goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ブライアン・デ・パルマ監督「キャリー」(★★)

2011-06-06 09:09:31 | 午前十時の映画祭
監督 ブライアン・デ・パルマ 出演 シシー・スペイセク

 冒頭のシャワールームの描写がおかしいね。重要なシーンではあるんだけれど、長々とスクリーンに映し出すようなものじゃない。デ・パルマが趣味で撮っている。撮りたかったんだろうねえ。
 技巧的には(?)、ダンスシーンのぐるぐるまわり、これも撮りたかったんだろうなあ。あまり効果的とはいえないけれど、分割画面も。
 まあ、いいけれど、映画としてはおもしろいところが少ないね。超能力と、思春期の関係も安直だし。登場人物の体育教師、国語教師も紋切り型。全体が安直。
 しかし、シシー・スペイセクが「女王」に選ばれるシーンだけはびっくりするなあ。「私はきれいなんだ」と思った瞬間、スペイセクの顔が本当に輝く。演技力だねえ。ときどき思うんだけど、役者は脚本を読んでいる(あたりまえだけれど)。ということは、観客は次に何が起きるか知らないからスペイセクが「美人」であってもいいのだけれど、スペイセクは騙されたことを知っている――それなのに、まるで騙されていることを知らない顔で喜びを表す。この集中力に驚くねえ。
 スペイセクは、このあと主演女優賞を取るけれど、その片鱗だね。「ミッシング」の演技、あひるの漫画と比較しながら「目を見て」というところなんかが好きだなあ。ジャック・レモンの演技もよかったなあ。
 あ、「キャリー」とずれてしまった。
 一か所、記憶と違っていたのがドレスを縫うシーン。それでは胸が開きすぎるとかなんとか母親が注文をつけるが、キャリーは胸の見えるドレスに仕立てる。そのやりとりがちょっと違っていた。仕上がってから、文句を言っていた。初公開時も、こうだった?
     (「午前十時の映画祭」青シリーズ17本目、2011年06月05日、天神東宝5 )



キャリー〈特別編〉 [DVD]
クリエーター情報なし
20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リドリー・スコット監督「エイリアン」(★★★★★)

2011-05-28 17:40:50 | 午前十時の映画祭
監督 リドリー・スコット 出演  シガニー・ウィーヴァー、トム・スケリット

 この映画ではファーストシーンから宇宙船が登場するまでが一番好きだ。宇宙空間に「モノリス」が1個浮かび上がる。それが5個に増え、「ALIEN」という文字に変わる。「2001年宇宙の旅」に対するオマージュだね。まったく新しい「宇宙の旅」が始まるのだ、未知の存在が人間を覚醒させるのだ、と予感させる一瞬。いいなあ。と、思った次の瞬間、度肝を抜かれる。宇宙船(貨物船)の姿が「2001年」とは大違い。シンプル、スマートとは無縁。ゴシック様式である。でも、考えてみれば宇宙は真空。空気抵抗がない。どんな形をしていても同じ。いいなあ。「宇宙の旅」なんかに負けないぞ、違ったものを作ってやるんだという気迫が伝わってくる。
 で、コンピュータという人間の英知の結晶と戦うというのではなく、人間では絶対にありえない存在と戦うという飛躍がいいし、なによりもエイリアンそのものの造形がすごい。全体がわからないのがすごさの頂点。タコ?みたいにくねくねする尻尾?があって、指があって、何よりも口だけの頭がある。口だけ、という印象が強いのは、口の中からまた口がむき出しになって出てくるからだねえ。口の中から歯、そしてその奥の喉からまた歯が触手のように伸びる。あるいは勃起する性器のようにむき出しになる、の方が近いのかなあ。なにしろ、アップ、アップ、アップで、なんでもレイプしてしまいそうな強靭な牙がみえるだけで、全体の大きさもわからない(こどもの時は、まあ全体が見える、見えた感じがするけど――これも何やら、子供の勃起する前の性器、子供なのに性器だけがいきいきしている、みたいなやわらかな感じがあるなあ)。わからないから、怖さが想像力のなかで拡大してゆくという映画の取り方が、それを強調する。血液が宇宙船を溶かしてしまうような強力な酸も怖いねえ。滴り落ちる、これも血というよりありあまった精液のねばねばな感じがする。
人間に寄生してしがみついていると思ったら、体内に入って体を突き破って出てくる。なんだか性器がそのまま体を突き破る感じだなあ。ジョン・ハートには申し訳ないが、エイリアンの快感が体を駆け抜ける。(あれっ、私って「男色主義」?)いやあ、「エクソシスト」の緑のへど、首の180度回転以来の何度も見てみたい気持ち悪さだねえ。好きだなあ。再見してみると意外と短くて、うーん、残念、と悔しい感じすらするなあ。何だったかタイトルは忘れたが、ジョン・ハートが類似のシーンを演じるパロディ映画があって、彼が「またか」というセリフがあったな。みんな、あのシーンが見たいんだ。やったジョン・ハートすら。
最後に生き残るのがシガニー・ウィーヴァー、女性と言うのも、この当時はびっくりするなあ。エイリアンが男むき出しの造形なので、男ではなく、女が生き延びる(最後の戦いをする)というのが生きてくるのかもしれない。女と言っても、女を売りにしていない。科学的に状況を分析し、弱みも見せない。(そのくせ、最後はスキャンティ姿をちゃんと見せるんだけれど。)で、その最後なのだけれど、やっぱりレイプシーンに見えるねえ。エイリアンがシガニー・ウィーヴァーをレイプしようとする。それをシガニー・ウィーヴァーがレイプされる寸前、ヴァギナの入り口で遠ざける。開いた宇宙船のドアからエイリアンが宇宙に蹴りだされる(真空がエイリアンを引っ張るのだけれど)、けり出されまいとしがみつく・・・。よかったというか、残念というか(と書くと叱られそうだけれど、映画だから許してね)。――続編の展開をみると、私のような期待?が多かったんだろうなあ。(映画だから許してね。)




エイリアン [Blu-ray]
クリエーター情報なし
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロバート・ロッセン監督「ハスラー」(★★)

2011-05-21 17:22:56 | 午前十時の映画祭
監督 ロバート・ロッセン 出演 ポール・ニューマン、ジャッキー・グリーソン、パイパー・ローリー、ジョージ・C・スコット

 古いなあ。とても古い。1961年だからしょうがないのか、とても教訓くさい。スクリーンで見るのは初めてだが、これがポール・ニューマンの代表作?
 この映画がつまらないのは、肝心のビリヤードが(どうも戦い方に2種類あるようなのだが)、丁寧に描かれていない。当時はCGもないから玉の動きを映像化するのは難しいのかもしれないが、ビリヤードのスリルが伝わってこない。
 かわりにポール・ニューマンやだれそれの「人生観」が描かれるんだけれど。
 うーん。
 作家志望の女性、年をとっているだけでなく、足に小児まひの後遺症をかかえているというのはなあ。ハンディキャップと苦悩の組み合わせが安易な感じがするなあ。
 で、この女性の「作家志望」が象徴的なのだが、結局「文学くさい」のである。
 そうか。この時代の「映画」は映像文化というより「文学」だったんだなあ。あれやこれやの人間のやりとり――これが全部「せりふ」で処理されてしまう。
「負け犬」の定義もそうだし、「愛」もそうだねえ。
――アイ・ラブ・ユーと言ってほしいのか。
――言えば、ことばに縛られることになる。
まあ、そうなんだけれど。
おもしろくないようなあ。
「映画」を見るより、脚本を読めば、それですむ。パイパー・ローリーは、まあ、見ごたえがあるけれどね。
映画とは関係ないのかもしれないが、ポール・ニューマンの歯並びが気になったなあ。本物? このころから、入れ歯? さし歯? あ、私は、意地悪な観客かなあ。

(「午前10時の映画祭」青シリーズ16本目、天神東宝4、05月21日)


ハスラー [Blu-ray]
クリエーター情報なし
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロバート・アルドリッチ監督「ロンゲスト・ヤード」(★★★+★)

2011-05-14 19:00:26 | 午前十時の映画祭
監督 ロバート・アルドリッチ 出演 バート・レイノルズ、エディ・アルバート、エド・ローター、マイケル・コンラッド

 公開当時、とてもおもしろかった、という記憶がある。そのときの「興奮」をもう一度味わいたいと思ったのだが。うーん。時代とともに映像がこんなに変化するものなのか。出だしのカーチェイス。本物の車が、本気で走っている。いまはCGで処理するところを実際に車が走るから、スピードが速いようで遅い。その分、妙な温かさがあるねえ。「手作り」の味があるねえ。
 フットボール(アメリカンフットボール)の試合にもそれがつながる。肉体と肉体がぶつかる感じが、シャープではない。その当時はその当時で、激しい映像をもくろんでいたのだと思うし、実際激しさも感じたかもしれないが、(実際、当時は、その激しさに驚いたはずなのだが)、いまの映像と比較すると、何かのんびりしている。映像の動きをみせるというより、肉体の動きをみせるという感じ。あくまで肉体をみせるという感じ。映画の冒頭の、付録のような、バート・レイノルズの、セックスシンボル時代の裸。まず肉体、むき身の肉体が「主役」で、動きが「脇役」。動きは、肉体を感じさせるための方法だ。
肉体が主役か、動きが主役か。これは、似ているようで、違うなあ。――アクションのなかでは、それが統合されているはずだけれど、実は完璧に統合されているということはない。肉体はを見るとき、観客の視線が動く。動きをみるとき、観客の視線は止まっていて、止まった視界の中で映像が動くのだ。
止まった視線のなかで動く映像――それは、動きそのものとして純粋化できる。シャープさ、激しさは映像でどれだけでも過激にできる。いまのCGを思えばいい。けれど肉体は、肉体そのものの存在はかえられない。肉体がぶつかる痛さ、苦しさは、CGの激しい映像では痛さ、苦しさになるひまがない。観客が役者の肉体の細部の動きを追いながら、痛み、苦しみを感じている余裕がない。だから笑う余裕もない。でも、動きがもったり(?)していると、痛み、苦しさが感じられるから、おかしいね。看守チームのディフェンスの要が睾丸を狙い撃ちされ、息ができなくなる。そのふらふら感。それから、「人工呼吸しろよ」「お前がやれよ」なんていう反応、笑っちゃいけないけど、笑っちゃうよねえ。観客だけでなく、演じている役者が、やはりそこにいる役者の肉体を見ている。肉体を感じている。肉体を感じるから「人工呼吸? やだよ。じょうだんじゃないよ」になるんだよねえ。
こういうばかげた(?)肉体の実感(共感)があるから、肉体がぶつかりながら展開するゲームで、肉体をぶつけあったものだけが、敵・味方をこえてつながる。敵・味方を超えて友情に到達することができる。あ、このスポーツマンシップ(?)は美しいじゃないか、と・・・監督の思うがまま。
このメルヘンは、はやりのCGではだめだね。「肉体」を実感できる味わいがない。
こういうメルヘンがロバート・アルドリッチ監督は得意だね。「北の帝王」もおもしろかったなあ。集団ではないだけに、「北の帝王」の方が、メルヘン+ロマンチックという感じがして楽しいはずだ。「北の帝王」が再上映されることはないのかな? もう一度みたいなあ。

             (「午前10時の映画祭」青シリーズ15本目、天神東宝4、05月14日)


ロンゲスト・ヤード スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]
クリエーター情報なし
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ノーマン・ジュイソン監督「夜の大捜査線」(★★★★)

2011-05-08 22:18:28 | 午前十時の映画祭
監督 ノーマン・ジュイソン 出演 シドニー・ポワチエ、ロッド・スタイガー

 1967年の製作。演技の質がいまの映画とは違うなあ。感情の動き、表情の動きがずいぶん抑制されている。それが逆に「偏見」の強さを感じさせるから不思議だ。ロッド・スタイガーが「おれがどれだけ我慢して話しているかわかるか」というようなことをシドニー・ポワチエに語るシーンがとても象徴的だ。
 しかし、こんな損な役をロッド・スタイガーはよくやったなあ。演じ方次第では、ロッド・スタイガー自身が黒人差別の代表者みたいになってしまう。キャリアに傷がつくというより、人間性を誤解されかねないね。
 でも、うまい。
 シドニー・ポワチエをアフリカ系であるというだけで平気で逮捕していたのだが、だんだん刑事として優れていることに気がつく。「職業人」として尊敬するようになる。そのロッド・スタイガーがシドニー・ポワチエを自分の家に招きいれ、「不眠症」について語るシーンがとてもいい。ほんものの「親友」になったようなうちとけ方である。
 ところが、未婚であること、子供がいないこと、生活にさびしさが付きまとうことなどを話しているうちに、態度ががらりとかわる。「あわれみ」は受けたくないのだ。同情されたくないのだ。こころを通いあわせても、少しでも自分の方が「劣っている」という感じがしのびこむと、我慢できなくなる。ロッド・スタイガーが「許せる」のは「対等」までなのである。
 と、まあ、ほんとうにどうしようもない人間なのだか、このどうしようもなさを、ひとなつっこい顔と、メタボの肉体で「どうしようもない、だらしない」という印象に収め込んでしまう。(あ、メタボ体形のひと、ごめんあさいね。)
そして、それと同じように、良質な部分(他人の優れている点は優れていると、素早く認める、偏見を捨てる部分)を、さーっと見せる。強調せずに、やはり肉体に隠して、動かないこと(いわゆる演技をしないこと、突っ立っていること)で見せてしまう。農場経営者がシドニー・ポワチエを怒りにかられて殴り、反射的にシドニー・ポワチエが殴り返すシーン。ストーリーの展開上も、「動かない」という設定なのだが、その動きのなさがとてもいい。この殴り合いのあと、農場経営者が「お前は、かわった。以前のお前なら、すぐシドニー・ポワチエを射殺していた。正当防衛を理由に」というシーンがすごい。あ、おれは変わったんだと、驚くように自分自身を見つめている、内面を見つめている――それが素晴らしい。
こういうシーン、演技が印象に残るのは、全体のアクション(表情)が抑制されているためだ。今のように、誰もが表情で演技を競うようになると、ロッド・スタイガーの演技は、物足りなくなってしまうと思う。
(「午前10時の映画祭」青シリーズ14本目、天神東宝4、05月07日)


夜の大捜査線 [DVD]
クリエーター情報なし
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マーティン・スコセッシ監督「タクシードライバー」(★★★★)

2011-04-30 20:42:19 | 午前十時の映画祭
監督 マーティン・スコセッシ  出演 ロバート・デ・ニーロ、ジョディ・フォスター

 映画の始まりがとても好きだ。地下鉄の蒸気がスクリーンを覆っている。その奥から黄色いタクシーがぬーっとあらわれる。その、ゆっくりしたスピードがおもしろい。目的地があるのではなく、また走るというのでもなく、時間をつぶす――という感じの無意味さ、無為の感じが、えっ、ニューヨークってこんな虚無にみちた街、と驚かされる。雨、雨にぬれた光があらゆるものにこびり着き、眠らない街を印象付ける。ただし眠らないといっても、活気にみちているというのではなく、疲れて眠れない――ロバート・デ・ニーロが演じる主人公そのままに、何もすることがなくて不眠症、しかたなく起きている、という感じが不気味である。ときどきみせる人なつっこい笑顔が、べたあっと肌にからみついてくる。あ、孤独で、人に餓えているのだ。
 眠れない男、何もすることがない男がニューヨークで見るのは、何もすることがなくて、それでも起きていて、時間つぶしにうごめく人々である。売春、ドラッグの売人、気弱な人間はポルノ映画館に逃げ込んでいる。汚れた人々。雨のなか、タクシーを走らせながら、この汚れをすべて洗い流す雨が降ればいいのに、と思っている。そういう男が副大統領の選挙ボランティアの女性を「はきだめの鶴」のように感じ、ひと目ぼれし、振られ、復讐として副大統領を暗殺しようとし、失敗し・・・と、ちょっとイージーなストーリーの果てに、ジョディ・フォスターが演じる売春の少女を組織から救い出そうとする。あ、なんだかいやあなストーリー。
でも、この当時のジョディ・フォスターは歯の矯正がまだすんでいなくて、前歯がすいている。醜いところが残っているのだが、それがリアリティになっている。演技というより、ふとみせるしぐさ、こんなことをしたって・・・という感じの表情がすばらしい。映画に対する変な怒りが感じられる。それはやっている少女売春婦という存在に対する怒りかもしれないが、それが彼女を清潔にしている。こういう表情をできる役者は好きだなあ。「人間の地」が美しい。 
 ロバート・デ・ニーロが銃に目覚めていくシーンもひきつけられる。ホルダーを改良し、使い心地を試すところなんか、いいなあ。銃という凶器に、男の狂気が重なってゆく。副大統領候補を暗殺して、デ・ニーロを振った女の目を引きつける。引き付けたい。あるいはジョディ・フォスターを悪から救いたい――あ、この二つ、まったく逆方向の動きだねえ。暗殺は完全な悪、少女救出は善意。正反対のものが、矛盾せずにデ・ニーロの「肉体」のなかで結びついている。だから、狂気なんだなあ。細い体が、ストイックな肉体鍛錬でさらに細くなっていくところが、むき出しの精神をみるようで、ちょっとぞくぞくする。
警官に囲まれ、自分の指で頭を撃ち抜くポーズをとるところも好きだなあ。ポーズだけではなく、口で音にならない音を出すふりをするところがいい。デ・ニーロがやったことは、どんなに現実と交渉があっても「ふり」なのだ。デ・ニーロの頭のなかで完結した世界なのだ。知っていて、にたーっと笑う。その笑顔が悲しい。ジョディ・フォスターの「地」と同じく美しい・
そして、その頭のなかの完結と、現実は、結局は分離する。ジョディ・フォスターの両親はデ・ニーロに感謝の手紙はよこすが、直接は会わない。デ・ニーロを振った女はデ・ニーロのタクシーに乗るが、それだけ。後者は、デ・ニーロの方が近づいて行かないのだけれど。
――でも、この部分が説明的すぎるし、センチメンタルでいやだなあ。指鉄砲で「ぽふっ、ぽふっ」とやっているところで終われば傑作なのになあと思う。冒頭の地下鉄の蒸気、そこからあらわれるタクシーのボディーがどうすることもできない「現実」だったのに、最後のバックミラーにうつる世界、窓越しに見える滲んだ光はセンチメンタルな「孤独」という夢想になってしまった。「孤独」を描いているうちに、「孤独」によごれてしまった。
(「午前十時の映画祭」青シリーズ13本目、天神東宝6)

タクシードライバー 製作35周年記念 HDデジタル・リマスター版 ブルーレイ・コレクターズ・エディション 【初回生産限定】 [Blu-ray]
クリエーター情報なし
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョン・シュレシンジャー監督「真夜中のカウボーイ」(★★★★)

2011-04-24 13:30:24 | 午前十時の映画祭
監督 ジョン・シュレシンジャー 出演 ダスティン・ホフマン、ジョン・ヴォイト

 この映画の主役は誰なんだろうか。ダスティン・ホフマン? ジョン・ヴォイト? そうではなくて、彼らのまわりを瞬間的に通りすぎていく「無名の人々」ではないだろうか。ジョン・ヴォイトの「田舎」っぽい感じ、ダスティン・フホマンのホームレスは、たしかにリアルだけれど、それはリアルという「演技」である。
 これに対してジョン・ヴォイトが働いていたレストラン(?)の従業員は役者なのかもしれないが、「演技」ではなく、そこに「いる」人間である。「いま」「ここ」にいる人間は、ただ「いま」「ここ」にいる。ジョン・ヴォイトのように「夢」を語らない。ダスティン・ホフマンのように「夢」を語らない。「いま」「ここ」から出て行って、「いつか」「どこか」(それはニューヨークであり、マイアミなのだが……)、別の暮らしをするという「夢」を語らない。ここには「夢」を語る人間と、「夢」を語らない人間が複雑に出てくる。いつでも、どこでもそうだが、「夢」を語る人間というのはくっきりとみえるものである。「夢」へ向かって動くということが「人間形成」の基本なのかもしれない。ひとに(映画の場合なら、主人公に)共感するとき、観客は登場人物の「夢」に共感し、その「夢の挫折」に人生を重ね合わせ、カタルシスを虚構のなかで体験しているのかもしれない。
 この映画のなかでも、ふたりの男の「夢」、「夢の挫折」に自己を重ねて何かを感じることはできる。できるけれど……。
 それよりも、彼らの「まわり」がおもしろい。瞬間瞬間に登場する「ひとびと」がとてもおもしろい。ジョン・ヴォイトが働いていたレストランのことは少し書いた。そこではジョン・ヴォイトは皿洗いをしている。他人がどんな「ゆめ」をみているか語られない。誰もジョン・ヴォイトの夢にも気を配らない。「いま」「ここ」から動かない。
 そこを飛び出してジョン・ヴォイトはニューヨークへ向かうのだけれど、その移動手段として「バス」をつかっているのが、これがまたまた、とてもおもしろい。「バス」は地上を動く。地上を動くから、どうしたってバスが止まるたびに「地上」(いま、ここ)がそこに進入してくる。ジョン・ヴォイトは「いま」「ここ」と出会いながらニューヨークへ行くのである。ジョン・ヴォイトにガムをくれ、という母親がいて、また、ジョン・ヴォイトのラジオがうるさいという男がいる。ジョン・ヴォイトの夢と挫折を描くことがこの映画の主眼なら、このバスの移動シーンはいらない。長すぎる。いきなりニューヨークから始まってもいいのだが、この映画はそうしない。主人公の夢と挫折は「狂言回し」で、ほんとうの「主役」は、「いま」「ここ」に生きている「人間」、「夢」を語らない人間なのである。そういう視点からみていくと、この映画は「ドキュメンタリー」なのである。ある個人の「夢」にそってその行動を描く映画ではなく、「いま」「ここ」に何があるか、何が動いているか、それを克明に記録した映画なのである。
 その「記録」される人間のひとりがダスティン・ホフマンなのだが、彼にもまた「夢」があるので、その「夢」の分だけ視界(視野)がかぎられるが、「夢」を語らずに登場してくる「群衆」がとてもいきいきしている。犬におしっこをさせている女、ジョン・ヴォイトの田舎丸出しの格好を見下す女、歩道に倒れているビジネスマン(?)、それを気にかけることなく歩いているひとびと。その「いま」「ここ」と「ひと」「ひと」の交錯が、ニューヨークなのだ。ジョン・ヴォイトは金持ちの女を相手にセックスをして金を稼ごうと思っているのだが、そんな「夢」は見え透いていて、誰も相手にしない。それがニューヨークなのだ。「夢」の相手をしてくれるひとなどいない。「夢」をいっしょに体験してくれる(夢をささえてくる)ひとなど、どこにもいないのが「現実」というものかもしれない。だからこそ、その孤独のなかで、ジョン・ヴォイトはダスティン・ホフマンと出会ってしまう。--これが、まあ、この映画の「ストーリー」といえば「ストーリー」だけれど、その「ストーリー」よりも、「まわり」がおもしろい。いきいきしている。
 特に今回見なしおしておもしろいと感じたのは、ジョン・ヴォイトとダスティン・ホフマンがデリかなにかで食べているとき、カメラをもった男と女が入ってきて、ジョン・ヴォイトをパーティーにスカウトし、それからつづくパーティーである。ジョン・ヴォイトが田舎を捨ててニューヨークへ出てくるとき「バス」を利用した、それが「地上」を走ること--いわば、「地続き」であることはすでに書いたが、ここでも、あらゆることが「地続き」なのだ。デリへ無造作に入ってきて、無断で写真を撮り、何もいわずにチラシを置いていく。「地面」を離れずに、「いま」「ここ」が、人間の動きによってミックスされる。「いま」「ここ」にいる人間の「地上」を離れないミックス--それがニューヨークで起きていることなのだ。誰が誰であるかわからない。すべての人間が「無名」にもどって、マリフアナで「自己」を解放し、誰かと出会う。そして、その誰かから、そのとき、その場で何かをもらって、そのまま動いていく。「夢」--つまり、「計画」はない。「いま」「ここ」をエネルギーにしているだけである。
 ニューヨークの「深奥」の「ドキュメンタリー」。「ドキュメンタリー」であるからこそ、ダスティン・ホフマンの解体前のビルでの暮らしがいきいきする。その暮らしに「夢」はない。そこにあるのは「現実」だけである。そして、ダスティン・ホフマンは転んだことをきっかけに歩けなくなるが、その歩けなくなる、動けなくなるということに彼が絶望するのは、それが「ドキュメンタリー」だからである。「いま」「ここ」で動き回る、動き回ることでかろうじて「他者」の攻撃(?)から身を守っている。ビルの解体が実際に始まれば、また次の解体予定のビルへ動いていくということで生きていく、ということができなくなる。「いま」「ここ」を動き、そこに何らかの「すきま」を見つけて、そこに身を置くということができなくなる。
 ふたりはマイアミへ向かう。その移動手段は、またしても「バス」である。いつでも、どこでも降りられるバス。(飛行機に比べて、という意味だが)。だが、降りることなくバスの旅はつづく。最後に、ダスティン・ホフマンは死んでしまうのだが、彼の目は開いたままである。バスの運転手がジョン・ヴォイトに「目を閉じてやれ」という。これは、なかなか「意味深い」せりふである。もう、「現実を見させるな」ということになる。「現実」を見るから、「夢」も見る。ダスティン・ホフマンは現実に目を開いたまま「夢」を見ていた。(父親が靴磨きで体を傷つけて死んで行ったという現実を見ながら、マイアミの夢を見ていたのだ。)その目を閉じたからといって「現実」そのものがなくなるわけではないけれど、ダスティン・ホフマンは見なくてすむ。「現実」を見なければ、きっと「夢」の形も違ってくるだろう。楽になるだろう。
 あ、でも、運転手は、どうしてそんなことを知っていたのだろう。何人ものを人間をマイアミに運びながら、知らず知らずに「いま」「ここ」で何が起きているのか、知ったのかもしれない。
 そんなことよりも、なおおもしろい(?)のは、ダスティン・ホフマンの死を、バスの乗客がのぞきこむことである。気持ち悪がったりせずに、「いま」「ここ」で起きていることを--それはつまり、「いつか」「どこか」で自分に起きることなのだが、それをのぞきこむことだ。ひとは誰でも、「いま」「ここ」で起きていること、そして「いつか」「どこか」で起きることを知りたい。「夢」を語ることよりも「現実」に吸い込まれるものなのだ。
 「ドキュメント」のおもしろさが、ここにある。



 ドキュメントに拮抗するための演技。ダスティン・フホマンは、そのことを知っていたのかもしれない。この映画がドキュメントの性質をもっていることを脚本から読みとっていたのかもしれない。彼はこの映画のなかで足に障害をかかえた男を演じているが、それは最初から脚本に設定されていたことなのだろうか。どうも、そうとは思えない。あるいは、映画を撮り進む過程で、監督が役所の設定をかえたのかもしれないが、「いま」「ここ」、そして「地上」(地続き)ということを「肉体」でドキュメントにするには、足の障害はとてもリアルである。ジョン・ヴォイトがダスティ・ホフマンとの最初の夜、ブーツにこだわること、女と寝たあとブーツに香水を振りかけること、ダスティン・ホフマンの父が靴磨きだったこと--そういう細部の積み重ねも、ドキュメントをひとつの方向にしっかり定着させる。ニューヨークなのに摩天楼を感じさせない映像も、「いま」「ここ」「地上」のドキュメントの要素になっている。
 いろいろ書いていけば、この映画が「ドキュメント」であることがもっとはっきりするかもしれない。細部がともかくていねいに撮られた映画である。細部にきちんと自己主張させている映画である。
      (2011年04月23日「午前十時の映画祭」青シリーズ12本目、天神東宝6)


真夜中のカーボーイ (2枚組特別編) [DVD]
クリエーター情報なし
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マイク・ニコルズ監督「卒業」(★★★★)

2011-04-17 10:29:05 | 午前十時の映画祭
監督 マイク・ニコルズ 出演 アン・バンクロフト、ダスティン・ホフマン、キャサリン・ロス

 ダスティン・ホフマンがキャサリン・ロスに求婚に行くまでがともかくおもしろい。特に、アン・バンクロフトとの慣れない情事が傑作。最初に見たときは高校生で、まわりで大人がくすくす笑っているのだが、何がおかしいのかわからなかった。ベンと同様に、童貞だったからですねえ。いまは、もうおかしくてたまらない。よく真顔(?)でこんな演技ができたなあ、ダスティン・ホフマンは。
 いろいろ好きなシーンはあるが、大好きなのはミセス・ロビンソンにハンガーをとって、と言われ、クローゼットを開け、「木と針金のどっちのハンガー?」と聞くところ。ばかだねえ。木の方をとろうとして、うまくとれなくて針金の方を渡すところ。あまりにリアル過ぎて、これって隠し撮り? これを演技でやれるって、どういうこと? ダスティン・ホフマンって、このときほんとうに童貞?
 ずーっとさかのぼって。
 最初のパーティ。いろんなひとがいろんなことをいう。そのなかで、女の客二人がダスティン・ホフマンを批評して「無邪気」と言うんだけれど、そうなんだねえ、ナイーブな感じを「年上の女」は敏感にかぎつけるんだねえ--と、これは今回気がついたこと。昔見たときは、気がつかなかった。
 それから。
 いろいろあって、キャサリン・ロスが大学から帰ってくることになる。そのときのミセス・ロビンソンの変化がとてもおもしろい。ダスティン・ホフマンに対して圧倒的に優位だったはずの彼女のこころが揺らぐ。「娘と会うのは、だめ」。これって、女の嫉妬だねえ。キャサリン・ロスと比べたら負ける。わかっているから、だめ、という。
 気晴らし? からかい? 好奇心? なんだかよくわからないものからはじまったはずの情事なのだが、このときはもう、ミセス・ロビンソンはダスティン・ホフマンなしでは自分の人生を考えられなくなっている。
 この変化をアン・バンクロフトはくっきりと演じている。あ、すごいなあ。やっぱり大女優だなあ、と思う。この嫉妬のシーンがなければ、ミセス・スビンソンは若い男とのセックスを遊んでいるだけになる。この嫉妬によって、前半の「笑い話」が「笑い話」ではなく、現実になる。
 そして、実際、このミセス・ロビンソンの嫉妬から、映画が突然、現実に変わっていく。この「切り換え」が絶妙だなあ。いいなあ。ほれぼれする。もう一回、見てみようかな、と思った。(こんなことは、私はめったに思わない。)
 最初に見たときは、何がおかしいのかわからず、2回目に見たときは、ダスティン・ホフマンの童貞ぶり(?)が笑われていると気がつき、今回はミセス・ロビンソンの感情の襞がわかった。そして、この感情の襞こそが、「現実」というものなんだなあ。自分ではどうすることもできない感情。それが動いていくとき、現実が動きはじめる。あらゆることが現実になる。現実として、自分に見えてくる。
 これはラストシーンの、バスのなかの二人の顔にもあらわれている。結婚式から花嫁を奪って逃走する。「一線」を越えたあと、一瞬、何をしていいかわからなくなる。現実が、急に目の前にあらわれてきて、それを一種の茫然とした感じで見つめてしまう。
 とてもリアルだ。
 映画ではなく、現実そのものを見ている感じになる。



 あれっと思ったシーンがひとつある。私の記憶違いなのだろうか。ダスティン・ホフマンがキャサリン・ロスと大学を歩く。回廊(?)を会話しながら、歩く。カメラと二人の間に、回廊の柱が入る。二人の歩く速度にあわせてカメラが動くのだが、そうすると会話は聞こえてくるが表情は柱に隠れるという瞬間がある。そのシーンが、私は、実はとても好きだった。今回見た映画には、それがなかった。類似したシーンは、街中にあらわれた。二人が歩きながら話すのを、たぶん商店の中からカメラが追う。ときどき柱の影に二人の顔が見えなくなる。二人が別れ、キャサリン・ロスがいったん柱の影に消えて、戻ってきてキスをする--うーん、こうだったかなあ……。違う気がするなあ。
 まあ、どうでもいいシーンなのかもしれないが、記憶のシーンにこだわるのは、実は、私はこのシーンから、あ、これは文学につかえると思ったからである。何か重要なことを書く場合、それをくっきりと書くのではなく、間にわざと「ノイズ」をいれる。じゃまな存在をまぎれこませる。分かりにくくする。そうすると、読者の方は逆に、その隠されたものを想像し、書かなかったものを補って「ことば」を完成させる。あらゆる芸術は作者がつくると同時に、作者のつくらない部分を読者(鑑賞者)がかってに補って育て上げるとき完成する。そういう構造になっている--ということを、私は「卒業」の、ダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスが歩きながら会話するシーンで学んだのだ。その肝心のシーンが、記憶とは違った形でスクリーンにあらわれた。びっくりした。
 「午前十時の映画祭」のシリーズでは、ときどきこういう経験をする。私の記憶違い? それとも別バージョン? 少し気になる。



 この映画はまた、音楽のための映画という気もしないではない。サイモンとガーファンクルの歌と映像がとてもいい感じで融合している。ストーリーを忘れて、映像が、音に変わっていくのを見ている感じがする。特にダスティン・ホフマンが車を走らせてキャサリン・ロスを探す時のシーンがいい。音楽がストーリーを離れて走り、その走りだした音楽を映像がかってに追いかける。車のスピード、映像のスピードと、音楽のスピードが、ストーリーとは別の次元で疾走する。サイモンとガーファンクルの曲を鳴らしながら、アメリカ大陸を車で走ってみたくなる。とても、いい。
      (2011年04月16日「午前十時の映画祭」青シリーズ11本目、天神東宝6)



卒業 [DVD]
クリエーター情報なし
東北新社



人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルキノ・ヴィスコンティ監督「山猫」(★★★★)

2011-04-09 17:50:46 | 午前十時の映画祭
監督 ルキノ・ヴィスコンティ 出演 バート・ランカスター、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ

 美とは何か――破壊である、とルキノ・ヴィスコンティはいうかもしれない。ラストの舞踏会のシーンは何度見ても飽きないが、同じようにクラウディア・カルディナーレが最初にあらわれるシーンがおもしろい。美人だが気品がない。食事のシーンに、それが露骨に出る。アラン・ドロンの話を聞くときに、肘をついてしまう。いまでこそ誰もがテーブルに肘をついて食べるが、貴族はきっと肘などつかない。(庶民も、昔は肘をつくと行儀が悪いと言われた。)さらに話を聞きながら唇をかむ。挙句の果てに、アラン・ドロンの話に高笑いしてしまう。それは気品がないを通り越して、下品である。バート・ランカスターが気分を害して席を立ってしまうくらいである。しかしクラウディア・カルディナーレはそのことに気がつかない。
 ここに古い美と、それを破っていく若い力がある。ヴィスコンティはいつでも、古いものを破っていく若い力によりそう。古い美、彼がなじんできた美しいものに深い愛をそそぎながらも、それを壊していく力、新時代の方によりそう。
 バート・ランカスターがかわいがっているアラン・ドロン。その美。そこにはクラウディア・カルディナーレの演じる新興資産家(成金)の娘に通じる品の欠如がある。反政府軍(赤シャツ)の活動をしていたはずなのに、いつのまにか政府軍(青服)にかわっている。節操(?)がないのである。節操がないかわりに生きていく力がある。ヴィスコンティはそれによりそう。
 若い官能によりそう、と言い換えてもいいかもしれない。「美形」にひかれるというのは、自分の美が壊されてもいいと思い、よりそうこと、その美のために自分がどうなってもいい決意する死の喜びでもある。自分の持たないものを受け入れる、そして自分が自分でなくなる――そこにヴィスコンティの死をかけた官能のよろこびがある。
 この対立する美が一瞬、調和する。それが最後の舞踏会のシーン。クラウディア・カルディナーレが社交界にデビューするシーン。贅をつくしたパーティー。そこでバート・ランカスターとクラウディア・カルディナーレがワルツを踊る。それまで大勢でダンスをしていたのだが、このときだけは踊るのは2人。他のひとは見事なダンスに見とれている。ダンスというのは基本的に男がリードする。ここではバート・ランカスターがクラウディア・カルディナーレをリードするのだが、それがそのまま古い美の形式が若い命の力をリードして、その美の形式を完成させる、という形をとる。そのときのクラウディア・カルディナーレの輝きはアラン・ドロンを嫉妬させるくらいである。
 アラン・ドロンがバート・ランカスターに嫉妬するのではなく、クラウディア・カルディナーレに嫉妬する。これはヴィスコンティの嗜好(性癖)を考慮するなら、ホモセクシュアルの匂いもしてくるのだが、それも完成された美にリードされて未熟な美が完成されていくことに対する嫉妬のなかに組み込まれていく。アラン・ドロンはバート・ランカスターにリードされて完成された人間になりたいのだ。これは全編を通じた2人の関係でもある。そしてまた、ヴィスコンティと若い俳優(特に男優)との関係でもある。ヴィスコンティには若い男優を彼の手で美の形式として完成させたいという欲望がある。
 最後の最後、若い命の力に席を譲って、ひっそりと路地の闇にきえていくバート・ランカスター――これは、ヴィスコンティの「理想の自画像」なのだと思った。

*

 バート・ランカスターはこの当時まだ若いはずだが、重厚な雰囲気と野蛮さがとけあっていてとてもおもしろい。野蛮さが肉体の奥にあるから、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレの生々しい欲望が招きあって、3人の行動がからみあい、昇華していくのかもしれない。「家族の肖像」をもう一度見たくなる映画である。
(「午前10時の映画祭」青シリーズ10本目、天神東宝3、04月09日)



山猫 イタリア語・完全復元版 [DVD]
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラディスラオ・ヴァホダ監督「汚れなき悪戯」(★★★)

2011-04-02 18:38:57 | 午前十時の映画祭
監督 ラディスラオ・ヴァホダ 出演 パブリート・カルボ

 見ごたえがあるのは、空。モノクロなのだが、硬くて強烈である。透明になりすぎて、天の底(?)まで見えそうな感じがする。雲の形も、私が日本でなじんでいるのは「うろこ雲」っぽいものだけで、あとは見たことがない。貧しい村の荒れた大地と向き合っているのは、こういう「天」なのだなあ、と思う。
 こういう空を毎日見ていたら、この映画のようなことも考えるかもしれない。
さえぎるものが何もない。思っていることが、そのままどこまでも筒抜けである。思ったことは、そのまま「現実」になるのだ。思ったことを、そのまま「現実」にしてしまうのがスペイン人の想像力の過激さかもしれない。
この過激さ、純粋さは、現代では、アルモドバルが引き継いでいる、と言ってしまうと、言いすぎになるかなあ。
私は、強烈な空の透明さを見た瞬間、あ、これはアルモドバルの透明な強さだ、と感じたのだ。
アルモドバルの主人公たちは、思ったことが「筒抜け」である。同じように、修道士たちの言動も、「思ったこと」が筒抜けである。マルセリーノには家庭が必要である。母親が必要である。でも、かわいいから自分たちで育てたい。そう思っている、その思いはスクリーンからはみ出して、観客に伝わる。
 まあ、マルセリーノを演じた子供がかわいいということもあるのだろうけれど。
 なんだかむちゃくちゃな映画である――というと「奇跡」を信じているキリスト教徒に叱られそうだが、しかしねえ、これはやっぱり、この映画の風土が生み出した特別なものだね。あの、「絶対透明」に到達した空が生み出したものだね。「天国」は花で満ちているかどうかわからないが、透明さでみちているんだろうなあ。マルセリーノの瞳のように。

              (「午前10時の映画祭」青シリーズ9本目、天神東宝3、03月19日)

汚れなき悪戯 [DVD]
クリエーター情報なし
IVC,Ltd.(VC)(D)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アッバス・キアロスタミ監督「友だちのうちはどこ?」(★★★★)

2011-03-27 21:37:23 | 午前十時の映画祭
監督 アッバス・キアロスタミ 出演 ババク・アハマッドプール、アハマッド・アハマッドプール、ホダバフシュ・デファイ

 冒頭のシーンがとても美しい。小学校の教室。ドア。風(?)のためにゆれている。ゆれるたびに、柱にコツンコツンとぶつかる。その小さな動き。その映像が美しい。スクリーンを分割するドアと柱の左右のバランスが美しいのだ。そして、その分割された画面の中の、古びたドアのペンキの色。ノブ(取っ手、ということばの方がぴったりくるかなあ)の手触り。そこにある「時間」そのものが美しい。--そして、この美しいというのはリアリティーがあるということと同じ意味である。
 アッバス・キアロスタミというのはリアリティーがあるということであり、リアリティーがあるということは、そこに「蓄積された時間」がある、つまり「暮らし」があるということでもある。
 庭に洗濯物を干す。そのときのたとえばシャツの掛け方、そしてその空間にシャツが占めることによって起きる空間のバランスの変化--そういうことは繰り返されることによってある「安定」を形作る。それがそのままスクリーンに定着する。それが美しい。
 一階と二階のバランス、階段の角度、その板の古びた感じ、何もかもが絵になる。何もかもが「時間」をもって、そこで生きている。少年が友だちの家を探しに行くその村(?)の石の階段、露地、古びた石造りの感じの肌触り。そこに漂う空気や、家の仕事を手伝う子どもの動き、ぶらぶら歩いている犬さえ、「蓄積された時間」をかかえていて、とても美しい。主人公の少年の祖父をはじめ、何人も登場する老人たちも、「蓄積された時間」そのものである。「哲学」をもっている。その「哲学」に共鳴するかどうかは別の問題だが、きちんと「哲学」にいたるまで「ことば」のなかに「蓄積された時間」をもっているのが美しい。「蓄積された時間」が表情となって、自然ににじみでるのである。

 この映画はノートを友だちのうちにとどけに行く少年を追いかけるようにして動いているが、それとは別に語られる「ドア」の変化もおもしろい。最初に教室のドアの美しさを書いたが、少年をひっかきまわすのは「ドア職人」である。ドア職人はロバに乗った中年と、老人と二人出てくる。二人が出てくることで「ドア」そのものにも「時間」が生まれる。いまの職人(中年の職人)のつくるドア、老人がつくるドアの違い。中年の方は「鉄」の方に力を入れている。老人はあいかわらず木の手作りのドア(窓、といった方がいいかもしれない)にこだわっている。鉄の方は堅く閉ざされ内部が見えない。木の方は飾りの透かしから明かりが洩れる。何も見えないものと、何かが見えるもの--見えるものの方が、美しい、という「時間」がそこにある。
 主人公の少年は、見えるものと見えないもののあいだを行ったり来たりする。ノートの持ち主の少年のうちはどこ? わかるっていることがある(見えているものがある)一方、わからないこと(みえないこと)がある。そのために、あっちへ行ったりこっちへ行ったりするのだ。そうすることで、少年は自分のなかにある「時間」を発見する。自分がその「時間」をつかって何ができるか--それを発見する。
 とてもおもしろいねえ。
 そして、その「発見」の瞬間--というか、その「発見」を導くように、窓が開く(ドアが開く)。これもいいなあ。
 さらに、さらに。
 最後の最後。宿題のノート。それを開くと、そこには、老人のドアつくり職人がくれた路傍の花が「押し花」のしおりになって挟まっている。その美しさ。「時間」を抱え込んで、その「時間」がそのまま色と形になっている。
 アッバス・キアロスタミは、どんなものでは「映像」に変えてしまう。美しい映像にしてしまう監督である。
         (「午前10時の映画祭」青シリーズ08本目、天神東宝、03月25日)




友だちのうちはどこ? [DVD]
クリエーター情報なし
パイオニアLDC
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルネ・クレマン監督「禁じられた遊び」(★★)

2011-03-21 16:24:02 | 午前十時の映画祭
監督 ルネ・クレマン 出演 ブリジット・フォッセー、ジョルジュ・プージュリー

 私はこの映画がそんなに好きではない。子供の描き方が気に食わない。無垢と無知は違ったものだが、この映画ではそれが混同されているように思う。
 幼い少女は「死」について無知である。そこから「無垢」な「遊び」が始まる。この前提が私には奇妙なものに思える。死について何も知らなくても、実際に体験するとそこからなにごとかを感じてしまう本能が人間にある。両親が死んだとき、ポレットは母の頬に手を触れ、自分の頬の感じと違うことを知る。(そんなに早く、体温が奪われているとは思わないけれど。)この、肉体を通して知った「事実」というものは重いものである。それがこの映画の中では丁寧に取り扱われていない。
 少女は死んだ犬のことを気にしているが、その前に母の頬に触り、その異変を知っているのだから、母を置き去りにして犬を気にするというのはあまりにも変である。その直前の、犬を追い掛けるシーンは、まだ母が生きているからありうるが、母に異変があったと知って、それも肉体で確かめた後、それでも母を見捨て犬を追い掛けるとしたら、これは「無知」というより感じる力をなくしている。
人間の感覚を狂わせてしまうのが戦争であるという見方もあるだろうけれど、そうならそうで、感覚の狂いをもっと丁寧に描くべきだろう。あまりにもご都合主義的な展開である。
この映画では、ポレットとミシェルの「泣かせるストーリー」よりも、ミシェルの家と隣の家のいがみ合いがとてもおもしろい。戦争の最中に、隣人同士がいがみあっている。そのくせ、その家の娘と息子は恋愛関係にあり、フランスだから(?)もちろんセックスもする。この日常感覚が、あ、やっぱりフランス、あくまで「個人のわがまま」を最優先する、というのがいいなあ。両家に、脱走兵がいる、というのも人間っぽくていい。わがままでいい。ミシェルの兄が馬に蹴られて、それが原因で死ぬという「日常」もいいなあ。田舎の「日常」がくっきり描かれているのが、とてもいい。
こういう丁寧な日常を描くくせして、ポレットとミシェルだけが「メルヘン」の残酷さと美しさを生きるというのは、あまりにも変だねえ。
最後の駅のシーン。悲しいというより、フランスの「個人主義」がくっきり出ていて、それもいいんだけれどねえ。



最近「白いリボン」をみた影響かもしれない。厳しい評価になった。
(「午前10時の映画祭」青シリーズ7本目、天神東宝、03月19日)


禁じられた遊び [DVD] FRT-098
クリエーター情報なし
ファーストトレーディング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウィリアム・ワイラー監督「大いなる西部」(★★★★)

2011-03-13 01:15:54 | 午前十時の映画祭
監督 ウィリアム・ワイラー 出演 グレゴリー・ペック、ジーン・シモンズ、キャロル・ベイカー、バール・アイヴス

 題材は西部劇だが、内容は西部劇じゃないなあ。何度か繰り返されるグレゴリー・ペックの台詞「自分の居場所はわかる(知っている)」が象徴的だが、まあ、なんというか説教臭い映画である。
 ウィリアム・ワイラーとしては異色の西部劇をつくってみたかったということなんだろうなあ。だから、主人公は東部の船乗り(船長)という「大いなる西部」とはまったく異質なものを狂言回しにしている。異質なものが西部にまぎれこむことで、西部の「本質」を浮かび上がらせているのだ。
 で、この狙いというか、意図を具現化しているのがバール・アイヴス。ヘネシー。ブロンコ谷の野蛮な一家の父親。太っていて醜く、たぶん教養もない、という設定。けれど、この親父は人の本質を見抜く。真実を生きている人間を見抜く。「正義」を見抜く。
 ひとは見かけで判断してはいけないんだねえ。
 彼が信じているのは、卑怯なことはしない。正々堂々と向き合い、真剣に勝負するのが男であるという思想である。それが、親父の「正義」である。彼は「正義」を実行している。いつでも、「正義」だけを実行する。
 この愚直なまでの「正義」のこころは、ときに悲劇を呼ぶ。
 卑劣な行為をする人間がいれば、それが自分の息子であろうと殺す。もちろん、殺したあと、親父は悲しむのだが、その悲しみはギリシャ悲劇のように感動的であり、同時に官能的である。正義の悲しみが、とても美しい。
 最後の少佐との決闘も、劇の結末をぐいと引き寄せ、結晶させる。そこにも「正義」の力がある。
 バール・アイヴスの演技をみていると、ウィリアム・ワイラーは、無法者を保安官が倒すという「正義」ではなく、カウボーイの「正義」、西部を開拓して生きる男の「正義」を描きたかったのだということがわかる。バール・アイヴスはウィリアム・ワイラーの思想を肉体で具体化している。
 この映画のもうひとつの見物は広大な風景である。
 ブロンコ谷(白い谷)の岩の美しさ。砂漠といっていいような荒地と、うねるような大地の起伏、そのどこかにある水。そして、光。その広大な世界を生きていくには、バール・アイヴスの「正義」が絶対必要なのだと感じさせてくれる。
 あるいは逆に言うべきなのか。
 「正義」によって、広大な土地が絶対的な美しさに変わっていく。バール・アイヴスの存在が、この西部劇の舞台そのものを完璧な美しい土地に変えてしまう。
              (「午前十時の映画祭」青シリーズ6本目、天神東宝)


大いなる西部 [スタジオ・クラシック・シリーズ] [DVD]
クリエーター情報なし
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン


人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョージ・スティーヴンス監督「シェーン」(★★)

2011-03-05 23:53:37 | 午前十時の映画祭
監督 ジョージ・スティーヴンス 出演 アラン・ラッド、ジーン・アーサー、ヴァン・ヘフリン、ブランドン・デ・ワイルド、ジャック・パランス

 私はひねくれものなのだろうか。この映画を一度もおもしろいと思ったことがない。クライマックスといっていいのかどうかわからないが、最後の酒場のシーン。シェーンを2階からライフルが狙う。そのとき、少年ジョーイが「危ない」と叫ぶ。気がついて、シェーンが振り向きざまに銃を放つ。このシーンは、まあ、許せないことはないのだが。
 その前。
 シェーンが、ジョーイの父親の代わりに酒場へ乗り込む。それをジョーイが追い掛ける。シェーンは馬に乗っている。少年は走っている。追いつける? 走り続けられる? どうみても小学校低学年、10歳以下。変だよねえ。一緒に犬もついてくるんだけれど、犬ってそんなに走る?
 映画がリアリズムである必要はないけれど、これは、あんまりだよねえ。

 途中に出てくる、暴力と自由の対立、その議論――というのも、図式的。土と生きる人間のずぶとさがなく、まるでストーリーのためのセリフ。実感がこもっていない。
 そのくせ、シェーンとジョーイの母の「恋愛」だけは、セリフではなく、肉体(顔、目の動き、体の動き)で表現するという映画の王道をつきすすむ。あらあら。これって、恋愛映画? アラン・ラッドではなく、ジーン・アーサーの演技力によるものだけれど。

 唯一の救いは、透明な空気かなあ。どこだろう、遠い山には雪が残っている。青い連山、青い山脈だ。その山の方へ向って去っていく男を、ジョーイの声が追い掛ける。「シェーィン」(シェーンじゃないね)。こだまが「シェーィン、シェーィン」と響く。これは、いいね。帰ってくるのは、こだまだけ。それも、少年の透明な声。せつない、というより、さびしい悲しさだね。
             (「午前10時の映画祭」青シリーズ5本目、福岡天神東宝)




シェーン [DVD] FRT-094
クリエーター情報なし
ファーストトレーディング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョン・スタージェス監督「荒野の七人」(★★)

2011-02-28 09:01:03 | 午前十時の映画祭
監督 ジョン・スタージェス 出演 ユル・ブリンナー、スティーヴ・マックイーン、イーライ・ウォラック

 うーん。黒沢の「七人の侍」のよさばかりがよみがえるなあ。リメイク(盗作?)とは言いながら、肝心の雨のシーンがない。荒野では雨が降らないといってしまえばそれまでだが、雨にかわる自然現象がないとねえ。砂嵐とかね。そこに住んでいるひとの、地の利、土地の感覚がないと、こういう「抵抗もの」(ゲリラもの)は生きてこない。最後に「勝つのはいつも農民」という「七人の侍」のセリフがそのままつかわれるけれど、この「農民」というのは農業をやる人という意味だけではない。土地に根差して生きているひと。ね、ベトナム戦争でもアメリカが負けたのは、結局、その土地に生きていない侵略者だから。フィリップ・ノワレ主演の「追想」(だったかな?)も、結局、彼が暮らした家が戦場だから一人でドイツ軍に勝てた。土地を知っている人が勝つ――というのが、抵抗の本質。雨で(砂嵐で)視界が利かない。けれど、その土地のありようが分かっていれば、視界が利かない分だけ、有利になる。これは、ほら、「暗くなるまで待って」では、オードリー・ヘップバーンが電気が消えると有利になるのも同じ。そして冷蔵庫の室内灯?がつくと不利になるというのにもつながる。誰にでも不利、有利があり、それをどう生かすかが弱者が勝つための条件。「荒野の七人」は凄腕の七人だが、相手は多人数という意味では「弱者」だよねえ・・・。その「弱者」が「負けない」ための条件がねえ・・・。
 だからさあ、最後がとっても変だよねえ。七人は捕まって、追放され、そこから村へ引き返して戦うなんて、むちゃくちゃ。勝てるはずがないのに、ただ戦う。そして映画だから善が悪に勝つ――あら、馬鹿らしい。黒沢映画のいいところをまったく生かしていない。盗まれた黒沢が怒るはずだね。
 演技もみんな下手糞だね。特に農民がひどい。主演陣も、人間描写の掘り下げがぜんぜんない。薄っぺらい。そんななか、ユル・ブリンナーが変に光っている。なぜだろう。はげ頭の光? いいや、セリフ回しだ。声だ。映画役者の声ではなく、舞台役者の声、発音だな、これは。「Y」の音なんか、異様にくっきり響いてくる。スティーヴ・マックイーンのしゃべり方とぜんぜん違う。ユル・ブリンナーが「王様と私」が代表作になってしまう(他にいい作品に恵まれない)という理由はこのあたり?
 あ、映画そのもののことからずいぶん離れてしまったなあ。そういう感想しか思いつかないのが、この映画ってことだね。
                    (「午前十時の映画祭」青シリーズ4 本目)




2月のベスト3
「英国王のスピーチ」
「冷たい熱帯魚」
「ザ・タウン」

荒野の七人 [Blu-ray]
クリエーター情報なし
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする