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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ヴィクター・フレミング監督「風と共に去りぬ」(★)

2011-12-03 19:30:45 | 午前十時の映画祭
監督 ヴィクター・フレミング 出演 ヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル、オリヴィア・デ・ハヴィランド

 「午前10時の映画祭」という催しがある。かつての名画をスクリーンで年間50本上映するものである。私は先週、福岡天神東宝で見たのだが、52席しかない小さな劇場での公開である。で、とてもつまらない。大スクリーンで見ないとおもしろくない。燃え盛るアトランタをヴィヴィアン・リーとクラーク・ゲーブルが馬車で駆け抜けるシーンはいまの映像からするとずいぶんおとなしいのだが、それでも大画面で赤い色と黒いシルエットをみれば興奮するはず。小さい画面ではおもしろくない。
 だいたいヴィヴィアン・リーのわがまま放題の女性像は、大画面でこそ生きてくる。大きな画面で観客を飲み込んでこそ輝く。小さい画面では等身大くらいの印象で、こんなわがまま女、いったい誰が相手にするのだ、とあきれかえるだけである。
 クラーク・ゲーブルの色男ぶりも、台なし。すけべなオヤジにしか見えない。それが子煩悩を演じると笑い話である。この映画では披露していないが、クラーク・ゲーブルの軽いウィンクは大画面で見てこそ、あ、いま、自分に向ってウィンクしたと錯覚できるのである。あれを真似して女をだましてみたいと思うのである。小さい画面では、私の方がウィンクはうまくやれるな、と思ってしまう。「一体化」できない。
 一方、オリヴィア・デ・ハヴィランドは小さい画面の方が映えた。演じている役柄がテレビの主人公――つまり、日常の連続のなかにいる。毒がない。安心感がある。
 でも、映画は毒がないとおもしろくない。映画はどうせ嘘。日常とつながらなくたって平気。日常を振り切るために、「スター」になりに映画館へ行くのだから。
 この映画は、記憶の中では★★★★の映画だが、今回の上映で一気に★ひとつになった。小さな画面ではおもしろくない映画の典型である。



 この天神東宝の上映について、「天神東宝命」「マイケル」「ニック」という人物が、「天神東宝支配人の深謀遠慮」があらわれたものと絶賛していた。「名作はスクリーンの大きさや客席の多さではないのだ、そんなものは関係ない」「2番劇場はまるで映画会社の試写室のようではありませんか。夢に見た映画評論家の気分に浸れるのです。素晴らしいですねえ」というのが理由である。
 「映画評論家」なんて夢見たことがないなあ。私は試写室なんかで映画をみておもしいろいのだろうか。私は見たことがないのでわからない。お金を払って、見知らぬ客と並んでみるからおもしろい。つまらない映画にはつまらない、金返せ、と怒鳴り散らす方が好きだ。
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マイケル・チミノ監督「ディア・ハンター」(★★★★★)

2011-11-19 19:24:52 | 午前十時の映画祭
2011年11月19日(土曜日)

マイケル・チミノ監督「ディア・ハンター」(★★★★★)

監督 マイケル・チミノ 出演 ロバート・デ・ニーロ、クリストファー・ウォーケン、メリル・ストリープ

 結婚式に始まり葬儀で終わる。結婚式・披露宴+出征兵士の送別会(?)のシーンがとてもすばらしく、あまりにうまく撮れすぎたために残りが長くなったのだろう。
 ペンシルベニアの鉄工所のある街が舞台だが、「同族」が街をつくっている。ロシア系、スラブ系になるのだろうけれど、私にははっきりとわからない。「同族」ゆえに、人間関係が濃密である。単なる知り合いを通り越して、「血がつながっている」ような感じである。それが結婚式・披露宴で非常に「情報量」の多い映像になっている。教会での結婚式の、独特の儀式。披露宴でのウオッカ、コザックダンス(?)や様々なダンス。音楽も映像のすきまに入り込んで、登場するひとびとの鼓動、呼吸そのものになっている。人間の鼓動・呼吸の熱い動きが、ひとびと全員を溶け合わせ、巨大な至福に包まれる。それぞれが「一人」なのに、同時に「一人ではない」のだ。「ゴッドファザー」の結婚式もそうだが、アメリカ映画はこういう「同族」のパーティーを描くのがとてもうまい。(日本人である私にそう見えるだけなのかもしれないが。)
 この「一人」であり、「一人ではない」がこの映画では何度も繰り返される。あるいは「一人ではない」けれど「一人」であるは、バリエーションを変えながら何度も繰り返される。
 披露宴のあと、ロバート・デ・ニーロが夜の街を走る。服を脱ぎ棄て、素っ裸になって走るのは「一人」を象徴にまで高めるシーンである。彼が「主人公」であることを明確にするシーンだ。その「一人」をクリストファー・ウォーケンが必死で追いかけてくる。クリストファー・ウォーケンは「一人ではいられない」人間である。誰かとつながっていないと生きてゆけない。二人の対比がしっかり描かれている。「戦場で自分を守ってくれ」と思わず言ってしまいもする。いま、裸のロバート・デ・ニーロを守っているのは、クリストファー・ウォーケンなのだが。
 ロバート・デ・ニーロはいつでも「一人」であるのは、最初の鹿狩りにも端的に表れている。他の仲間たちが、仲間として鹿狩りをしている。ブーツをいつもロバート・デ・ニーロから借りる男は、絶対に「一人」では鹿狩りにはこない。ロバート・デ・ニーロがいなければ、靴下もブーツもないのだから。そしてロバート・デ・ニーロといえば、彼はただ鹿と、山の自然と向き合っているだけである。仲間と鹿狩りをしているのではない。仲間を離れ、自然のなかで自分の「一人」のいのちを鹿と対峙させる。「一発」にこだわるのは、そうした「一人」と「一頭」の出合いは「一期一会」であり、自然の「運命」がそこにあるのだ。ロバート・デ・ニーロは仲間といても、「一人」の精神・哲学を生きているのだ。
 ベトナムへ行っても、ロバート・デ・ニーロは「一人」である。ロシアンルーレットは誰かを相手にしておこなう危険な賭けではなく、ただ自分の意思・精神と向き合う行為なのである。「一人」でやる賭けなのである。相手はいない。「一人」で生きることに慣れていないクリストファー・ウォーケンは、賭けを生き抜いたあと、賭けにのみこまれていく。「危険」がクリストファー・ウォーケンの「道連れ」になる。「一人ではない」ときの相手は「人間」とはかぎらない。「人間」がかかわる何かなのだ。
 というところまで拡大すると、ロバート・デ・ニーロも「一人」ではなく、彼が信じる「哲学」と「道連れ」かもしれない。それがわかりやすいかたちでは描かれていない。ロバート・デ・ニーロの肉体の特権にまかされている。――ということは書き始めると面倒なので、話を映画に戻すと・・・。
 ベトナムから帰還したロバート・デ・ニーロは、相変わらず「一人」を指向している。肉体も精神も無事に見えるが、戦争の影に侵食されている。彼を支えていたかつての「鉄学」がロバート・デ・ニーロから離れていったともいえる。それが、鹿狩りに克明に描かれる。巨大に雄鹿に出合い、以前なら絶対に射止めることができる距離なのに、外してしまう。「自覚」はできないが、精神が乱れている。
 この乱調をささえてくれるのが、最初に登場する「同族」であり、「仲間」である。戦争のあと、その「同族」にも変化が起きている。歌う歌は、ロシア民謡やスラブ民謡ではなく、アメリカ国歌。ベトナム戦争をくぐりぬけ、その後の精神的困難を支えるのは、「同族」だけでは無理――ということか。このラストシーンは、私には何か嫌な感じ(ぞっとする感じ)も残るのだけれど、移民集団でも、アメリカ国民でもないので、どう判断していいかわからない。



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フランシス・フォード・コッポラ監督「ゴッドファーザーPARTII」(★★★★)

2011-11-12 20:00:53 | 午前十時の映画祭

監督 フランシス・フォード・コッポラ 出演 アル・パチーノ、 ロバート・デ・ニーロ、ロバート・デュヴァル、ダイアン・キートン

 昨年、「午前十時の映画祭」で「ゴッドファーザー」を見た時は、黒の変質にがっかりしたが、「PARTII」は闇が美しく残っていた。それも「ゴッドファーザー」の、黒のための黒、闇のための闇の色というよりも、はるかに自然な感じがする。(その分、「芸術的」「美術的」な華やかさは欠くけれど。)
 色彩というか、明暗というか、陰影というか・・・「ゴッドファーザー」では、その変化がそのままストーリーと重なる。「PARTII」の方が、その効果はより鮮明かもしれない。私はひそかに、前作で黒(闇)があまりにも美しく撮れたので、コッポラは「PARTII」を撮る気持ちになったのではないかと思っていた。それを、今回、スクリーンで再確認した。しかも、今回は、「芸術」におぼれた映像というより、「いま」「ここ」にある自然という感じになっているのが、何か、すごい。
 明暗、陰影に話を戻すと・・・。
 アル・パチーノは「PARTII」ではどんどん暗くなってゆく。直接人を殺さないのに、手のつけられない闇が体からあふれてくる。冷たい冷たい闇である。これに対し、ゴッドファーザー以前を演じたロバート・デ・ニーロは、人を殺しても黒(闇)に飲み込まれない。不思議に明るい。闇を捨てる、闇を葬るという感じすらする。そして、そこには「ファミリー(マフィアという意味とは違う、本来の「一家」という意味)」の温かさがにじむ。闇を自分から吐き出し、「一家」を自分の「肉体」の明るさでつつむ。
二人の対比、過去といまの対比が、色調、闇と光のなかで、ストーリーそのものになる。
 「ゴッドファーザー」は大傑作だが、「PARTII」はそれをしのぐ傑作であると思う。続編という形で作られたので、ずいぶん評価の面で損をしている部分がある。「芸術」と「自然」を比べたとき、「芸術」に目を奪われるのは当然のことでもあるけれど。

 「役柄」ということもあるのだが、ロバート・デ・ニーロはとてもいい演技をしている。ひとを見る時の目が、ひとの表面にとどまらず、内面にすーっと入っていく感じが特にいい。見ているうちに、知らず知らず、デニーロに見つめられ、そのまま登場人物のようにデニーロと一体になってしまうのだ。
パスタを食べるという何でもないシーンでさえ、デニーロになってパスタを食べている気持ちになる。
その一体感のなかで、デニーロの肉体が動く。芯が強く、しかもしなやかな動きが、自己抑制できる精神の強靭さを具現化している。かっこいいねえ。
マーロン・ブランドをまねた声色は、――私は、その部分だけは嫌いなのだが、そのほかはとても魅力的だ。地声で、もっとデニーロ自身を出せば、さらに魅力的になる。
アル・パチーノは、まあ、損な役どころではある。デニーロが築き、守ってきた「一家」を少しずつ崩してゆく。「家族」が崩壊してゆく。どうしたって、嫌われる。自己主張するたびに、愛しているひとを傷つけてしまう。ダイアン・キートンが得意の受けの演技で、これがまた、すごいね。アル・パチーノのなかにある「絶望」を吸い取ってしまう。目がどんどん暗くなる。堕胎を告げるシーンがすごいが、その告白が、アル・パチーノの「絶望」を結晶化し、アル・パチーノの肉体から切り離し、奪い取る感じがする。奇妙な言い方だが、このあとアル・パチーノは「絶望」すらできなくなる。「冷酷」がアル・パチーノを支配してゆく。誰も信じない人間に仕上がってゆく。
うーん、人間の対比に胸が締め付けられる。

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スタンリー・ドーネン監督「シャレード」(★★★)

2011-10-15 19:14:51 | 午前十時の映画祭
監督 スタンリー・ドーネン 出演 オードリー・ヘップバーン、ケーリー・グラント、ウォルター・マッソー、 ジェームズ・コバーン

 オードリー・ヘップバーンのおもしろさは現実感のなさである。この映画でも、その魅力が発揮されている。どれだけ食べても太らない――という非現実的な人物造形からそうだけれど、それより。
 「ケーリー・グラントってハンサム、結婚したいわ」
 と、どんな状況の時でも思ってしまう軽薄(?)な感じが、とてもいい。どうせ映画なんだもの。
 情況というか、ストリートは無関係に、ケーリー・グラントの顎えくぼを指でさわって「ここも髭そるの?」なんて、好きだなあ。そうか、顎えくぼはセクシーの象徴か。マイケル・ジャクソンは成形して、わざわざつくっていたなあ。(私はつくらなくても、あります――と、突然宣伝。)
 リンゴリレーもいいけれど、ジェームズ・コバーンが、マッチに火をつけてオードリー・ヘップバーンをいじめる(?)ところも好きだなあ。子供っぽいというか、逆に大人っぽいというべきか。ばかばかしいから、うれしくなる。こういう困った時の顔が不思議と色っぽい。
 ウォルター・マッソーと話していて、たばこを吸う。そのときフィルターを嫌って必ずたばこを半分に折るのも、なかなかおもしろい。ヘップバーン以外の女優がやったら「意味」になってしまう。「肉体」が出てきてしまう。
 ヘップバーンに「肉体」が欠如(欠落?)しているためだろうか、私はときどき、ヘップバーンの「動き」を真似してみたくなる。このたばこのシーンが、この映画では、その代表例かな。あ、私は医者に禁じられているので、たばこは一度も吸ったことがないのだけれど。
 ヘップバーンの動き(肉体)を真似してみたいと思うのは、まあ、私だけではないかもしれない。映画のなかでは、オチのようにして、ケーリー・グラントがヘップバーンの目を顔の真ん中にあつめて口を開く表情をコピーしているね。
 ケーリー・グラントといえば。あのシャワーのシーンがおかまっぽくておかしい。そのあとバスロブで、しっかり体を隠してでてくるところなんかも傑作だなあ。

 映画はストーリーではありません――の代表作だね。
 ヒチコックが撮ると、もっと「肉体」が濃厚に出てきて、その「肉体」にひきつけれれるんだろうけれど、その場合、ヘップバーンじゃ無理な感じがする。
 まあ、ヘップバーンあっての映画だね。




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ヴィンセント・ミネリ監督「バンド・ワゴン」(★★★)

2011-10-01 16:10:28 | 午前十時の映画祭
監督 ヴィンセント・ミネリ 出演 フレッド・アステア、シド・チャリシー、オスカー・レヴァント、ジャック・ブキャナン

 フレッド・アステアのダンスはいつも優雅だ。相手にあわせて踊る。相手を踊らせるために踊る。その視線がいつも相手の動きを受け止めている。会話がある。
 セントラルパークでシド・チャリシーと踊り始める瞬間がとてもいい。「息が合う」という表現があるけれど、まさに息があって、それがそのままダンスになる。優雅に見えるのは「息を合わせる」ではなく、「息が合う」からだろう。
 「メイキング・ブロードウェイ」というのだろうか、ミュージカルができあがるまでの舞台裏は、それはそれでおもしろいが、落ち目になった映画スターが舞台で再起をはかるというのは、ちょっと優雅なフレッド・アステアには苦しいかな。あまり生き生きしていない。その分、後半が楽しく――楽しいだけに、メイキングを省略して劇中劇の「バンド・ワゴン」だけで1作品にならないかなあ、と思ってしまう。
 ニューヨークを舞台に、ギャングがジャズを踊るなんて、とてもおもしろいと思う。荒々しくて、なおかつ優雅。うーん、男の色気がどんな具合に広がるかな――と思った。追われる女に男が巻き込まれてゆくなんて、監督はヒチコックにまかせてみたい。どんなミュージカルになるだろう。
(午前十時の映画祭「青シリーズ」35本目、天神東宝3)


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ジャック・ヘイリー・ジュニア監督「ザッツ・エンタテインメント」(★★★★★)

2011-09-24 17:06:10 | 午前十時の映画祭
監督 ジャック・ヘイリー・ジュニア 出演 フレッド・アステア、ジーン・ケリー、フランク・シナトラ

MGMの50周年記念に1974年に製作されたこの作品、私はリアルタイムで見ているけれど、そこに集められている作品はリアルタイムで見たことがない。で、つくづく思うのは、こうした作品群をリアルタイムで見ることができた人は幸せだなあ、ということ。
いつ見ても(というのは変か)、フレッド・アステアのダンスの優雅さに感心する。体の線がとても美しい。苦労して踊っているように見えない。歌舞伎役者の話で「役者が一番美しく見えるのは無理な姿勢をしているとき」というのがあるけれど、フレッド・アステアも無理していたのかなあ。
帽子かけを相手にダンスするシーンなど、まるで人間を相手に踊っているとしか見えない。――というより、帽子かけを人間にしてしまうのがフレッド・アステアのダンスなのだ。そしてそれは、共演者を名ダンサーにしてしまうということでもある。フレッド・アステアひとりが優雅なのではなく、踊る人をすべて優雅にしてしまう。それは、実は見る人をも優雅にするということなのかもしれない。
見終わった後、あ、こんな風にダンスをしてみたい、とダンスの経験のない私でさえ思ってしまうのだから、私も優雅に「なった」ということだろう。
ジーン・ケリーはちょっと違う。ダンスはダンスなのだろうけれど、なんといえばいいのか、こんな風に体で遊んでみたいとい感じ。「雨に唄えば」のバシャバシャが象徴的だけれど、ダンスじゃなくていいから、雨の中でバシャバシャやってみたい――そう思ってしまう。ジーン・ケリーは相手と踊るよりも、「空気」あるいは「状況」とダンスをする。「舞台」が踊るといえばいいのだろうか。
何度か紹介されるスタントなしの危ない場所でのダンスは、ジーン・ケリーが「舞台」(状況)そのものと踊っていることを証明している。ジーン・ケリーがひとりで踊っているのではなく、「舞台」もジーン・ケリーにあわせて踊るから危険はないのだ。
74年か75年に見た時はぼんやり見ていたがクラーク・ゲーブルまでミュージカルに出ている。歌っていたのか。印象的なのは、まあ、しかし、クラーク・ゲーブルはやっぱり「ウインク」だね。色っぽい。真似したいねえ、あのウインク。
大好きなシナトラの歌も聞けるし、もう1回見てもいいかなあ、いやもう2回、3回・・・。



苦情をひとつ。天神東宝4(福岡市)で見たのだが、本篇が始まってから、後のドアが細く開いていた。いつまでたっても閉まらないので、席を立って閉めに行ったら、なんと眼鏡をかけた係員(だと思う、青い制服が見えたから)が、スクリーンを除いている。そのためロビーの光が入ってくるのだ。
「光が入るから閉めてください」と内側からドアを引いて閉めた。
映画が終了後、ロビーにいた係員に苦情を言ったら「本篇がほんとうに始まったかどうか確認している」という。そんなばかな。今までも何度も天神東宝で映画を見ているが、上映開始後に係員がドアを開けて上映を確認しているために、光が入ってきて困ったという記憶はない。確認するにしても、きちんと劇場内に入り、ドアをしめて確認すべきだろう。いつまでもドアを開けている必要はない。
とても不愉快だった。





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ロバート・ワイズ監督「サウンド・オブ・ミュージック」(★★★★)

2011-09-19 19:58:11 | 午前十時の映画祭
監督 ロバート・ワイズ 出演 ジュリー・アンドリュース、クリストファー・プラマー

私はオーストリア国民ではないのだが、クライマックスで大佐が「エーデルワイス」を歌いながら、感情がこみあげてきて、歌えなくなる一瞬に、いつも涙がこみあげてくる。何度見ても素晴らしい。事情を知らない(うすうす感じている)聴衆が共感し、大合唱にかわっていくのをみると「歌の力」を強く感じる。
 このシーンに限らず、歌が歌として歌われるというより、歌の力をアピールしているのが面白い。「ドレミの歌」もそうだけれど、「和音」さえわかれば歌ができるというのも。そして、歌を歌う前はまるで軍隊(軍人)のようだった子供たちがのびやかにかわり、その変化が大佐に影響するところも。音楽は、かたくななこころを和らげる――「教科書的」なメッセージだけれど。
 昔は気がつかなかったけれど。
 恋愛も丁寧に描いている。伯爵夫人がジュリー・アンドリュースと大佐の愛に気がついて、ジュリー・アンドリュースを追い出す(?)シーン。そして、大佐と別れるしかないとさとったときの台詞。「私は自分になびいてくれる人が必要だ。たとえ、それが私の金であっても」云々。あ、さすが「おとな」だねえ。こんなシーンがあるなんて、すっかり忘れていた。というより、若い時には見ても気がつかないシーンだが、こういうシーンがあるから、映画に「深み」が出る。そのとき伯爵夫人が大佐を「あなたは自尊心(自立心)が強い」云々と批評するけれど、それが批判ではなく、ナチスに抵抗して生きた大佐の生き方そのものを明確に浮かび上がらせているのも、なかなか丁寧な脚本だと思った。
 修道女見習いの若い女性が、子供たちに歌を教え、大佐と結婚し、スイスへ脱出する――と要約してしまうと、なんだか「絵そらごと」になってしまう。複雑な「おとな」の感情、やせがまんがあって、おもしろくなる。
 最後の方の、大佐の執事が「密告」したと暗示させるシーンや、長女の恋人のこころの揺れなども、短いシーンだけれど、脚本の丁寧さを感じる。
(「午前十時の映画祭」青シリーズ33本目。天神東宝3)



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ジョン・フランケンハイマー監督「ブラック・サンデー」(★★★★★)

2011-09-03 19:29:22 | 午前十時の映画祭
監督 ジョン・フランケンハイマー 出演 ロバート・ショウ、ブルース・ダーン、マルト・ケラー

 結論(結末)は分かっている――のに、なおかつ面白い、というのはアクション映画では珍しい。「ブラック・サンデー」は、その珍しい1本。
 後半、フットボール会場がスクリーンにあらわれてからが、ほんとうにおもしろい。結論がわかっているから、なおおもしろい。そんなところに爆弾はないんだよ、そんなところいくら探したって無駄だよ、と電話で教えてやりたいくらい、じれったくなるねえ。フットボールの試合シーンや、興奮する観客、ひいきのチームの扮装や応援の横断幕、カーター米大統領の映像なんてねえ、犯人逮捕、爆弾の発見とは関係ないねえ。その「無関係」の映像の充実が素晴らしい。素晴らしいから、じれったくなる。
 一番好きなのは、ロバート・ショウが飛行船のパイロットが殺されたと聞いてからスタジアムを走るシーン。スタジアムの上からフィールドまで駆け降りる。フィールドをきちんとコーナーを曲がって走る。そんなことしてる場合じゃないでしょ。フィールドを横切った方が早く行けるでしょう。でもねえ、この、しっかり階段を駆け下り、フィールドの外を走るという「丁寧さ」がいいんだなあ。あくまで「秘密」だからね。爆弾がしかけられている、テロリストが大量殺戮を狙っているというのは。
 映画の観客は知っている。しかし、スクリーンのなかの人たちは知らない。いや、映画だから演じているひとはエキストラを含めて全員何が起きているのか知っているんだけれど、知らないことになっている。
 この知っていると知らないの交錯が、ほんとうにドキドキわくわくというと変だけれど、興奮させられるなあ。8万人が一気に殺されるんだぞ、わあわあ騒いでいるときじゃないだろう、とここでもスクリーンに向かって叫びたい気持ちになるなあ。
 それに。
 ロバート・ショウが走りまわるシーンは、最後のアクションのクライマックスにつながる。ロバート・ショウの最後の行動など、いくらなんでも無理じゃない? でも、走って走って走りまわる姿を見ているから、それもできるかなあ、と思ってしまう。信じ込んでしまう。伏線がもっと派手なアクション(テロリストとの殴り合いとか、走るにしても「ボーン・アルティメイタム」のマット・デイモンみたいに屋根の上を走ったり、建物の間を飛んだり)だったら、最後の「うそ」ができて当然みたいな予定調和になってしまうけれど、普通の人が走るのと同じ場所だけ走るという単純なアクションだけで通してきたのが、不思議な説得力があるよなあ。
 あ、でも。
 でも、ほんとうに好きなのは――映画を見終わったあとだから言えるけれど(事件が解決しているから言えるけれど)、ブルース・ダーンが爆弾の効力を試すシーンだなあ。倉庫の壁が無数の釘でハチの巣状態になる。美しい。ブルース・ダーンが「美しいだろう」とマルト・ケラーに自慢する。穴の配列(?)も美しいけれど、穴から漏れる日差しが美しい。殺されたおじさんには申し訳ないけれど、もっともっと見ていたい、という気持ちになるなあ。
 あの爆弾を作ってみたい。試してみたい――と思ってしまう私はテロリスト予備軍? ブルース・ダーンの美意識に共感する私は異常者?
 と、書きながら、この「共感」があるから、この映画にのめりこむんだよなあとも思った。単なる非常なテロリストだったら、ロバート・ショウの「活躍」をほめたたえる映画に終わってしまう。普通のアクション映画になってしまう。

(2011年09月03日天神東宝3、「午前十時の映画祭」青シリーズ31本目)





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ロバート・アルトマン監督「M★A★S★H(マッシュ)」(★★★★★-★)

2011-08-28 21:48:53 | 午前十時の映画祭
監督 ロバート・アルトマン 出演 ドナルド・サザーランド、エリオット・グールド、トム・スケリット、サリー・ケラーマン、ロバート・デュヴァル

 戦争を描きながら戦闘シーンがない。けれど、負傷者はちゃんと描く。死も描く。一方で、無意味な「自殺願望」も描く。そこから「生きる」ことを見つめ直す――というしかつめらしいことは、どうでもいいね。
 私は、ロバート・デュヴァルが看護婦長とセックスするシーンと、看護婦長のアンダーヘアの「色あて」のシーンが大好き。別に理由はない。わけでも、ないか。人には、人に知られずにしたいこと(秘密の欲望?)があり、また人の隠していることを知りたいと思う気持ちがある。それは、「してはいけないことをしたい」という欲望かもしれない。
 「してはいけないことをする」とき、人は喜びを感じる。
 アメリカンフットボールのシーンも、同じだね。「試合」を真剣にするだけじゃなくて、「してはいけないことをして」勝つ。勝つために「してはいけないこと」をする。なんあろうねえ、この不思議な欲望。
 まあ、どんなことにも「一線」はあるんだろうけれど。
 その「一線」の周辺で、「いのち」の側に身を置くというところが、この映画を支えている「哲学」なのかもしれない。「いのち」を守ることだけは真剣にやる。「いのち」の前では、階級を無視する、規律を無視する――ここに、反軍隊、しいては反戦ということになる。
 当時は、この視点はとても新鮮だった。
 ここからどんな「哲学」を「言語化」できるか――そういうことをずいぶん考えた。どこまで考えたか、いまは思い出せないが、考えたということだけは忘れられない。
 だから、私には、忘れられない映画である。

 ただ「小倉」のシーンは、あまりにもひどい。「日本」は、当時のアメリカから見れば「中国」の一部ということだろうねえ。(減点★1個)
 「最後の晩餐」のパロディーも、好きではない。「名作」に頼らなくてもいいのでは、と思うのだ。

 この映画では「悪役(嫌われ者)」だけれど、私はなぜかロバート・デュヴァルという役者が好きだなあ。たいてい「冷静」な役どころ(「ゴッドファザー」の弁護士?とか)なんだけれど。こういう役者がいると、さわがしい映画が、どこか落ち着く。

(2011年08月27日天神東宝3、「午前十時の映画祭」青シリーズ30本目)




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ジャン=ジャック・ベネックス監督「ディーバ」(★★★)

2011-08-21 18:32:56 | 午前十時の映画祭
監督 ジャン=ジャック・ベネックス 出演 ウィルヘルメニア・ウィギンズ・フェルナンデス、フレデリック・アンドレイ、リシャール・ボーランジェ

 なんともフランスっぽい。といっても、私が知っているフランスというのは限られているけれど。
 どこがフランスっぽいかというと「個人」主義。この映画には「組織」が欠如している。「組織」はないけれど、個人と個人の人間関係がある。フランスの「組織」というのは、結局、アベック(古いことばだねえ)、2人が基本だ。1人を超えれば「組織」。まあ、これが面白いといえば面白いね。笑えるね。
 「売春組織」も「海賊版組織」も「警察」も、ぜんぜん広がりを感じさせないでしょ? 警察署長に刑事が2人、売春組織の殺し屋2人、海賊版組織も2人、郵便配達の少年(青年?)を助ける少女と中年男が2人、そして主役の郵便配達の少年とディーバがまた2人。単純で、美しい。
 で、このとき「組織」というのは「組織」というより「直接関係」と言い直した方が、フランス人の考え方の面白い部分が見えてくる。何かをするとき、それは、その「対象」と「私」の問題。「他人」は関係ない。「他人(複数)」がいないから「組織」もない。「組織」というのは「複数の他人」を取りまとめる方法だからね。
 そして、この「個人」の問題を、「芸術(音楽)」に重ね合わせたのが、この映画。
 オペラは「集団芸術」だけれど、ここでは一人の歌姫(ディーバ)に焦点が当てられる。「音楽」は「レコード」という媒体(組織が作り上げた、組織の金儲けの手段)を通しては伝わらない。ディーバが歌うその場へ人が出かけ、そこで聞く。会場には不特定多数の聴衆がいるが、「音楽」に触れるのは、あくまで「個人」。「個人」として、音楽を聞くのである。そのとき、ディーバと「一人の聴衆(少年)」の恋愛が成立する。そこに「音楽」の至福がある。
 フランスでは、あらゆることが「恋愛」、つまり、「2人」の関係。
 ディーバの歌う「アリア」も、ディーバにとっては「楽曲」と「歌手」という「2人」の関係。
 「恋愛」だけがフランス人にとって受け入れることができる「組織」というか「団体活動」なんだねえ。
 何が言いたいかというと・・・。
 この映画に登場する「組織(組織の末端)」が「2人」にこだわっているのは、ディーバと少年の「2人」の関係を浮き彫りにするためである。
 だから、といっていいいのかな、ディーバと少年がほんとうに「2人きり」になるシーン、夜のデートのシーンが美しいなあ。少年が傘をさし、ディーバが悠然と、気ままに、街をさまよう。どこかのテラスで休む。最初は2人は離れているが、少年が少しずつ近づいて行き、ディーバの肩に触れる。その「接触」(直接的なふれあい)をディーバは受け入れる。いいねえ。この静かな感じ。恋愛の至福。
 この、夜の散歩と同じくらい気に入っているのが、東洋かぶれの男とベトナム人少女の恋愛の「場」。少年と同じように、「ロフト」に住んでいるのだが、装飾品に「止まらない波」のオブジェがある。その波の色が美しい。その波の底で中年男は「孤独」を生きる。その「孤独」からときどき浮上して、少女と恋愛をする――ここに、中年男の「夢」がある。いつでも「個人」でいたい。「組織」に属さず一人でいたい。けれど、さびしくなったら(?)、「恋愛」をして生きていることを確かめる。女は(少女は)、そういう男のわがままを受け入れる。

 フランス人は恋愛を重視する、恋する女が「不名誉」な状態にならないように配慮する――といわれるけれど、違うんじゃないかな? ほんとうは、女にわがままを受け入れられたい思いの男で満ち溢れているんじゃないのかな? 無理に気取っているんじゃないのかな?
 男がしでかした「結末」を受け入れるのはディーバ(女)であり、女刑事(これがあるから、刑事はやめられない、と最後に言う)だもんねえ。
 ――という、ジャン=ジャック・ベネックスの映画の奥に眠っている「夢」を分析してみました。
 多くの映画は、2度目に見るときは、どうしても視線が「斜」になるなあ。1回目を見るときのように、まっすぐにのめりこめないいなあ、と「午前十時の映画祭」の作品を見ながら思うこのごろ。



 天神東宝の音響は相変わらずひどい。途中で必ず入る「びりびりぶおぉぉぉん」という音はどうにかならないのか。
(2011年08月20日天神東宝3、「午前十時の映画祭」青シリーズ29本目)



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アルフレッド・ヒチコック監督「鳥」(★★★★★)

2011-08-14 09:39:59 | 午前十時の映画祭
監督アルフレッド・ヒチコック 出演鳥、ロッド・テイラー、ジェシカ・タンディ、ティッピー・ヘドレン

 何度見ても飽きることのない大傑作。なぜ鳥が人間を襲うか――なんてくだらない謎解きの答えなら、いくらでも考えだすことができる。女の嫉妬。それが引き寄せる「禍い」の象徴とか、ね。ラストでティッピー・ヘドレンがロッド・テイラーの母と手を取り合ったとき平和が訪れるのは、その暗示。あるいは、田舎町に突然あらわれた都会の金持ち娘とエリート(弁護士)の恋に対するやっかみが鳥となって襲う、とかね。主人公の二人だけではなく町中を襲うのはなぜかって? どいういうやっかみも、やっかんだひとにはねかえるもの。「理由」は、どのシーンにもつけられる。小学校の女性教師が鳥に襲われ死んだのは、結局、恋の戦いでティッピー・ヘドレンに負けたから、とかね。
 でも、そんなことはどうでもいいなあ。
 ヒチコックは美女が不安におののく顔が大好き。ティッピー・ヘドレンは私の基準では美人度が低いんだけれど。まあ、これは個人的な好みの問題だね。
 で、美女が不安におののくとき、そこに「サスペンス」が生まれる。サスペンスが先にあって、それから美女が不安におののくのではなく、美女が不安におののくとき、その不安を実現(?)するためにサスペンスが必要になる。必然としてサスペンスが生まれる。逆じゃないんです。女性をもっともっと怖がらせるために、次々にサスペンスが作り上げられていく。そして、このとき、観客は、怖がる美人(ティッピー・ヘドレン)そのものになる。
 この映画は、その典型。たとえば、スピルバーグの「激突!」もこの系統。タンクローリーに追いかけられる「理由」は「追い越したから」などというのは、付け足し。ただ、タンクローリーがどこまでも追いかけてくるという「恐怖」をリアルに描いて、観客をその恐怖に引き込むことだけが狙い。そういう頂点として輝く大傑作。
 理由なんていらない。ただティッピー・ヘドレンが怖がればいい。金持ちで、わがままで、気が強い女――まともな(?)ことじゃ、怖がらない女。男に関心を持つと一人で車で追いかけてゆく。気づかれないように車ではなくボートで家に近づく……なんでもやってしまう。車の運転はもちろん、ボートの運転だって楽々。なんでも、できてしまう。できないことは、相手が必要な「恋」を成就させることくらい。それを、やろうとしている。こういう女は「理不尽」なもの、「理由」がわからないものじゃないと、怖がらないよねえ。
 鳥が襲ってくるのは、ティッピー・ヘドレンに原因がある。おまえは魔女だ、と言われたって、平気。逆上して、批判した女をひっぱたくんだもんね。人間がやること(人間が言うこと)なんかで怖がらない。人間がやることは「理不尽」にみえて、ちゃんと理由がある。そんなものは、「理由」を解決すれば解決する。わけのわからないことを言う奴は、ぶん殴って怒りをみせてやれば、それですむ。自分の方が「上」と見せつけて、怖がらせれば、それですむ。
 鳥――自然がやることは「理由」がわからない。自然は怖がらない。だから、怖い。
 最後まで、「理由」を明かさない。あらゆること、鳥が世界で何種類、何羽いるとか、小学校の教師とロッド・テイラーの間に何があったか、その母親とどんな関係にあるとか、さらにはガソリンにマッチの火が引火しそうとか、うるさいくらいにあれこれ説明するのに、鳥が人間を襲う理由だけは決して明かさない。
 これは、いいなあ。
 いまならCGでもっと鳥の動きも正確(?)に映像化できるんだろうけれど、そうじゃないところが、またまたおもしろい。ファーストシーン(クレジット)を横切るのは鳥の影ばかりで、どんな鳥なのか全体がわからない。本編のなかでも、くちばしを変にアップにしたり、全体が写らないように翼で画面を邪魔したり。カラスや鴎といった誰にでもわかるような鳥だけはきちんと「顔」を見せるけれど、あとはよくわからないまま、つまり「鳥」のまま。
 それからジャングルジムや電線にとまった大量の鳥。足の踏み場もないくらい庭を覆った鳥。いやあ、すごい執念だねえ。あんなに鳥を集めちゃって。(その執念の方が、怖い?)いったいどこから集めたんだろう。(餌とか、糞の始末とか、どうしたんだろうねえ。)
 それから。
 この映画には、私の大好きな「お遊び」がある。ティッピー・ヘドレンがロッド・テイラーのいる町まで車を飛ばす。助手席に置いた鳥籠のなかに「愛の鳥」がいる。この鳥が、車が急カーブを曲がるたびに、人間の体みたいに左右に傾く。2羽、仲良く。笑ってしまうねえ。かわいいねえ。
 最後に、この2羽が一緒に救出される(脱出できる)のだけれど、いいねえ。
ヒチコック以外に、こんなおもしろいシーン、洒落た遊びのシーンを撮る監督はいないなあ。
              (「午前10時の映画祭」青シリーズ29本目、天神東宝)




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アルフレッド・ヒチコック「レベッカ」(★★★★)

2011-08-10 13:57:42 | 午前十時の映画祭
監督 アルフレッド・ヒチコック 出演 ローレンス・オリヴィエ、ジョーン・フォンテーン、ジュディス・アンダーソン

 ヒチコックの映画のおもしろさのひとつに、美女が苦悩する、ということがある。不安、悲しみ、恐怖のなかで、美女の顔が歪む。--歪むのだけれど、その歪みが逆に、その女性の完璧な美しさを想像させる。想像力のなかで、美女がより美女にかわる。
 悦びのなかで美女がさらに美女になるという例は多い。あのシシー・スペイセクさえ、「キャリー」でダンスパーティーの「女王」に選ばれた瞬間、ほんとうの「美女」のように輝いている。
 ヒチコックは、そういう映画には興味がないようだ。美女はあくまでいじめられ、苦悩し、不安におののく。この映画もそうしたシリーズ。いや、そのなかの代表作かな?
 この映画の構造が、想像力そのものをテーマにしているから、よけいにそんなことを感じるのかもしれない。
 ジョーン・フォンテーンはローレンス・オリヴィエに求婚されて、結婚する。大豪邸で住むことになる。しかし、そこにはローレンス・オリヴィエの「前妻」の影がちらついている。絶世の美人。レベッカ。事故で死んでしまった。ローレンス・オリヴィエ自身がレベッカを忘れられずにいるのにくわえ、レベッカにつかえていた夫人(メイド頭?)が常にジョーン・フォンテーンとレベッカを比較し、「前の奥様は……」というようなことをいう。
 ジョーン・フォンテーンは自分自身の「美しさ」を追求することができない。どんなに追い求めても、それより「上」がある。レベッカの肖像を真似て、「理想の美人」になってみると、逆にローレンス・オリヴィエの苦悩を甦らせ、怒らせてしまうという具合。
 で、そのときどきの、ジョーン・フォンテーンの、ああ、美しいですねえ。いや、ほんとう。そうなんだ、美人はいじめるとさらに美しくなるんだ。美人をいじめてみたい。苦悩する顔を見てみたい--という、ちょっとサディスティックな気持ちになりながら、ずーっと映画を見てしまう。ヒチコックの策中にはまり込んでしまったまま、映画を見てしまう。まあ、映画は監督に騙される楽しみだから、それはそれでいいんだけれど。

 ということは、別にして。
 この映画はヒチコックがアメリカで撮った第一作なのだけれど、そこに出てくる人間が、ローレンス・オリヴィエをはじめとして「レベッカ側」がイギリス人。対するジョーン・フォンテーンがアメリカ人という構図が、この映画をまたまたおもしろくしている。
 イギリスの個人主義というのは、アメリカともフランスとも違うねえ。本人がはっきりことばにしていわないかぎり、その「個人の秘密」は存在しない。プライバシーは、本人が語らないかぎり、あくまでも「隠されている」。だれもが知っていても、本人がいわないかぎり、その「秘密」は存在しない。
 シェークスピアの国だけあって、ことばが重要なんですねえ。
 ね、だから、ことば、ことば、ことば。(オリヴィエが出ているから「ハムレット」を引用しているわけではないんですよ。)
 そこに存在しないレベッカ(死んでしまったレベッカ)が何と言ったか。プライバシーをどう語ったか。特に、オリヴィエに何と言ったか、ということがとっても大切になる。オリヴィエに言ったことは「ほんとう」だったのか、それとも「嘘」だったのか。それをことばで追い詰めるようにして、映画はクライマックスへ突っ走る。
 まるで小説を読んでいる感じだなあ。
 これがね、オリヴィエの演じる大富豪がアメリカ人だったら、レベッカがアメリカ人だったら、こんなストーリーにはならない。「嘘」を語ることで自分を隠す(プライバシーを捏造することで、ほんとうの自分を隠す)ということは、しない。ひたすらしゃべって、オリヴィエを自分の問題に(苦悩に)巻き込んでゆく。
 イギリスだから、何かを知っていても(たとえばレベッカが誰かとセックスをしている、浮気をしている、というのを見聞きしても)、そのことを「追及」し、語られていることが真実か嘘かという問題には踏み込まない。語られていないことは、聞いてはいけないのだ。
 これは、ほら、ジョーン・フォンテーンに対するオリヴィエの態度に端的にあらわれている。「過去」を語らない。レベッカのことを最小限にしか語らない。みんな、そうだね。--語られることが少ないということが、つまり、オープンに何でも話してしまわない、というイギリス人の個人主義の「壁」がジョーン・フォンテーンの苦悩をいっそう強めるという仕組みになっている。
 これがこの映画のいちばんおもしろいことろ、と私は思う。

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フェデリコ・フェリーニ監督「道」(★★★★)

2011-07-27 13:50:29 | 午前十時の映画祭
監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 アンソニー・クイン、ジュリエッタ・マシーナ

 好きなシーンが二つある。
 ひとつはザンパーノ(アンソニー・クイン)がジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)を置き去りにするシーン。毛布をかけ、体が冷えないように、思わず人間らしいことをしてしまう。そして、いよいよ出発というとき、荷台のトランペットに目がとまる。この一瞬。毛布をかけたときより、もっと人間っぽい。トランペットを荷台から取り出し、ジェルソミーナの体の横にそっと置いていく。
 置き去りにして逃げるのだから、毛布をかけなくたっていい。トランペットを残していかなくたっていい--はずなのに、そういうことをしてしまう。
 いいねえ。このときのアンソニー・クイン。
 どきどきしてしまう。何度も見ているので、次に何が起きるかわかっているにもかかわらず、どきどきする。ジェルソミーナが目を覚ますんじゃないか。気がついてオートバイを追いかけながら「ザンパーノ」と声を上げて泣くんじゃないか……。
 存在しないフィルムが私のこころのなかでまわりだすのである。アンソニー・クインの、目の表情が、そういうことを期待させるのである。もしかすると、アンソニー・クインはジュリエッタ・マシーナが目を覚まし、追いかけてくるのをどこかで期待していたかもしれない。追いかけてくるのを見ながら、それを振り切って逃げてこそ、置き去りにするという残酷な行為になる--そうなってほしいと願っていたかもしれない。
 なんといえばいいのだろう。「逆説の期待」、裏切られることで安心する「期待」のようなものが、どこかにひそんでいる。
 これが最後の、大好きな大好きなシーンにつながる。
 ジェルソミーナがいつも吹いていた曲をザンパーノはふと耳にする。そして、ジェルソミーナの、それからを知る。死んでしまったことを知る。
 そのあと。
 夜の海辺をさまよい、砂浜にうっぷすザンパーノ。一瞬、空を見上げる。カメラは空をうつさないのだけれど、満天の星がきらめいている。それがわかる。アンソニー・クインの目が孤独のなかで純粋になる。トランペットを見つけ、ふと目がとまったときと似ているが、それよりももっと純粋な暗い色、暗いけれど透明な輝きになる。孤独のなかで、一瞬、ジェルソミーナとつながる。そして、ふたたび、そのつながりが消えてしまう。
 このとき、ふと、思うのである。トランペットを荷台にみつけ、それを「置き土産」にしようと思った瞬間、ザンパーノのこころはジェルソミーナとどこかでつながっていた。それを断ち切って、ザンパーノは逃げたのだ。その結果が、孤独である。そして、孤独であると気がついた瞬間、ザンパーノはジェルソミーナと深く深くつながるのだが、そのつながりが深く、また強ければ強いほど、現実の孤独はいっそう残酷にザンパーノに襲い掛かってくる。
 残酷で野卑だったアンソニー・クインが、泣きながら、砂をかきむしり、砂浜を叩く。海はアンソニー・クインの悲しみなど知らないというふうにただそこになる。波はあたりまえのように打ち寄せている。暗い闇。そして、スクリーンにうつることはないけれど、空にはきっと満天の星。そのひとつはジェルソミーナの星かもしれない。

 この映画はしばしば綱渡りの「奇人」が語る石のエピソード(「どんなものでも世の中の役に立っている。この石も」とジェルソミーナに語るシーン)とともに取り上げられるけれど、私にとっては、この映画は何よりもアンソニー・クインの映画である。
               (午前十時の映画祭青シリーズ25本目、天神東宝3)



 天神東宝の音響は相変わらずひどい。途中でかならずブォーンというような雑音が入る。大音響でごまかしている作品の場合は気づかずにすむこともあるが、「道」のような静かな映画では気になってしようがない。



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ティム・バートン監督「シザーハンズ」(★★)

2011-06-19 23:06:24 | 午前十時の映画祭
監督 ティム・バートン 出演 ジョニー・デップ、ウィノナ・ライダー

 ティム・バートンの「色」が鮮明に出ている映画である。特色を超えて、色そのもの。黒と青と白。混ざり合って、冷たい金属の「青」になるのだが、この青の行き着く先は透明。ただし、氷の透明である。「シザーハンズ」の中にも「氷像」が出てくるが、これがティム・バートンの「理想の人間」なのだな、と改めて思った。
 「透明な人間」というのは、別のことばでいえば「肉体」を持たない人間。精神、純粋感情としての人間。ティム・バートンの描く恋愛は、あくまで「ピュア」な世界。肉体の交わりを必要としない世界である。
 この映画では、反対にある「肉体の愛」がカリカチュアされている。欲求不満の「主婦」たち。髪をカットしてもらうだけでエクスタシーを感じる女たち。主人公「シザーハンズ」のジョニー・デップは、そういうものを求めていない。ウィノナ・ライダーも、精神の愛を発見する。キスはするけれど、それを超えるセックスはしない。けれど、こころはしっかり結びついている。
 「ビートル・ジュース」にしろ「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」にしろ、そこに登場するのは「死者」というより、「生きた肉体」を拒否し、純粋に「精神(感情)」になった人間なのだ。死ぬこと、あるいは幽霊であること(?)は、ティム・バートンにとって、「肉体」を超越し、純粋になることなのだ。
 その「純粋」が「氷」というのは、まあ、ちょっと変な感じがするが、そこがティム・バートンなのだ。「透明」であっても、それは「手触り」がないとだめ。空気や水のように抵抗感がない存在ではなく、抵抗感はしっかりある。そういうものを求めているんだなあと思う。そして、またまたちょっと変ないい方になるが、白塗りの化粧、どぎついアイシャドウは、生身の人間を求める観客の欲望を拒絶するティム・バートン流の「抵抗」なのだと思う。

 で、少し映画にもどると、ウィノナ・ライダーは金髪が似合わないねえ。ジョニー・デップの黒、白、青の色と明確に区別するため(生身の人間であることを明確にするため)、金髪にしているんだろうけれど。でも、ダンスシーンの手の動きはよかったなあ。「ブラックスワン」のナタリー・ポートマンの手よりしなやかだ。「ブラックスワン」でも踊りを見たかったな。
     (「午前十時の映画祭」青シリーズ19本目、2011年06月19日、天神東宝3)


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スティーヴン・スピルバーグ監督「E.T.」(★★)

2011-06-11 17:37:10 | 午前十時の映画祭
監督 スティーヴン・スピルバーグ 出演 ヘンリー・トーマス

 この映画には2か所、好きなシーンがある。ETがクローゼットの縫いぐるみに紛れて隠れるところと、ETがヨーダとすれ違うところ。ETの頭でっかちの体、大きな目は確かに縫いぐるみだ。ETを見たことがないひとがみれば「おもちゃ」とおもうのはあたりまえ。この逆がヨーダ。ヨーダは映画のなかの創作。本物じゃないのにETがETの仲間(宇宙人)と思う。本物を偽物と思うのと、偽物を本物と思うこと。このすれ違いは楽しいね。(このETが何年もたって「ウォーリー」になるのだから、映画は楽しいね。)
 でも、あとはどのシーンをとってもおもしろくない。安直。「子どもだまし」。この映画の後、私はスピルバーグの映画が嫌いになった。
 「未知との遭遇」は大人(リチャード。ドレイファス)が子どものこころのまま宇宙人に夢中になる。その無邪気な感じがいい。科学者たちが夢中になるのも自分の好奇心のため。その夢中さ感じがいい。子どもが「宇宙人を助けなきゃ」と思ってはいけないわけじゃないけれど、子どもってもっと単純でしょ? 自分と違う、変だ、いじめちゃえ、殺しちゃえ――という残酷さの片鱗がないとねえ。純粋な殺意のない「いい子」では、なんだかなあ。
 まあ、私のように「いじわる」な視線で映画を見る必要はないのだけれど。
 それにしたってねえ。「未知との遭遇」で宇宙船のでんぐり返りまで映像化したスピルバーグが、あんなちっちゃな宇宙船で満足するなんて。空飛ぶ自転車も念力?みたいでおもしろくないなあ。ちゃんと科学的に作り上げないと。宇宙船への「電話」を作るくらいなんだから、空飛ぶ自転車くらいETに作らせないと・・・。
 花を蘇らせる力があるなら、植物採取?のためにETたちが地球へやってくるという設定も矛盾だねえ。
 ETに気付く科学者?や軍人たちも、「組織」を感じさせない。全然科学的に見えない。子ども向けの映画(家族向けの映画)だから、これくらいでいいと思ったのかな。
死をちらつかせて涙を誘うって、あくどくない?
映像で押しきれないパワー不足を、友情と死を絡めたストーリーでごまかすなんて、「絵本」じゃないんだからねえ。ストーリーの不完全さ(荒唐無稽)を映像で押し切るのが映画でしょうに・・・。
いったい「激突!」「ジョーズ」のパワーはどこへ消えてしまったんだろう。
それから。
最初の方の子どもたちがゲームをしている時間帯の月。月齢27日くらいなんだけれど、変じゃない? 何時頃の設定? 月齢27日の月の月の出は深夜すぎじゃないのかなあ。アメリカの月の出は日本と違う? 宇宙ものなのに、このずさんさ。許せないね。



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