きぼう屋

生きているから生きている

「自分のことは自分で」?パトロールのお知らせ

2009年05月02日 | 京都寄り添いネットのお知らせ
本日2日(土)は
ホームレス支援機構・京都寄り添いネットの
鴨川と御所のパトロール

13:00
当教会集会室集合

鴨川河原で通り魔事件が発生した直後
不安に中にいる仲間に

わしが仲間!

と伝えましょう


二日後の4日(休)は荒神口炊き出し
10:00
当教会集会室集合

ゴールデンウィークは
こういうことができるためにある!!



すこしだけメッセージ

「自分のことは自分で」

という現代の標語は
本当に本来の人間性にマッチするのでしょうか。

本当に聖書の言としていわれていることでしょうか。

主イエスはそういう生き方をしたのでしょうか。
主イエスの弟子たちは?
弟子のそのまた弟子たちは?

旧約聖書の預言者や祭司たちは?
聖書記者たちは?


ぼくは
これは
長い長い歴史の中で
この間ちょっとだけ流行している標語で

ぜんぜん本来の人間性にマッチするどころか
人間性をおかしくすることだと思います


「自分のことは自分で」
ではなく
「他人ことはわたしで わたしのことは他人で」
だと思います

これを依存関係として排除するというのも
長い長い歴史の中で
この間ちょっとだけ流行している見方だと思います

何しろ大事なのは
「わたしのことを他人がしてくれている」
という信頼とその実感!!

またその実感がないということは
起こりえません

実感がないという場合は
この世にある最も大切な事柄を
たぶんあえて無視している場合だと思います。

その大切な事柄は

信仰

です



「わたしのことは他人がしてくれている」



「わたしのことはキリストが十字架で引き受けている」
「わたしのことはキリストが愛してくれている」

という事柄となります


もっというと
「わたしの罪がキリストが背負ってそれゆえの死までをひきうけている」

という
その出来事の前に沈黙し
驚き
全身が覚えたことのない実感を得ます


これが

「わたしのことは他人がして」

ということで

それゆえに

「他人のことはわたしがする」

となるわけです


これが
聖書のかたる人間性



というわけで

ホームレス支援という行為は
そういうことなわけです



さてさて
本日は13:30より
円山野外音楽堂で
憲法集会が開催されます

今年は
あの益川先生と
あの瀬戸内さんが
おはなしされます


今年は
わたしはまったくかかわることができませんでした
でも
わたしなんかかかわらなくてもいいくらいに
この動きがひろまったというわけで
心からホッとしています


でも小笠原事務局長の大変さを経験上想像しつつ
ただただ成功を祈るばかりです

天気もいいし
たぶん会場に入りきれないくらい集まることでしょう




9条を守るわけですが
9条ってのは

「他人のことをわたしが守る」
というはなしで

じゃあわたしのことはだれが守るの?
と聞かれると

9条は実はそれに答えられないわけです
もちろん懸命に論を組み立てて答えるケースが多いのですが

わたしとしては
答えれば答えるほど
9条がおとしめられると思っておりまして・・・・



というわけで

「自分のことは他人で 他人のことは自分で」


本来の標語になったらいいと思います

ではおしまい