監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 アンソニー・クイン、ジュリエッタ・マシーナ
好きなシーンが二つある。
ひとつはザンパーノ(アンソニー・クイン)がジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)を置き去りにするシーン。毛布をかけ、体が冷えないように、思わず人間らしいことをしてしまう。そして、いよいよ出発というとき、荷台のトランペットに目がとまる。この一瞬。毛布をかけたときより、もっと人間っぽい。トランペットを荷台から取り出し、ジェルソミーナの体の横にそっと置いていく。
置き去りにして逃げるのだから、毛布をかけなくたっていい。トランペットを残していかなくたっていい--はずなのに、そういうことをしてしまう。
いいねえ。このときのアンソニー・クイン。
どきどきしてしまう。何度も見ているので、次に何が起きるかわかっているにもかかわらず、どきどきする。ジェルソミーナが目を覚ますんじゃないか。気がついてオートバイを追いかけながら「ザンパーノ」と声を上げて泣くんじゃないか……。
存在しないフィルムが私のこころのなかでまわりだすのである。アンソニー・クインの、目の表情が、そういうことを期待させるのである。もしかすると、アンソニー・クインはジュリエッタ・マシーナが目を覚まし、追いかけてくるのをどこかで期待していたかもしれない。追いかけてくるのを見ながら、それを振り切って逃げてこそ、置き去りにするという残酷な行為になる--そうなってほしいと願っていたかもしれない。
なんといえばいいのだろう。「逆説の期待」、裏切られることで安心する「期待」のようなものが、どこかにひそんでいる。
これが最後の、大好きな大好きなシーンにつながる。
ジェルソミーナがいつも吹いていた曲をザンパーノはふと耳にする。そして、ジェルソミーナの、それからを知る。死んでしまったことを知る。
そのあと。
夜の海辺をさまよい、砂浜にうっぷすザンパーノ。一瞬、空を見上げる。カメラは空をうつさないのだけれど、満天の星がきらめいている。それがわかる。アンソニー・クインの目が孤独のなかで純粋になる。トランペットを見つけ、ふと目がとまったときと似ているが、それよりももっと純粋な暗い色、暗いけれど透明な輝きになる。孤独のなかで、一瞬、ジェルソミーナとつながる。そして、ふたたび、そのつながりが消えてしまう。
このとき、ふと、思うのである。トランペットを荷台にみつけ、それを「置き土産」にしようと思った瞬間、ザンパーノのこころはジェルソミーナとどこかでつながっていた。それを断ち切って、ザンパーノは逃げたのだ。その結果が、孤独である。そして、孤独であると気がついた瞬間、ザンパーノはジェルソミーナと深く深くつながるのだが、そのつながりが深く、また強ければ強いほど、現実の孤独はいっそう残酷にザンパーノに襲い掛かってくる。
残酷で野卑だったアンソニー・クインが、泣きながら、砂をかきむしり、砂浜を叩く。海はアンソニー・クインの悲しみなど知らないというふうにただそこになる。波はあたりまえのように打ち寄せている。暗い闇。そして、スクリーンにうつることはないけれど、空にはきっと満天の星。そのひとつはジェルソミーナの星かもしれない。
この映画はしばしば綱渡りの「奇人」が語る石のエピソード(「どんなものでも世の中の役に立っている。この石も」とジェルソミーナに語るシーン)とともに取り上げられるけれど、私にとっては、この映画は何よりもアンソニー・クインの映画である。
(午前十時の映画祭青シリーズ25本目、天神東宝3)
*
天神東宝の音響は相変わらずひどい。途中でかならずブォーンというような雑音が入る。大音響でごまかしている作品の場合は気づかずにすむこともあるが、「道」のような静かな映画では気になってしようがない。
好きなシーンが二つある。
ひとつはザンパーノ(アンソニー・クイン)がジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)を置き去りにするシーン。毛布をかけ、体が冷えないように、思わず人間らしいことをしてしまう。そして、いよいよ出発というとき、荷台のトランペットに目がとまる。この一瞬。毛布をかけたときより、もっと人間っぽい。トランペットを荷台から取り出し、ジェルソミーナの体の横にそっと置いていく。
置き去りにして逃げるのだから、毛布をかけなくたっていい。トランペットを残していかなくたっていい--はずなのに、そういうことをしてしまう。
いいねえ。このときのアンソニー・クイン。
どきどきしてしまう。何度も見ているので、次に何が起きるかわかっているにもかかわらず、どきどきする。ジェルソミーナが目を覚ますんじゃないか。気がついてオートバイを追いかけながら「ザンパーノ」と声を上げて泣くんじゃないか……。
存在しないフィルムが私のこころのなかでまわりだすのである。アンソニー・クインの、目の表情が、そういうことを期待させるのである。もしかすると、アンソニー・クインはジュリエッタ・マシーナが目を覚まし、追いかけてくるのをどこかで期待していたかもしれない。追いかけてくるのを見ながら、それを振り切って逃げてこそ、置き去りにするという残酷な行為になる--そうなってほしいと願っていたかもしれない。
なんといえばいいのだろう。「逆説の期待」、裏切られることで安心する「期待」のようなものが、どこかにひそんでいる。
これが最後の、大好きな大好きなシーンにつながる。
ジェルソミーナがいつも吹いていた曲をザンパーノはふと耳にする。そして、ジェルソミーナの、それからを知る。死んでしまったことを知る。
そのあと。
夜の海辺をさまよい、砂浜にうっぷすザンパーノ。一瞬、空を見上げる。カメラは空をうつさないのだけれど、満天の星がきらめいている。それがわかる。アンソニー・クインの目が孤独のなかで純粋になる。トランペットを見つけ、ふと目がとまったときと似ているが、それよりももっと純粋な暗い色、暗いけれど透明な輝きになる。孤独のなかで、一瞬、ジェルソミーナとつながる。そして、ふたたび、そのつながりが消えてしまう。
このとき、ふと、思うのである。トランペットを荷台にみつけ、それを「置き土産」にしようと思った瞬間、ザンパーノのこころはジェルソミーナとどこかでつながっていた。それを断ち切って、ザンパーノは逃げたのだ。その結果が、孤独である。そして、孤独であると気がついた瞬間、ザンパーノはジェルソミーナと深く深くつながるのだが、そのつながりが深く、また強ければ強いほど、現実の孤独はいっそう残酷にザンパーノに襲い掛かってくる。
残酷で野卑だったアンソニー・クインが、泣きながら、砂をかきむしり、砂浜を叩く。海はアンソニー・クインの悲しみなど知らないというふうにただそこになる。波はあたりまえのように打ち寄せている。暗い闇。そして、スクリーンにうつることはないけれど、空にはきっと満天の星。そのひとつはジェルソミーナの星かもしれない。
この映画はしばしば綱渡りの「奇人」が語る石のエピソード(「どんなものでも世の中の役に立っている。この石も」とジェルソミーナに語るシーン)とともに取り上げられるけれど、私にとっては、この映画は何よりもアンソニー・クインの映画である。
(午前十時の映画祭青シリーズ25本目、天神東宝3)
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天神東宝の音響は相変わらずひどい。途中でかならずブォーンというような雑音が入る。大音響でごまかしている作品の場合は気づかずにすむこともあるが、「道」のような静かな映画では気になってしようがない。
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