2011年11月19日(土曜日)
マイケル・チミノ監督「ディア・ハンター」(★★★★★)
監督 マイケル・チミノ 出演 ロバート・デ・ニーロ、クリストファー・ウォーケン、メリル・ストリープ
結婚式に始まり葬儀で終わる。結婚式・披露宴+出征兵士の送別会(?)のシーンがとてもすばらしく、あまりにうまく撮れすぎたために残りが長くなったのだろう。
ペンシルベニアの鉄工所のある街が舞台だが、「同族」が街をつくっている。ロシア系、スラブ系になるのだろうけれど、私にははっきりとわからない。「同族」ゆえに、人間関係が濃密である。単なる知り合いを通り越して、「血がつながっている」ような感じである。それが結婚式・披露宴で非常に「情報量」の多い映像になっている。教会での結婚式の、独特の儀式。披露宴でのウオッカ、コザックダンス(?)や様々なダンス。音楽も映像のすきまに入り込んで、登場するひとびとの鼓動、呼吸そのものになっている。人間の鼓動・呼吸の熱い動きが、ひとびと全員を溶け合わせ、巨大な至福に包まれる。それぞれが「一人」なのに、同時に「一人ではない」のだ。「ゴッドファザー」の結婚式もそうだが、アメリカ映画はこういう「同族」のパーティーを描くのがとてもうまい。(日本人である私にそう見えるだけなのかもしれないが。)
この「一人」であり、「一人ではない」がこの映画では何度も繰り返される。あるいは「一人ではない」けれど「一人」であるは、バリエーションを変えながら何度も繰り返される。
披露宴のあと、ロバート・デ・ニーロが夜の街を走る。服を脱ぎ棄て、素っ裸になって走るのは「一人」を象徴にまで高めるシーンである。彼が「主人公」であることを明確にするシーンだ。その「一人」をクリストファー・ウォーケンが必死で追いかけてくる。クリストファー・ウォーケンは「一人ではいられない」人間である。誰かとつながっていないと生きてゆけない。二人の対比がしっかり描かれている。「戦場で自分を守ってくれ」と思わず言ってしまいもする。いま、裸のロバート・デ・ニーロを守っているのは、クリストファー・ウォーケンなのだが。
ロバート・デ・ニーロはいつでも「一人」であるのは、最初の鹿狩りにも端的に表れている。他の仲間たちが、仲間として鹿狩りをしている。ブーツをいつもロバート・デ・ニーロから借りる男は、絶対に「一人」では鹿狩りにはこない。ロバート・デ・ニーロがいなければ、靴下もブーツもないのだから。そしてロバート・デ・ニーロといえば、彼はただ鹿と、山の自然と向き合っているだけである。仲間と鹿狩りをしているのではない。仲間を離れ、自然のなかで自分の「一人」のいのちを鹿と対峙させる。「一発」にこだわるのは、そうした「一人」と「一頭」の出合いは「一期一会」であり、自然の「運命」がそこにあるのだ。ロバート・デ・ニーロは仲間といても、「一人」の精神・哲学を生きているのだ。
ベトナムへ行っても、ロバート・デ・ニーロは「一人」である。ロシアンルーレットは誰かを相手にしておこなう危険な賭けではなく、ただ自分の意思・精神と向き合う行為なのである。「一人」でやる賭けなのである。相手はいない。「一人」で生きることに慣れていないクリストファー・ウォーケンは、賭けを生き抜いたあと、賭けにのみこまれていく。「危険」がクリストファー・ウォーケンの「道連れ」になる。「一人ではない」ときの相手は「人間」とはかぎらない。「人間」がかかわる何かなのだ。
というところまで拡大すると、ロバート・デ・ニーロも「一人」ではなく、彼が信じる「哲学」と「道連れ」かもしれない。それがわかりやすいかたちでは描かれていない。ロバート・デ・ニーロの肉体の特権にまかされている。――ということは書き始めると面倒なので、話を映画に戻すと・・・。
ベトナムから帰還したロバート・デ・ニーロは、相変わらず「一人」を指向している。肉体も精神も無事に見えるが、戦争の影に侵食されている。彼を支えていたかつての「鉄学」がロバート・デ・ニーロから離れていったともいえる。それが、鹿狩りに克明に描かれる。巨大に雄鹿に出合い、以前なら絶対に射止めることができる距離なのに、外してしまう。「自覚」はできないが、精神が乱れている。
この乱調をささえてくれるのが、最初に登場する「同族」であり、「仲間」である。戦争のあと、その「同族」にも変化が起きている。歌う歌は、ロシア民謡やスラブ民謡ではなく、アメリカ国歌。ベトナム戦争をくぐりぬけ、その後の精神的困難を支えるのは、「同族」だけでは無理――ということか。このラストシーンは、私には何か嫌な感じ(ぞっとする感じ)も残るのだけれど、移民集団でも、アメリカ国民でもないので、どう判断していいかわからない。
マイケル・チミノ監督「ディア・ハンター」(★★★★★)
監督 マイケル・チミノ 出演 ロバート・デ・ニーロ、クリストファー・ウォーケン、メリル・ストリープ
結婚式に始まり葬儀で終わる。結婚式・披露宴+出征兵士の送別会(?)のシーンがとてもすばらしく、あまりにうまく撮れすぎたために残りが長くなったのだろう。
ペンシルベニアの鉄工所のある街が舞台だが、「同族」が街をつくっている。ロシア系、スラブ系になるのだろうけれど、私にははっきりとわからない。「同族」ゆえに、人間関係が濃密である。単なる知り合いを通り越して、「血がつながっている」ような感じである。それが結婚式・披露宴で非常に「情報量」の多い映像になっている。教会での結婚式の、独特の儀式。披露宴でのウオッカ、コザックダンス(?)や様々なダンス。音楽も映像のすきまに入り込んで、登場するひとびとの鼓動、呼吸そのものになっている。人間の鼓動・呼吸の熱い動きが、ひとびと全員を溶け合わせ、巨大な至福に包まれる。それぞれが「一人」なのに、同時に「一人ではない」のだ。「ゴッドファザー」の結婚式もそうだが、アメリカ映画はこういう「同族」のパーティーを描くのがとてもうまい。(日本人である私にそう見えるだけなのかもしれないが。)
この「一人」であり、「一人ではない」がこの映画では何度も繰り返される。あるいは「一人ではない」けれど「一人」であるは、バリエーションを変えながら何度も繰り返される。
披露宴のあと、ロバート・デ・ニーロが夜の街を走る。服を脱ぎ棄て、素っ裸になって走るのは「一人」を象徴にまで高めるシーンである。彼が「主人公」であることを明確にするシーンだ。その「一人」をクリストファー・ウォーケンが必死で追いかけてくる。クリストファー・ウォーケンは「一人ではいられない」人間である。誰かとつながっていないと生きてゆけない。二人の対比がしっかり描かれている。「戦場で自分を守ってくれ」と思わず言ってしまいもする。いま、裸のロバート・デ・ニーロを守っているのは、クリストファー・ウォーケンなのだが。
ロバート・デ・ニーロはいつでも「一人」であるのは、最初の鹿狩りにも端的に表れている。他の仲間たちが、仲間として鹿狩りをしている。ブーツをいつもロバート・デ・ニーロから借りる男は、絶対に「一人」では鹿狩りにはこない。ロバート・デ・ニーロがいなければ、靴下もブーツもないのだから。そしてロバート・デ・ニーロといえば、彼はただ鹿と、山の自然と向き合っているだけである。仲間と鹿狩りをしているのではない。仲間を離れ、自然のなかで自分の「一人」のいのちを鹿と対峙させる。「一発」にこだわるのは、そうした「一人」と「一頭」の出合いは「一期一会」であり、自然の「運命」がそこにあるのだ。ロバート・デ・ニーロは仲間といても、「一人」の精神・哲学を生きているのだ。
ベトナムへ行っても、ロバート・デ・ニーロは「一人」である。ロシアンルーレットは誰かを相手にしておこなう危険な賭けではなく、ただ自分の意思・精神と向き合う行為なのである。「一人」でやる賭けなのである。相手はいない。「一人」で生きることに慣れていないクリストファー・ウォーケンは、賭けを生き抜いたあと、賭けにのみこまれていく。「危険」がクリストファー・ウォーケンの「道連れ」になる。「一人ではない」ときの相手は「人間」とはかぎらない。「人間」がかかわる何かなのだ。
というところまで拡大すると、ロバート・デ・ニーロも「一人」ではなく、彼が信じる「哲学」と「道連れ」かもしれない。それがわかりやすいかたちでは描かれていない。ロバート・デ・ニーロの肉体の特権にまかされている。――ということは書き始めると面倒なので、話を映画に戻すと・・・。
ベトナムから帰還したロバート・デ・ニーロは、相変わらず「一人」を指向している。肉体も精神も無事に見えるが、戦争の影に侵食されている。彼を支えていたかつての「鉄学」がロバート・デ・ニーロから離れていったともいえる。それが、鹿狩りに克明に描かれる。巨大に雄鹿に出合い、以前なら絶対に射止めることができる距離なのに、外してしまう。「自覚」はできないが、精神が乱れている。
この乱調をささえてくれるのが、最初に登場する「同族」であり、「仲間」である。戦争のあと、その「同族」にも変化が起きている。歌う歌は、ロシア民謡やスラブ民謡ではなく、アメリカ国歌。ベトナム戦争をくぐりぬけ、その後の精神的困難を支えるのは、「同族」だけでは無理――ということか。このラストシーンは、私には何か嫌な感じ(ぞっとする感じ)も残るのだけれど、移民集団でも、アメリカ国民でもないので、どう判断していいかわからない。
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