に四十雀のいることを知らせてくれた
秋の日は終りをつげてくれた

 「天体の音楽」。これは、「淋しい」に通じる音楽だろうか。「竹藪に四十雀のいることを知らせてくれた」は「淋しい」。そして、その行のなかの「濁音」の動きは、はてしなく静かな「ノイズ」に、私には感じられる。





西脇順三郎コレクション〈第4巻〉評論集1―超現実主義詩論 シュルレアリスム文学論 輪のある世界 純粋な鴬
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誰も書かなかった西脇順三郎(144 )

2010-09-15 12:13:46 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。
 ことば--その何を「音」と感じ、何を「色」や「形」と感じるかは、難しい問題である。私は西脇のことばから「音」を感じる。色や形ももちろん感じるのだけれど、音をとても気持ちよく感じる。

あのイソギクの岩のすきまに
ものがたる女のむつごとに
も秋の日が傾いた
あの紺色の波が岩にくずれる
とき海の夫人がイソギクの根に
雲のようにたなびいてくる
海のどよめきに
言葉のつまづきに
この秋の日がくれて

 「あのイソギクの岩のすきまに」この1行の「イソギク」という音。私は、まず、その音に不思議な響きを感じる。「ソ」の音が美しいと思う。
 「ものがたる女のむつごとに」のなかには「ものがたる」と「むつごと」という音を感じさせることばが2回も出てくる。そのあとにも「どよめき」「言葉」という音そのものを感じさせる表現がある。
 どの音も、けれど「意味」を持っていない。--これは、とてもおもしろいことだと思う。「ものがたる」という表現はあっても、何を物語ったのか書かれていない。「むつごと」も具体的には書かれていない。「言葉のつまづき」も、どんなことばがつまずいたのか、具体的には書いていない。
 ここには音の「概念」だけがある。

 だから、「音楽的」ではない。

 と、いう人がいるかもしれない。
 けれど、私は、「音楽」を感じてしまう。
 「イソギク」という独立した音そのものにも音楽を感じるが、特に、「ものがたる女のむつごとに」に不思議なものを感じる。正確には(?)、つぎの行との関係性の中に音楽を感じる。

ものがたる女のむつごとに
も秋の日が傾いた

 この2行は、「ものがたる女のむつごとにも/秋の日が傾いた」か「ものがたる女のむつごと/にも秋の日が傾いた」が普通の書き方だと思う。行の「わたり」をおこなうにしても「に/も」という「わたり」はないだろう、と思う。
 しかし、そういう考え方は、きっと「学校教科書」の文法なのだ。「にも」を「に」と「も」に分割してはいけないという考え方は「学校教科書」の文法なのだと思う。
 西脇は、「にも」を分割して「に/も」と行の「わたり」を書いているのではない、と私は思う。

あのイソギクの岩のすきまに
ものがたる女のむつごとに

 と、自然に書いてきた。そして、そこでいったん、とまった。ことばが動かなくなった。次に書くことばが同じスピードではやってこなかった。「休止」があるのだ。「休止」のあとに、ふいに「も秋の日が傾いた」という音が押し寄せてくる。「音」を切断して、風景が動く。それこそ「絵画的」になる。「紺色の波」というような「色」を含んだことばもやってくる。
 それを、もう一度「あの紺色の波が岩にくずれる/とき海の夫人がイソギクの根に」という行の「わたり」を挟んで、「どよめき」「言葉(のつまづき)」という音そのものへかえしていく。音を強調するために、行の「わたり」というリズムの変化を持ち込む。
 「音楽」というのは「音」だけではない。「和音」だけではない。リズムがあってはじめて「音楽」になる、という部分がある。
 西脇は、ここでは「音」の「意味・内容」を拒絶しながら、「行のわたり」によって、その拒絶を「リズム」にかえている。「意味・内容」が空白なままの「音」が「リズム」そのものを「意味・内容」のかわりに、ことばの内部に取り込もうとしているように思える。

 「音」そのものを主役とした行は、数行先にもう一度登場する。

リンドウの花と苔と一緒にとつて
二人は路ばたで休んだ
あの音はもうたわごとにすぎない
女はしばらく藪の下にかくれた
谷川のせせらぎにきく
秋の日のあまりある言葉に
果てしない存在の
のびて行くすがたが
岩にぶつかつてまたくずれてゆく

 「ものがたる」「むつごと」は「たわごと」になり、「ことばのつまづき」は「ありあまる言葉」となって、秋の日のなかに吸収されていく。
 「意味・内容」のかわりに「リズム」をとりこんだことばは「無音の音楽」となって、秋の日に消えていく。
 そんなことを思うのである。



西脇順三郎絵画的旅
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会

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誰も書かなかった西脇順三郎(143 )

2010-09-14 11:11:12 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。
 西脇の詩は「絵画的」か「音楽的」か。「音楽」嗜好をナマの形で感じるのは次の部分である。

すぐ着物を着ようとするような
女でなく永遠に着物を脱いで
永遠のために裸をぎせいにする
女を描く人は理知的であると
ある彫刻家がため息で言つたこと
を伊太利語でききたいのだ

 「意味・内容」なら知っている。「意味・内容」ではなく「音」を聞きたい。イタリア語を聞きたい。ここに「音」に対する欲望があらわれている。「音」にたいする欲望は「音楽」に対する欲望であって、「絵画」に対する欲望ではない。
 そして、その「意味・内容」の部分である数行の、行のわたりと、行をわたりながら繰り返される同じことば--繰り返しのリズムもまた「音楽」であり、その「音楽」のなかでことばの「意味」がかわってしまうのもおもしろいと思う。
 「永遠に着物を脱いで」の「永遠」はほんうとの「永遠」ではなく「長い時間」くらいの意味である。モデルになっている間の時間くらいの意味である。次の「永遠のために裸をぎせいにする」の「永遠」はほんとうの「永遠」である。「永遠のために」とは女の裸があらわす美という「永遠」、つまり真実のために、というくらいの意味だろう。モデルは、女の裸がもっている永遠の美を具体化するために、自分自身の裸を犠牲にする(供物としてささげる)ということだろう。「音」は同じでも、「意味・内容」は、ほんとうは揺れている。
 西脇が書いているのは日本語だが、実際に聞いたことばは何語だろう。それをイタリア語で聞きたいと感じている。思っている。そのとき、西脇の肉体のなかに、「永遠」がイタリア語で響いている。伊太利語を知っているかどうかは関係ない。イタリアの空気と、そこに広がる音が光のように満ちている。イタリア語の揺れを夢見ている。
 「ある彫刻家がため息で言つたこと/を伊太利語でききたいのだ」という「を」を冒頭にもってくることによる行の切断と接続のリズムにも「音楽」がある。

 これらの行につづく部分にも「音楽」を感じる。

ローミヨーのように金貨を一枚
おばあさんのことろへなげて
一ふさの葡萄を買うことは
永遠の女を思うからである
ラヴェナの女達はみな
口紅をテカテカにつけている
からポプラの木がその上に
写るのだ

 「ラヴェナの女達」からの4行は、映画で言えばカメラがクローズアップしていく動きに似ている。口紅→その光→くちびるの上のポプラと視線が動いていく。「絵画的」であるとも言える。しかし、それは「意味・内容」に視点を置いたときのことである。
 口紅をテカテカにつけているから、その口紅の光の上に(くちびるに)、ポプラの木が写るのだ--というのが論理的な文構造になるが、西脇は、そんなふうに書かない。そういう「論理構造」を破壊しながら、テカテカの光から、いきなりポプラの木に飛躍し、そのあとくちびるへもどって来る。「写るのだ」という独立した1行で、視線の運動を組み立て、ことばの「論理構造」を揺さぶって見せる。
 この「揺さぶり」というか「乱調」のなかに「音楽」がある。
 それそれの「音」は別々の方向へ向いているような、とんでもない飛躍をかかえながら、最後に一続きのものとして思い出すと、そこに「メロディー」があったのだ、という不思議な発見に似た感じ。
 こういう「音」の動き、「論理構造」を揺さぶって、破壊して、同時に再構築する「音」の動き、それが私はとても好きだ。




西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
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誰も書かなかった西脇順三郎(142 )

2010-09-13 22:59:14 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。
 私が好きな部分を、断片的に書き記していこう。

紫色の八月が光るために
白い路の端がコバルト色にそまる時
男の歴史をおもうのである
あの黒ずんだ葉が無限の形に
くねる無花果の木のかたまり
が路傍に枝をさしのべて
旅人に何物かをしやべろうとしている
あのまだ青いふぐりのような実は
ギリシャ人の彫刻のように
ロダンのヨハネのように
葉の手でかくされている
あの偉大な悲劇がかくされている

 「紫」「白」「コバルト」と色がつづく。この変化を指して、西脇の詩の「絵画性」をいう人がいると思う。だが、私は「絵画」を感じない。すぐに「男の歴史」というような絵画とは無縁な「時間」が引き合いに出されるからである。「絵画性」を「時間」で西脇は否定しているように思う。「紫」「白」「コバルト」は4、2、4音。紫と白は重い。それがコバルトの「バ」という破裂音で吹っ切れる。もし「絵画性」というなら「コバルト」ではなく、日本語の色の名前(コバルトは、なんというのだろう、「青」では言い表せないことはわかるが……)をつかい、「音」が異質なものにかわったという印象を遠ざける方が「絵画的」だろう。意識が「色」に集中するだろう。
 また「絵画性」、その「色」へのこだわりを西脇がもっているとしたなら無花果の実を描写した「青いふぐりのような実」の「青」はとても奇妙である。ここで書かれている「青」は「ブルー」ではなく「グリーン」に近い。「緑」である。「緑」を日本語ではときどき「青」と呼ぶ。信号の青、青葉の青、青年の青--は英語ではたしか全部グリーンである。西脇は「色」ではなく、「音」にこだわってことばを選んでいるのだ。「あのまだ緑のふぐりのような実は」、あるいは「あのまだグリーンのふぐりのような実は」では「音」が狂ってしまう。「みどり(グリーン)」のなかの「濁音」が「ふぐり」の「濁音」の美しさを邪魔してしまう。
 コバルトの濁音、ふぐりの濁音、そしてその前の「しゃべる」の口語の濁音がここでは響きあっている。口語の、声に出したときの、音の響きが詩のなかで反響している。

旅人に何物かをしやべろうとしている

 この1行は、また、「絵画」から遠い。もちろん人が「しゃべっている」絵というものはある。あるけれど、そこではひとは「音」を聞かない。「形」を見る。
 このことばのあとには「彫刻」という、これまた視覚芸術が登場するけれど、それにつらなるのはギリシャ、ロダン、ヨハネという日本語ではない「音」である。
 そしてまた、そこでは「かくす」ということがテーマになっているのもおもしろいと思う。「視覚芸術」はあらわすとと同時に「かくす」のである。
 「かくしたもの」を剥がしていくのが「音楽」(聴覚芸術)というのは、ちょっと飛躍が大きいかもしれないが、なんとなく、そういうことを言ってみたい気持ちになる。
 しゃべる--それは「肉体」のなかに隠れているものを、一瞬のうちに消えてしまう「音」にして吐き出してしまうことかもしれない。定着させずに、常に、あらわれては消える「音」--その運動が、「消える」ことをいいことに、何か秘密をあばくのだ。あばいたあと、そんなことは言っていません--とことばはいうのだ。きっと。
 そういうことは、「ずるい」何かである。けれど、そういう「ずるい」もののなかに、不思議な楽しさがある。
 詩は、そういうものと刺し違えるのもいいのではないだろうか。





詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
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誰も書かなかった西脇順三郎(141 )

2010-09-09 11:20:04 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。
 西脇の詩には、ときどき「事件」が起きる。

ハイボールは罪悪の根元であるから
シェリー酒のたそがれの空を汲み
かわして蜜酒で永遠のちぎりを結んだ
二人は後世マネーという男が描いた
ようなポーズで休んだ
驚くべき会話もとりかわされた
「存在は存在しないところに存在する
存在は存在ではないところのものだ
すべての存在は舌と舌との間にある
ふれるだけの現実である
舌の先でふれる現実は
アカントスの葉のように
ふるえる 無限が終るようになる」
黒人女からミモザの花を買つて
二人は帽子にさして
また走りつづけた
リットル・ギディングという村まで五分と
いうところでこの偉大な事件が起つた

 「存在は存在しないところに存在する」からはじまる行の「哲学」。それは何も説明されない。補足されない。「二人の会話」という形で提出されるだけである。これは、ひとりでは語られなかったことばであり、そして、そのことばは二人にとっては「補足」の必要がないほどわかりきったことがらである。二人の「肉体」になってしまっている。
 そのわかりきったことがらというのは、「矛盾」(存在は存在しないところに存在する--は矛盾以外の何物でもない)という形でしか語ることができない。「矛盾」であるけれども、ふたりの「肉体」は、それを「矛盾」とは考えていない。
 「肉体」が実感していること--体得していることといった方がいいのかもしれない。それは、「肉体」から外へ出るときは、「矛盾」になってしまう。それは「ことば」にならならずに、「肉体」のなかですべてを統合する何かである。「肉体」と切り離せない何かである。「肉体」と切り離せないもの、「いのち」、それは「矛盾」している。「矛盾」しているからこそ、幾層にも描くことができる。
 そして、それは「ことば」にはならない。「ことば」にならないから、「舌と舌との間」という「肉体」であらわすしかない。

 「存在」を「ことば」に置き換えてみるのもおもしろい。

ことばはことばのないところにことばとしてうまれる
ことばはことばになっていないところのものだ

 西脇のことばは、その「哲学」どおり、ことばのないことろで生まれ、常にことばのないことろへと動いていく。
 それが西脇の詩である。






西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(140 )

2010-09-08 23:19:28 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。
 行の「渡り」は西脇の詩では頻繁に起きる。

ああ無限の淋しさはつまらないもの
からほとばしり出るのだ

 この2行は、そういう「渡り」のなかでも、とてもおもしろい。「ああ無限の淋しさはつまらないもの」は1行として完全に独立している。「無限の淋しさ」を定義して「つまらないもの」と言っているように見える。そう読んでしまう。
 読者に、そう読ませておいて、それを次の行でひっくりかえす。
 「無限の淋しさはつまらないもの(ではなく/無限の淋しさはつまらないもの)からほとばしり出るのだ」、あるいは「無限の淋しさはつまらないもの(ではなく/つまらないもの)から(無限の淋しさは)ほとばしり出るのだ」。「つまらないもの」からほとばしり出たものが「無限の淋しさ」である。
 「無限の淋しさ」は「つまらないもの」という定義は否定され、「つまらないもの」から「ほとばしり出たもの」が「無限の淋しさ」である。
 このとき「つまらないもの」は、否定されているのだが、同時に肯定されてもいる。「つまらないもの」がないと「無限の淋しさ」は存在しえない。それは「無限の淋しさ」を生み出す「母胎」であるのだから。
 「つまらないもの」は否定されながら、肯定されている。
 否定と肯定が、「渡り」の一瞬の間に交錯する。「渡り」のなかに、「矛盾」があり、その「矛盾」は、東洋思想でいう「無」であるように見える。(「無」は「ではなく」の「なく」のなかにある。)「混沌」であるように見える。そこには何もないのではなく、まだ「形式」がないだけであり、エネルギーは満ちあふれている。「矛盾」したものが満ちあふれ、形になりきれていないが、ある何かの「作用」があれば、それは新しい形に結晶化する--そういう「場」としての「無」。
 「渡り」は「無」という「場」なのだ。「場」としての「無」なのだ。
 「無限の淋しさ」は「つまらないもの」ではなく、「つまらないもの」から「ほとばしり出たもの」。つまり、それは「ほとばしり出る」という運動であり、その運動の「場」が「渡り」なのだ。

 「つまらないもの」は否定されながら、肯定されている。--と書いたが、そうなのか。そうではなく、「つまらないもの」とそこから「ほとばしり出たもの」は「無限の淋しさ」のなかで、結合している。「ほとばしり出る」というのは、存在の内部と外部を直結する運動であり、その運動のなかで「つまらないもの」と「つまらなくないもの(無限の淋しさ)」は区別がない。同等である。
 この「矛盾」が「無」という「場」。
 詩をつづけて読んでいけばわかる。どれが「つまらないもの」なのか、そして、どれが「つまらないものからほとばしり出た」もの、つまり「無限の淋しさ」として肯定されたものなのか、区別がつかない。

詩人は葡萄畑へ出かけて
こい葡萄酒をただでのむだろう
クレーの夜の庭で満月をみながら
美容師と女あんまは愛らしいひょうたんを
たかむけてシェリー酒をのんでいる
ああ無限の淋しさはつまらないもの
からほとばしり出るのだ
お寺の庭の池のそばにはもう
クコの実が真赤になつてぶらさがる
ダンテの翻訳者はクコ酒をつくる季節だ
ドイツ語の先生はクレーの金魚のために
アカボウをさがしに夜明け前に出かける
小川の下流を占領するため早く行くのだ
そして財布をおとす季節でもある

 この激しい運動、軽快な運動--それは「絵画」ではなく、「音楽」の運動である。


西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)

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誰も書かなかった西脇順三郎(139 )

2010-09-07 09:33:50 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。
 次の3行も、とても好きである。

旅人よ汝の名はつかれであり方向がない
路ばたから花咲くハシドイの枝を折り
リラの杖を作つて失われた永遠をさがした

 「方向がない」は「漂泊」という意味くらいかもしれない。「漂泊」だと、なんだかセンチメンタルである。センチメンタルによごれている感じがする。それを「方向がない」と「わざと」物理的にいってしまうと、そこに新鮮な風が吹く。空気が新しくなる。
 「路ばた」の行の「花咲く」はとても不思議だ。甘ったるい描写に見えるが、この「花咲く」は絵画的な描写ではない。「花咲く」の「は」は「ハシドイ」の「は」。音を誘い込むための「枕詞」である。そしてそれは「路ばた」の「ば」からはじまっている。「路ばた」の「ろ」は「から」の「ら」、「折り」の「り」とつづくことで「ら行」を動かし、次の「リラ」の「り」へつづく。
 西脇のことばは、いつでも「音」がひびきあう。音がひびきあうことでリズムと和音をつくる。音楽になる。
 「杖を作つて」には「つ」の繰り返しがある。

 つづく2行。

ビッコをひいて再びさまよつた
これらのカラフィルムは存在の不幸だ

 ここにも「音」の呼応がある。「ビ」っこを「ひ」いて再「び」さまよつた。こ「れ」「ら」のカか「ラ」フィ「ル」ム、「フ」ィルムは存在の「不」幸だ。
 「カラフィルム」はもちろん「カラーフィルム」であり、それは西脇が(旅人が)見た風景・存在ということになるのだろうけれど、「空」フィルム、無のフィルムという「誤読」をしてみたい気持ちにさせられる。「存在の不幸だ」は「不在の不幸だ」と、あるとき、突然、文字をかえて目に飛びこんでくる。
 「フ」ィルム、「不」幸の「ふ」が「不在」を呼び込み、「不在」が「空」(あるいは、クウと読むべきか)を誘っている。
 これはもちろん私の「誤読」だが、そういう「誤読」を私は、きょう読んだ数行を借用して「方向がない」誤読--この「誤読」には「方向がない」と書いてみたい。
 もちろん、私の「誤読」にははっきりした「方向」があるのだが、あるからこそ「方向がない」と逆説的にいうのである。
 なぜか。

旅人よ汝の名はつかれであり方向がない

 この「方向がない」も私には逆説に感じられるからだ。「方向がない」のではない。「方向」ははっきりしている。「音楽」である。そして、その「音楽」は「絵画」の基準に照らせば、「方向」を定義できない。だから、とりえあず「方向がない」というだけなのである。




評伝 西脇順三郎
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誰も書かなかった西脇順三郎(138 )

2010-09-05 23:39:46 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(138 )

 「失われたとき」のつづき。
 西脇の長い詩には類似したことばが何度もでてくる。

距離と時間の差は形態と色彩の
差であるデカルトはこの差をおそれた
方向の差はエネルギーとなる

 という3行は、次のように変化する。

永遠は内面でも外面の世界でもない
空でも有でもない
これらは方向の差にすぎない
方向の消滅したところに永遠がある
方向のなくなるところに
神のめぐみがある永遠がある

 これは正確な繰り返しではなく、いわば「変奏」である。そしてそこでは、「真実」とか「永遠」が語られているのではなく、「差」という「もの」が語られている。あるいは、こういうべきなのか。「差」というものを叩くと、あるときは「距離と時間」「形態」と「色彩」があらわれ、別のあるときは「内面」と「外面」、「永遠」があらわれると。それらは「差」が叩かれることによって響きはじめる「音楽」なのである。
 あ、これはどこかで聞いたことがある--そういう印象が、西脇のことばを読む度に浮かんでくる。
 それは、一種の「転調」のように感じられる。「転調」することで、つかわれる「楽器」もかわってくるときがあるけれど、それを突き動かしている「旋律」は同じである。
 ここでは「差」が動かしている。

「まむしがいそうだな」

 という突然の行(108 ページ)は、つぎのページで、変奏されて、こうなる。

「狼が時々出ますか」
「シュルレアリストが出てペルノを飲まして
こまるだべ」

 「狼」でも「シュルレエリスト」でもなく、「こまるだべ」というやわらかな口語。方言。なまり。そういう「肉体」の音。
 他方に「差」という「哲学」があり、もう一方に「肉体」の音がある。
 それはたとえて言えば、合唱付きの交響曲のようなものかもしれない。
 「哲学」に「肉体」がどこで交錯し、「和音」となって、また新しい音楽になるのか--それは、私には、まだ言うことができない。永遠に言うことはできないかもしれない。しかし、そういうものを感じる。


評伝 西脇順三郎
新倉 俊一
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