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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ヴィクター・フレミング監督「風と共に去りぬ」(★)

2011-12-03 19:30:45 | 午前十時の映画祭
監督 ヴィクター・フレミング 出演 ヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル、オリヴィア・デ・ハヴィランド

 「午前10時の映画祭」という催しがある。かつての名画をスクリーンで年間50本上映するものである。私は先週、福岡天神東宝で見たのだが、52席しかない小さな劇場での公開である。で、とてもつまらない。大スクリーンで見ないとおもしろくない。燃え盛るアトランタをヴィヴィアン・リーとクラーク・ゲーブルが馬車で駆け抜けるシーンはいまの映像からするとずいぶんおとなしいのだが、それでも大画面で赤い色と黒いシルエットをみれば興奮するはず。小さい画面ではおもしろくない。
 だいたいヴィヴィアン・リーのわがまま放題の女性像は、大画面でこそ生きてくる。大きな画面で観客を飲み込んでこそ輝く。小さい画面では等身大くらいの印象で、こんなわがまま女、いったい誰が相手にするのだ、とあきれかえるだけである。
 クラーク・ゲーブルの色男ぶりも、台なし。すけべなオヤジにしか見えない。それが子煩悩を演じると笑い話である。この映画では披露していないが、クラーク・ゲーブルの軽いウィンクは大画面で見てこそ、あ、いま、自分に向ってウィンクしたと錯覚できるのである。あれを真似して女をだましてみたいと思うのである。小さい画面では、私の方がウィンクはうまくやれるな、と思ってしまう。「一体化」できない。
 一方、オリヴィア・デ・ハヴィランドは小さい画面の方が映えた。演じている役柄がテレビの主人公――つまり、日常の連続のなかにいる。毒がない。安心感がある。
 でも、映画は毒がないとおもしろくない。映画はどうせ嘘。日常とつながらなくたって平気。日常を振り切るために、「スター」になりに映画館へ行くのだから。
 この映画は、記憶の中では★★★★の映画だが、今回の上映で一気に★ひとつになった。小さな画面ではおもしろくない映画の典型である。



 この天神東宝の上映について、「天神東宝命」「マイケル」「ニック」という人物が、「天神東宝支配人の深謀遠慮」があらわれたものと絶賛していた。「名作はスクリーンの大きさや客席の多さではないのだ、そんなものは関係ない」「2番劇場はまるで映画会社の試写室のようではありませんか。夢に見た映画評論家の気分に浸れるのです。素晴らしいですねえ」というのが理由である。
 「映画評論家」なんて夢見たことがないなあ。私は試写室なんかで映画をみておもしいろいのだろうか。私は見たことがないのでわからない。お金を払って、見知らぬ客と並んでみるからおもしろい。つまらない映画にはつまらない、金返せ、と怒鳴り散らす方が好きだ。
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