きぼう屋

生きているから生きている

敬老感謝

2011年09月21日 | 「生きる」こと
今週の週報巻頭言です。

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「敬老感謝」

年に一度、この時期に、
当教会は敬老感謝礼拝を持ち、
信仰、人生の先輩方を覚えております。
そしてここでは
75歳以上の方々のお名前をご紹介させていただきます。

(ネット上では省略 31名)

出エジプト記の十戒に
「父母を敬え」という神の戒めがあります。
これは幼子にお父さんとお母さんの言うことを聞くよう求めるものではなさそうです。
むしろ当時のイスラエルのリーダーたちに、年老いた父母を敬うよう戒めたものです。

「敬う」というヘブライ語は「重み」という意味を持つ語が使用されています。
ここから推測できるのは、
イスラエルの民がエジプトから脱出し、追っ手から逃げるときに、
恐らく年老いた者たちがその速度を落とす存在であったことではないでしょうか。
そして高齢者たちが、
「自分たちのことは放っておいて、若者たちが捕まって殺されないようさっさと逃げておくれ」
とリーダーたちに言ったかもしれません。
しかし神は、リーダー世代に、
高齢者の重みをしっかり覚えよ!と戒めます。

ここから私は、
若者たちが高齢者をおんぶし、
その体重を覚えつつ神の国に向かい、
行く手を邪魔するものから逃げる
という姿を想像します。

この戒めから、
教会の次世代、次々世代の仲間たちは、
先輩の重みを覚えることを学びたいと願います。
それは、
体の重みを知るという生活の只中での高齢者との関係をさらに獲得させていただくことと、
彼らの信仰の証、人生の知恵という重みを継承することであるはずです。

また高齢の仲間たちは、
次世代に体重を委ねることと、
丁寧に信仰の物語を証しし、教会共同体を覚えて祈ることを、
さらに主よりいただくことがゆるされるならと願います。

人生・信仰の先輩を主に感謝しつつ。


アイデンティティ*私とは何者か

2011年08月25日 | 「生きる」こと
私とは何者か。
それを知るためには次の二つを要する。
ひとつは私の才能と業。もうひとつは私の限界。
ふたつのうちでより私を規定するのは後者である。

私とは何者か。
それを自分の才能と業から知ろうとする場合は、自分のみを必要とする。
しかし自分の限界から知ろうとする場合には、自分の限界を示す他者を必要とする。

私とは何者か。
それは私の限界を示す出来事と他者から問われる。
本来そうであるところの明らかに異質である他者から問われ、
究極に他者である神から問われる。
また、究極の限界である死から問われる。
それも不条理なる十字架の死から問われる。

汝の敵を愛せ。
最も異質な他者である敵を愛すること、
さらに最も異質な出来事である死を受容することは、
私のアイデンティティのために不可欠な事柄。

敵への愛と死の受容なしに私のアイデンティティが確保できないならば、
私は私を知ることがないということか?
私は信じる。
キリストによる和解とキリストの復活ゆえに
敵への愛と死の受容をキリストが起こすと。

しかし
そこで私についての答えが示されるのではなく、
問いの変化が起こされる。
つまり
問いは、私は何者か?から、キリストは何者か?へと変わる。

私のアイデンティティとはキリストのアイデンティティであり、
それは具体的な世界においては教会共同体というキリストの体のアイデンティティなのだ。

私とは何者か?という問いは、
キリストとは何者か?という問いであり、
教会とは何者か?という問いである。
これらの問いは切り離されることなく、
常に同時に問われるものである。

私とは何者か。
それは答えのある問いではない。
この問いを含めた上記みっつの繰り返しの問いとして、
アイデンティティであるところの問いである。

そして
問いがすでに
復活と希望の光のなかでの
和解と癒しの出来事の初穂となっているのだ。


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今もなお最も多く聞かれる要望、
私のアイデンティティを確保したい!
というものを受けて
私とは何者か
からいろいろと考えてみたらこうなったわけです。

若人たちへ

2011年08月24日 | 「生きる」こと
当教会は8月第一週に若者による被災地支援活動を行った。
教会のみなさんの献金による。
ひとりの青年の要望が叶うかたちで。
企画が決まり、若者たちに参加を呼びかける。
たくさんの仲間が行きたいと願った。
日程が合い行けた者以上に、残念ながら仕事や大学の試験で行けなかった者が多かった。

被災地支援の参加希望者には特徴が見られた。
それは京都においてホームレス支援にかかわった経験のある者たちだったのだ。
当教会は日常的にホームレス当事者とのかかわりがあり、出会いがある。
それにより問われている者たちだった。

今週の礼拝説教で若者たちに「厳しい問い」として提示したが、
一方で、当教会というホームレス当事者とほんの一歩を踏み出すことで出会う環境のなかで、
まだ出会っていない者は、
被災地支援への参加のことを口にすることがなかった。

つまり、
日々の生活で他者と出会っているか否かが実はすべてなのだ。

信仰とは他者との出会いのことである。
聖書は徹底的に神を他者として描き、
他者なる神との出会いを信じ畏れることを信仰と言う。
主イエスはもっと分かりやすく人のかたちをもってして他者である。
しかし他者との出会いを二の次にするキリスト教界のイデオロギーが今尚強く残る。

神を自分の心の中にしまう信仰形態はいつ生まれたのだろう。
自分の安定と安全のために主イエスや聖霊を用いる信仰はどのような背景に基づくのだろう。
自分のための神ってなんだろう?。
わたしはこれらは国家の強化のために無意識につくられたイデオロギーと思ったりする。

自分という世界を第一としそこに神を閉じ込めることと、
国家を世界と同一視しそこに神を閉じ込めることには、
強い親和性がある。
まず自分や国家のイメージと思想とやりたいこと。
それらが神化していて、それらを捨てることがむずかしくなる。
このイデオロギーは厄介。

日常的に自分の諸々を、
他者の具体的生活における叫び、嗚咽の前で、
キリストの十字架の下に立つゆえに断念できるか?。
これがキリスト者の歩みの中心の問い。

他者の十字架のための活動をするのがキリスト者。そしてその行為が愛。

私が生きるのは、他者との交わりゆえ。
私が健やかに平安に生きたいならば、
私のことを考えるはせいぜい2割で十分。
8割は他者の平安のために祈り行為する。
すると私も生きる。

力も策も神と共にあり。原発被害の只中で。

2011年08月10日 | 「生きる」こと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「力も策も神と共にあり」


「力も策も神と共にあり 迷うこと、迷わせることも神による(ヨブ記12:16)」。

昨日は66年前に広島に原爆が投下された日。
その記念式典における「平和宣言」の中で、広島市長は原発に頼らないエネルギー施策を政府に求めた。
それは66年前の悲劇を繰り返さないための訴えであることが、
宣言内で使用された「黒い雨」という語により暗に、しかしそのことが中心であることが示されていた。
私たちは広島と長崎の原爆による被害を痛み、そこから学び、
それが繰り返されないよう祈り続けている。

しかしその祈りは、
被害を出す核物質自体を否定してきたというより、
核物質による武器を否定してきたケースが多かったことが今はわかる。
つまり「平和利用」に関しては、逆に否定しないケースが圧倒的に多かったのだ。

しかし3月11日に福島原発は壊れた。
今なお放射性物質を多量に出し続けている。
その量は広島に落とされた原爆の二十倍とも三十倍とも言われる。

今、わたしたちは次の事実を確認することができる。
それは、この島で生きるならば被曝することが、我々にはそれこそ運命付けられたということだ。

原子力は「平和利用」されようとも大きな悪である。
そして教会はそのことを明確に言い続けねばならなかった。
しかしそれをしなかった。
まず教会は悪とたたかいきらなかった歴史の罪を告白せねばならない。

ただ、だからといって他のエネルギーが善であるとも言い切れない。
どのエネルギーを利用しても、
そもそもそれだけの莫大なエネルギーなしに動かないシステムが悪であり、
そのシステムで快適性を享受する我々も同じく悪である。
その悪のために用いられるものは何であっても悪ではなかろうか。

我々は歴史を通じて迷うことを避け、迷わない生き方のために、
力と策とを自ら生み出そうとし続けている。
つまり聖書の言葉の逆を歩んでいる。

これが悪の源。

しかしその源によるシステムが破綻した。
逆に命を脅かし始めた。

そこで私たちは、今、逆に迷い始めた。
迷う中で、逃げる場合も、逃げたくても逃げられない場合も、逃げる必要を認めない場合もある。
そもそも線量値と健康との因果関係の真偽も迷う。

その中でキリスト者ができることは何か。
それは迷うことだ。
迷いは神によると信じることだ。
そして力と策が神にあることを認めることだ。
神に祈り神に聞き神の力と策に希望を見出すことだ。

それは今度こそ原子力をはじめ巨大な力と策たちが悪であることを言い続けることだ。

そう!言い続けることだ。
広島の平和宣言は、暗に原爆の悲痛をその後も世代も原発事故にて苦しむことを嘆いている。
そしてその次の世代こそは悲劇を繰り返さないことを求めている。

次こそ悲劇を繰り返したくない。
そのために私たちは巨大な力と策たちが悪であることを言い続ける。

そして迷う。
自らが被曝する現実の前で大胆に迷う。
神に創られたいのちを傷つけるという悪と直面しつつ迷う。

そしてここで大事なことは、大胆に迷いが神によるものと信じることだ。

66年前に広島、長崎にいた者が被爆しつつ、次世代が同じ目にあわないために声を上げ続けたように、
今この島に住む私たちは被曝しつつも、次世代のために声を上げ続ける。

ヨブが苦しみの中で苦しみから逃げる様々な情報に惑わされつつも神に従う決断をしたように、
私たちも迷いつつ神に従い、迷わないでいい人による力と策たちが悪であることを語り続ける。

法を越えて・・・児玉教授の言葉と関田牧師の言葉

2011年07月30日 | 「生きる」こと
児玉龍彦教授の発言の精密さと重さに心打たれた。
私はとくに下記の発言に勇気付けられた。
児玉先生は言われた。

「緊急に子どもの被曝を減少させるために、新しい法律を制定してください。
私の現在やっていることはすべて法律違反です。
現在の障害防止法では、核施設で扱える放射線量、核種などは決められています。
東大の27のいろいろなセンターを動員して南相馬の支援を行っていますが、
多くの施設はセシウム使用権限など得ていません。車で運搬するのも違反です。
しかしお母さんや先生たちに高線量のものを渡してくるわけにはいきませんから、
今の東大の除染では、
すべてのものをドラム缶に詰めて東京にもって帰ってきています。
受け入れも法律違反、
すべて法律違反です。
このような状態を放置しているのは国会の責任であります。」

法律が人のためでないならば、人は法律を違反し人を守るのだ。

実は関田寛雄牧師が、
日本バプテスト連盟ホームレス支援特別委員会での講演で、
以下のように語られた。

「国の法律ではなんだかんだと決まりがあります。
その法律違反を恐れていては、本当の仕事はできません。
日本社会において、本当に牧会するということ、
人の魂をケアしていくということは、
日本社会の法律の枠の中だけでできると思ったら大間違いです。
ぎりぎりのところでみんな生きているのです。
すれすれのところで生きている。
その法の枠を越えないことには、
その人の存在そのものを見つけることはできません。
だから私は、
国有地に朝鮮人が「不法侵入(あくまでも括弧つき)」して「不法建築」した建物を買い受けました。
だから戸手にすんでいる在日朝鮮人たちの「不法性」を共有しているのです。
彼らと同じように、私も不法なのです。
私はそういうところに何か、宮清めをしたイエス様、
また「安息日は人のためにあるのだ!」
と敢えて言って法律を越えたイエス様の自由に、
つながっていけるような気がします。
国の法律は尊重します。
尊重しますが、
このぎりぎりのところで人間の命を見捨てるような法律ならば、逆らいますよという、
いわば「開き直り」です。
それは本当に、安息日だからといって命の尊さを妨げるようなユダヤ教の当局者の動きに対して、「否!」と言ってこられたイエス様の、あの自由さというものに与れるような気がします。
大いに人権問題に役立つところは一所懸命法律を守りますが、
場合によってはそうではない。
私はそういうことを教会の信徒の方々が了承することが大事と思います。
『国法に反してまで、そんなことをする必要があるのか』というような固定観念を崩して、
国法より何より、
教会は神の国の法律に従うのが一番なのです。
『汝の隣人を愛せよ』という戒めの下で、この人となんとか一緒に生きていく。
そのために国の法律が邪魔になるときは、越えていきましょう、ということが了解できるような教会員となるためには、
教会員自身が、ホームレスや在日の方に具体的にめぐり合って友達になっていけばいいのです。
名前を呼び合う友達になっていくと、これは黙っておれない。
これはこのまま放ってはおけないということになるのです。
放っておけないという思いが、たまたま法律を越えていく、
これでいいのです」。

心熱くして聞いたことを思い起こす。
この講演は
バプ連ホームレス支援特別委員会発行「『ホームレス』と教会」に収録されている。

311以後の道標として「『ホームレス』と教会」(連盟ホームレス支援委員会発行)からの言葉たち

2011年07月26日 | 「生きる」こと
3.11以後の教会とキリスト者の道標としてタイトルの冊子はいいなあと思います。
そこでいくつかその冊子の言葉を紹介します。
これはtwitterで紹介させていただいたものなので140字でテーゼ的に語られたものしか紹介できていません。
もっといろんな方の言葉が冊子には載っているのですが、
文体の特徴なのでしょうか、140字以内で言い切る文体と、もっと字数をかけて語る文体があり、
その前者のみ紹介できました。もちろん後者のものも優れているので、それは冊子にて。

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<本田哲郎神父の言葉>

「貧しく小さくされた仲間たちを通して、必ず神は共に働かれる」。

「選びの理由は、それしかない。一番貧しく小さくされた者です」。

「本当に一番貧しく小さくされた者を通して、神はすべての人の救いのために彼らを選んでいる」。

「ゴミとかほこりとかが集積したような一番の低み。そこから神が共に立ち上がるという、それが神の働きの本質なんだ・・・」。

「貧しいことはよいことだ。小さいことは謙遜の証だということではない。第一、イエスは謙遜の模範を示さなかった。一度もへりくだりは見せてくれなかった。むしろそこからいかにして立ち上がるべきかということを死ぬまでやっていった」。


<関田寛雄牧師の言葉>

「常識というのは必ず強い者の側、多数者の側に立って働く。それをひっくり返していくことには大きな抵抗がある。だけれども、少なくとも私たちが神の国の福音から聞いていることは、常識をひっくり返して、保証されない人の側から、周辺化される人の側からものを考え、それを常識にしていく」。

「福音は常識を否定はしない。ただ新しい常識をも作る」。

「相対評価ではない。比較して評価するものではない。その命はその命として絶対的によしとされている」。

「根元的な神さまの一人ひとりに対する絶対評価が、この社会の常識なっていくための終わりなき闘いを闘い続けていくことが、教会の宣教ではないだろうか」。

「神の愛はまんべんなく注がれる愛、本質的にはそうかもしれません。だけれども、具体的現実的には、この時この人のためにと、愛が集中するわけです。偏った愛なのです。それがキリスト教的常識です」。


<奥田知志牧師の言葉>

「マタイ25章。『いと小さき者』という視座。世界の裁きという大きなスケールのことが、いと小さき者の一人にという最も小さい者を基準として始まる」。「世界の裁きは、最も小さな者の一人にしたことによって決まる」。

「世界はいと小さき者との関係によって決定づけられる」。

「イエスは、このいと小さき者への一つの行為が、実は世界の裁き、世界の救いという事柄に直結していると語っている」。

「宗教が陥っていった大きな罠は、宗教が個人化し精神化していったことだと思う。たとえばオウム真理教は肉体性を捨て去るということを修行の目的としていた・・・」

「現代の教会はややもすると『心』の楽しみにあまんじているのではないか。身体的に現実的な暮らしが望みに満たされることについてどのような展望と責任を持っているだろうか」。

「追われゆく者たち、孤立無縁とされた者たちは、次代の新たなる世界の創造を担う可能性をもった存在なのだ」。

「教会は形骸化した晩餐式(聖餐式)に甘んじるのではなく、罪の引き受けを含む食卓共同体としてあるべきではないか」。


<谷本仰牧師の言葉>

「聖書を読むのは語るためだ。具体的な情況の中で行動し発言するために聖書を読む。知識を蓄えるためでも脳のしわを増やすためでもない」。

「弱肉強食の論理に追いやられて閉じ込められた存在という弱者(ホームレスを襲撃する若者たち)」

「会社で通用することが教会で通用してはたまらない。教会は世の中と全く違うことを言う。つまり福音を語る」。

「日ごとの糧を今日も与えてください、という主の祈り。信じることと祈ることは食べることでもある。だから教会は食べるところでもある」。

「人が人に対して『かまわないでくれ』『あんたに関係ない』という現実に対して、『黙れ』というのが教会の仕事」。

「悪霊というのは、『あんな人たちと私は関係がない』と人に言わせる働きをする者として登場する」。

「からからに乾ききって、言葉も出ないその舌に、イエスが、イエスの言葉を置いてくださる」。

「借り物でいい。借り物の言葉で勝負する。自分の言葉で勝負するうちはクリスチャンでも教会でもない。借り物の言葉、すなわち主イエスの言葉で勝負する」。

「自分のことは自分が一番よく知っている、というのはクリスチャンの言葉ではない。イエス様が自分のことを一番よく知っていてくださるから安心だ、というのがクリスチャンの言葉」。


<私の言葉>

「教会形成はキリストがする」。

「我々のイメージできる範囲を超えたところで何かが起こされていく教会形成を信じ期待する」。

「他者と接触することは危険を呼び込む。接触により疲労も覚える。しかし、その中でしか他者との出会いはなく、共に生きることも起こらない」。

「人と人とが接触する摩擦、緊張、そこからくる不安、恐怖、そして排斥。キリストの体はそれらを包含する。ゆえに安定、安全はない。しかし終末の希望に照らされ、平和の芽がある、と信じる」。

「『古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることである』ならば、私たちの手に入れた安全安定は、所詮古いものとして過ぎ去っていく程度のものであると、私たちは端から理解していいのではないか」。

「そして私たちは新しく神から出るものに期待しながら教会を生きる。すると、教会は安定しない現場に立ち続けることもできる」。

「新しい人がそこに招かれ加わる度に教会は新しく変わる。出会いがある以上、それまでとは変わる。だから常に不安定で常にゆれるのが教会」。

「他者と出会うこととは私が新しく変わること」。

「他者と出会い私が変わるという激震を起こすのが福音。和解の福音」。

「神の赦しにより限界は乗り越えられる。倫理の出発点は罪の赦しである」。「罪を告白しないところにもはや教会は存在しない」。以上ボンヘッファー。「主の癒しに与るために一つの疲労を伴う行動が要求される。それは罪の告白。疲労した教会は罪の告白により生じる疲労を避けるかもしれない。しかしその疲労と、罪を告白せず生きるその後の多大な疲労とを比べるならば、前者の疲労は比較にならないほど軽い」。


肯定されること、愛されること、愛すること、用いられること

2011年07月24日 | 「生きる」こと
自分が肯定されるということは不可欠。でも自分で自分を肯定することは不必要。他者が自分を肯定してくれることが必要。他者が愛してくれることが必要。でも自分で自分を愛することは不必要、つまり自己愛は不必要。自己愛(ナルシズム)は病でもあるわけで・・・。

自分が肯定されるということなしに僕らは(少なくとも僕は)生きていけないなあ。肯定されるためには他者から愛されることが不可欠だけど、そもそも他者との出会いすらないとき、孤独なとき、どうする?。だからやっぱり神が自分を愛しているという事実が人に不可欠な自己肯定を与えるわけだ。

♪君は愛されるため生まれたぁ。のだなあ。これでもって自分を肯定できる。そして存在を肯定されたら即行為が起こされる。それは愛するという行為。君は愛するため生まれたぁ。になるわけだなあ。神に肯定され、神に用いられる。神に愛され、他者を愛する。ここまでひとくくりで自律。これがいいね。

小泉さんが首相だったころ、彼はよくナルシストと言われたけど、ほんとそうだと思う。自分で自分を肯定する人。自分で自分を愛する人。すると、自分で自分を肯定するために自分のイメージをつくりはじめるようだ。そのイメージは多数の人にウケるものにするようだ。

自己愛的な肯定感は、多数の人にウケるイメージを大事にし始めて、中身を問わなくなる。でも多数の人にウケると数の力を得る。人とお金は集まる。で、実は大小問わず商売しているところは、人とお金を集めたいからウケるイメージを求める。でもそれは自己愛的肯定感で病的かも。

むしろ企業の利益追求のための方法論が個人の肯定感確保に用いられているという順序かも。

自己愛的肯定感は自分が護られることが目的となる。商売では儲かることのみが目的となる。そこから何が消えるか。自分が削られること、自分が傷つくこと、自分が他者のために損をかぶること、責任をとること、が消える。つまり、愛することが消える。

東電は、自己愛的肯定感のなかで外側の人を(お客様を)愛することを見事に失っていた企業のよう。ひとつの病。そしてこの病は悪。

キリスト教会をはじめ宗教も、人とお金を集めるために自分で自分を愛して多数にウケるイメージを提供しはじめていることも自己批判しつつ確認したい。宗教が中身を失っている可能性はある。そして宗教が人を愛せなくなっている可能性もある。宗教が社会的弱者にまだまだ無関心という事実がある。

これまたそもそも教会の「集める」伝道で用いた方法が企業に取り入れられた可能性もある。

そういえば奥田牧師はテレビで自己有用感という言葉を用いていたけど、これはつまり神に愛された自己肯定感と、ゆえに他者を愛し他者に頼られるという自己有用感ということかなあ。

つまり、神に愛されたら即他者を愛する、のが人。ということかなあ。

神の言を響かせる楽器たる教会

2011年07月22日 | 「生きる」こと
「すべての武器を楽器に」というフレーズにいまさらながらドキッとする。神の言は武器では表現されない。エフェソ書における「神の武具」は真理と正義と信仰と救い。殺す道具では到底ない。だから武器は持たない。そして、代わりに楽器というのところの意味がふと見えた。

神の言が私に語りかけられている。私はそれを吸音材として吸収して響かせないこともできる。でも言は響かなければ消える。神の言は私を通して響くことを求めている。だから私は楽器を持つ。というか、楽器になる。神の言が広範囲に響くための楽器になる。開放的な楽器になる。

神の言を響かせる楽器としての教会。でもその言は苦難の十字架としてあらわれる。声に出す力を持ち合わせないほどの苦難の言を響かせる楽器とは何か?楽器に通される最初の響きを持ち合わせないほどの言の響きを受けられる楽器とは何か?そういう楽器たる教会とは?

神の言を響かせる楽器たる教会は、しかし言を大音量で響かせることはできない。わずかな響きを受け取り消すことなく響かせる。その響きは一気に広範囲に届かない。隣の人が響き、さらに隣の人が響く。響きが消えないように手渡しで響き合っていく。でもそうやって広範囲に響く。

放射能物質汚染時代に私が救われるということは、神のさばきに生きるということなのだろう。

2011年07月21日 | 「生きる」こと
罪な私ゆえの罪な時代。罪な時代ゆえの罪な私。罪人として罪時代を生きる希望は何?どこ?いつ?誰?

罪時代のさばきと罪人のさばきは、罪時代に罪人として生き抜く希望から恵みとして起こされる。

私の罪としての東電の罪。私の醜さとしての原発村の醜さ。原発利権を壊すことで私は私を壊す。あらゆる利権とたたかうことで私は私とたたかう。そのために私は生き抜く。

原発事故で明らかになる神以外の諸力を退ける神の働きに参与する。神は私を神以外の諸力に参与する者としてさばくとしてもその神の働きに参与する。そこで私は神のさばきに与ることが赦される。さばきを逃れつつ神以外の諸力を退けようと私がするならば、それはサタンでサタンを追い出すにすぎない。

救われることの中にはさばかれることが含まれる。救われるゆえにさばかれ、さばかれるゆえに救われる。十字架のキリストを直視する。キリストの肉は切り裂かれ血はしたたる。十字架の刺さる地面には黒い血が溜まる。さばかれているキリストに私は関係付けられる。キリストが代理する私へのさばき。

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放射能物質汚染時代に私が救われるということは、神のさばきに生きるということなのだろう。

真剣に遊ぶ

2011年07月21日 | 「生きる」こと
使命をなすことも、間違いなく仕事をこなすことも、そもそも生きることも、真剣に遊ぶことなんだろうなあ。まじめに作業をするという感じではなくて・・・。リスクも楽しむというか・・・。

イエスは律法を完成させるために来たとのこと。律法をはじめあらゆる法とか、徳とか精神というものは、目的であって手段ではないのか?で、その場合の手段は・・・遊び!!律法に遊びつつ向かう。

手段が法だとガチガチで非人間的。手段を法にすると利益のために法を利用する。法はもっと尊敬されなければ!法はもっと完全でなければ!法の完全化を目指して、自由に生きる。真剣に自由を生きることこそ遊び。

遊びとしての礼拝の獲得。かしこまった服装と儀式という祭りの側面も大事だが、同時に祭の持つにぎやかに飲み食いして歌い踊り無礼講になるという面が復権することも大事かも。

幼い頃からの記憶に正直になってみる。私の歴史に、心に、何が刻まれているか?家族や友人と遊んだ記憶なんだなあ。飲み食いした記憶なんだなあ。今も心痛める記憶を遊びの記憶が癒す感じというか。キリストとの交わりが心に刻まれるのも同じなんていうと言い過ぎ?

受験勉強とかも、真剣に記憶するよりも、遊びながら、ゲーム的に、あるいはみんなわいわいしながら記憶するほうが、後々まで記憶されていることになったりしない?

遊ぶことで枠を破る。遊びは創造。遊びで言葉の概念を突き破り詩が生まれる。遊びで個々人の領域が破られ新たな関係が結ばれる。眠るのも遊び。目覚めるのも遊び。食べるのもうんちするのも脳や体を鍛えるのも休めるのも遊び。うわあ。たぶんかなり飛躍しすぎてるう。

でも間違ってはいないと思うのでした。

.

「ナンカチガウ」センサーにより自己批判しつつ

2011年06月30日 | 「生きる」こと
さっきテレビで老舗の洋食屋さんが出ていて
そこのマスターがお客さんのためにドアを開け続けている
というステキなおはなしがあったのですが
その行為の理由としてマスターは
「お客様の第一印象をよくするため」
と言われまして

わたしは私の中で働くセンサーが
「ナンカチガウ、ナンカチガウ」
と警告するのに出会うのでした

でもこの映像で
わたしが「ナンカチガウ」と感じるものが
なんであるかを少し確認できたと思いましたので
ここにメモしておきます

それは同時に
牧師という職務のわたしがこのことを考え始めたらおしまい
ということもあるので
それくらい
基本的にキリスト者精神から逸脱しているものであると思うので
自分に対する戒めとして
メモしておきます

またずっと感じていた茂木健一郎さんの毎朝の連続ツイートに対する思い
つまり彼の見出す論や構造に感激しつつ
しかしなぜか「ナンカチガウ」センサーが働いてしまうというものの
理由も多少わかったと思いました

洋食屋さんのマスターの行為は
行為としてはすばらしいです
文句のつけようがないです
そしてこの行為をルーティーンとすることは
生きる本質を獲得し続けることであると思います

そしてまずなにより大事なのは
この手の行為をし続けることであり
行為の動機は二の次であるということだと思います
この手の行為は動機が不純でも
しないよりすべきだと思います

この行為の意味は
「他者が生き生きするために」
ということだろうと思います。

茂木さんのツイートから学ぶことも
「他者が生き生きとするために」行為することが
他者をも自分をも社会をも幸いにする
というものだと思っています

だから
これらの行為は
他者を愛することを動機とするだろうと思います

しかし「ナンカチガウ」センサーが働くのは
動機が愛ではなくて自分の利益となっているからだ
ということに気づきました

繰り返しますが
動機が愛(贈与)であろうと利益確保であろうと
他者が生き生きするための行為をし続けることが第一に大事で
動機は二の次ですが

しかし動機が問われる職務もあり
牧師はそうである
と思うわけです

洋食屋のマスターはそこまでは問われるはずがありません
商売ですから

それを確認しつつ
例として少し見てみるならば
他者が生き生きとするための行為の動機が
マスターの場合は
お客様に好印象を持ってもらうという自己利益になっているわけです


実はこの手の構造で行為と動機が語られることがとても多い時代だと思います

茂木さんのツイートも
他者が生き生きするための行為をすべし!
と書きつつ
しかし動機はそれが自分を賢くし強くし成功へと導き有名にする
というところに行き着いているものが多いので
センサーが働いていたのだと思います

これまた繰り返しますが
茂木さんも個人事業主ですので
商売上現在の資本社会ではそうならざるを得ないわけです

世がそういう世ですから

そして茂木さんのように
みんなが幸せになって平和な世になるために言葉を連ねてくださる方にとっては

有名になって評価されることで
その言葉がひろまり浸透することになるので
他者が生き生きとなるための行為により
自分が成功し有名になる
ということをも目指す必要があろうと思います

ただ彼の「ばか」を語る連続ツイートは
そこの「なんかちがう」度が大きかったので
以前に「無理がある」と私はつぶやいてしまいましたが・・・。

今の時代
いかに自分が利益を獲得できるか
という目的は以前と変わっていません

自分が
高評価をもらうこと
有名になること(現在は有名になることで財閥や国家と対抗できる)
お金も得ること
という目的は以前からと同じです



交換から利益を生む社会構造の末期ということもあり
これまでの手段が通用しなくなっている点もあり
他者が生き生きするための行為をする
というものが手段としてもてはやされる時代なのだと思います

そしてわたしよりひとまわりほど若い世代から下の人が手段としてもっているのは
自分がアホになって人を笑わせるというものだと思います。
さらには
自分で自分をおとしめることで他者が自分よりも上に立つことができるようにする
というものまであると思います。
これが若者全体にいきわたった背景は社会の不景気と不安定だと思います。

こういう世の中ですから
ヘタをすると
牧師のいわば普通の行為が(他者が生き生きするための行為が)もてはやされて
知らずにそれでもってまわりの人が牧師を有名人にする可能性がある時代です
牧師が行き過ぎたカリスマになりやすい時代です

しかし聖書から学ぶのは
他者が生き生きするための行為は
そのときその場で丁寧にされており
どちらかというとそのときその場のことが宣伝になることが避けられるというものだと思います。
「イエスは、『このことは、誰にも知らせてはいけない』と彼らに厳しくお命じになった(マタイ9:30)」。

マスターや茂木さんのような
交換システムの中で利益を得ることで生きる人は
動機不純でも「他者が生き生きするために」行為するのはステキです

でも
主の愛と癒しと和解の循環システムを信じるゆえに
利益獲得交換システムを断念した牧師は
動機が何であるかを丁寧に自己批判し続ける必要があります


そして牧師の動機が不純だと教会がおかしくなると思いますし・・・
「ナンカチガウ」センサーが働いた人が集うのをやめるか・・・
牧師の行き過ぎたカリスマで集う人のセンサーが働かなくなり
わかりにくいカルトになるか・・・

そもそも「他者が生き生きするため」の行為は
戦争遂行のためにも用いられた歴史があり・・・

またこの行為が自己利益を動機とすると
「生き生き」がどんどん安っぽくなると思います
現実かテレビドラマかの区別がつかないくらいに・・・

牧師にとって不景気で不安定な社会は
誘惑も多いということを肝に銘じつつ。。。

関西の高校生にとって東北は遠い?

2011年06月21日 | 「生きる」こと
初めての体験。
ミッションスクールでの礼拝説教中にざわざわが消えなかった。
今朝の同志社高校の礼拝。

これまでに中学高校の礼拝は数十回経験させていただいている。
(50回以上100回未満くらい?正確にはよくわからない・・・)

これまでは礼拝開始前から説教の開始時までざわざわしていても
説教が始まって少し経てば生徒さんたちはだいたい目を見開いて聞いてくれていた。
どちらかというと面白いほどに程よい緊張感と集中度の高い静けさだった。

こちらも生徒さんたちが集中して聞いてくれるための内容と話法を準備している。
(一応プロですし・・・本気でこの世代に大切な事柄を伝えたいですし・・・)

そして今朝もいつもと同じだけの準備はしていった。

けれど

ざわざわ。。。

うーん。

内容が甘かったか?
しかし、教員の目が真剣だったことや、感銘を受けて涙を流されている教員もおられたし・・・。

話法が甘かったか?
なんどか空気をつかむための業を出してみたものの・・・
これまではそれでシーンとなったものの・・・

ならばこれまでとの違いは何か?

それがひとつだけある。
物語の現場がこれまでと違った。

これまでは、
わたしがかかわったホームレス当事者との物語や、
困難を抱える中高生との物語や
自分の中高生時代の物語を語ってきたわけだが、

今回は
津波被災地で出会った方との物語を語った。

これまでは物語にどんどん生徒さんたちが入ってくる感じだったが、
今朝はなかなか入ってきてくれなかった。
(無論入ってきた生徒さんも少数ですがおられました。
 だからその方たちの目を見て話させていただきました。)

たぶん物語の現場の違いが要因では?。

みっつのことを考えています。

1)距離の問題
被災地から遠い関西の高校生は
その距離ゆえに、
被災地の物語に共鳴できるものを持ちえていない。

2)経験の問題
被災の規模が大きすぎるゆえに、
人生経験の浅い高校生は、
被災地の物語に共鳴できるものを持ちえていない。

3)共鳴しすぎるゆえの問題
感受性豊かな高校生ゆえに
私以上に被災地の物語に共鳴できるが、
この三ヶ月間あらゆるところで(多くはメディアで)、共鳴し、
それゆえに痛み苦しみ続けたゆえに
逆に無意識かもしれないが、共鳴しないような策を働かせている。


うーん。

いずれにしても
関西の高校生にとっては、
今は、東北はまだ遠いということは言えるのだろうと思った。

新しいテーマ。
彼らが東北に密着できることをこれからは目指すこととなった。

しかしまいったあ。

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その後もう少し考えてみた。

よっつほど考えてみた。

1)物語の詰めが甘かった可能性があること。
物語の土地が京都市内など追体験の楽な場所ではなく、
津波ですべてが消えたという土地であるゆえに、
その土地の感触を伝え切れていないかもしれないこと。
これだけは実際に足を踏み入れたかどうかで決定的に違ってしまうので、
踏み入れた者が踏み入れていない人が多いところで語る場合は、
踏み入れていない人の感触に戻る作業が必要であり、
それが甘かったかもしれない。

2)私が被災地での出会いで苦難を背負っていること
京都にいても町が壊れていないことが不思議になることがあるほどに、
被災地の経験は私の心身に影響を与えている。
それゆえに、私が物語るときに無意識に制限をかけている可能性があること

3)集団心理
部活の大会が終わったばかりという時期とかいろいろなことで、
気分的にざわざわしているものが集団心理になっていることと、
単純に音響的にマイクボリュームが多少小さかったことが
重なったことによるだけかも。

4)関西から東北は遠い
高校生だけでなく、関西に住むわたしにとっても、
被災地に何度入ったとしても、
東北は決して近くなっていない状況が続いていると言えること。
となると、
ゼロから考え直す必要がある。。。
語り手も聞き手も遠いけれども近く感じるという中での物語りとは?

たとえば語り手だけが遠いけれども近いという状況で、
聞き手は遠いというばあいは、
中村哲さんからアフガンの話を聞くとすごいけど
数回見学に行ったことのある人からきいてもそれほどでもない、
というあの感じになる

そこにさらに聞き手も遠いけど近いとなると
どういう感じになるのかという想像をしっかりしてみる必要あり。

原発と憲法9条

2011年06月20日 | 「生きる」こと
日本バプテスト連盟憲法改悪を許さない私たちの共同アクションのニュースレター用のものです。

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原発と憲法9条
日本バプテスト京都教会 牧師 大谷心基


1) 犠牲の循環を断ち切る

 日本バプテスト連盟は2002年の第49回定期総会にて「平和に関する信仰的宣言」を採択した。この宣言は十戒を解釈しつつ告白されている。その解釈を支える通奏低音には、神を神とすることにおいて他者の犠牲の上に立つ命と生活から解放される道を歩むべく戒めを生きるというものがあると私は思わされている。(さらに神を神とすることはキリストに従うこととして告白されている)。
 しかし私たちの国は、現在の繁栄は67年前までの戦争において命を失った兵士たちの犠牲の上に成り立っていることを語る。このとき「犠牲」は誇らしい行為とされ「犠牲者」は英霊とされる。ここからわかることは、私たちは今もってなお、私たちの繁栄と存続、安定と安全のためには、他者の犠牲が必要であり、犠牲者は英雄であるという世界に生きているということだ。
 ところが敗戦直後はその限りではなかった。私たちは憲法9条を持つに至ったのだ。それは戦争と軍備の放棄を宣言するものである。私たちは、67年前までに繁栄と存続、安定と安全のために隣国の人々を2千万人殺し、自国の人々が3百万人死ぬという中で、犠牲が何も生み出さないことを実体験として知ったのだ。それは複雑な論にて導き出されるのみではなく、私たちの神経と皮膚とが他者の犠牲が無意味であることを痛みつつ知ったのだ。憲法9条は、犠牲の循環を断ち切るための法である。
 しかし戦後も犠牲の循環は続く。地球規模の世界システムがさらに強固に犠牲の循環によって成り立つものとなっている。そして連盟の各特別委員会の働きは大枠で言うならば、この犠牲の循環を暴き、それを、神を神とすることにおいて、またキリストに従うことにおいて断ち切るための宣教活動に他ならない。従って私たちは、靖国神社問題特別委員会、公害問題特別委員会、日韓在日連帯特別委員会、問題特別委員会、「障害」者と教会委員会、ホームレス支援特別委員会、性差別問題特別委員会にてこれまでに生み出されたことばから繰り返し学びたく願う。
 3月11日の地震と津波により福島原発が大事故を起こした。放射能物質が飛び散った。どれだけの量がどこに飛び散ったのかを私たちは恐らく今もって正確に知ることができていない。311以後の情報隠蔽・操作などによる情報に対する不信や、これまでの生活環境をすべて失いかねない恐ろしい情報の扱い方とそれへの従い方という思想の困難さが、正しい情報を見分けることを阻む。本能が阻んでいる状態であると言えるかも知れない。そしてこの状態は、実は私たちが今犠牲を強いられているということではなかろうか。
 私たちは、私たちの生活の繁栄と安定のために「安全」と言われる原発を採用してきた。しかし原発は一部地域に犠牲を強い続けている。原発の維持のために、現場で働く下請け会社の作業員たちは被曝する犠牲を強いられ続けた。原発の立つ地域は都市部の繁栄のために危険な施設を抱える犠牲を強いられ続けてきた。
 同時に原発は情報の不平等において人々に犠牲を強い続けている。原発で莫大な利益を得る者たちは情報を隠蔽、操作することで、この国の全ての人に犠牲を強いてきた。
 また原発事故による犠牲は十年後頃から明確となる。これは精神的な犠牲と同じく後々疾患として現われる。しかし時間のずれが生じる場合、犠牲の結果が不明確な時期にはますます犠牲を強いられ続けるということが起こる。時間的ずれによる犠牲は想像以上に大きいものとなるだろう。
 そして何よりも生活の繁栄と安定の中で原発による犠牲の循環を問い切れなかった私たちが、私たちに犠牲を強いてきたと言っても過言ではない。私たちは今その只中にある。
 敗戦時に犠牲の循環を憲法9条にて断ち切る決意をした私たちは、平和に関する信仰的宣言などで繰り返しその決意を新たにしたが、しかし原発事故を受け、今改めてこの循環を断ち切る覚悟を決める必要がある。すべての犠牲は主イエスが十字架で引き受けられている。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と主が叫ばれつつ、主ご自身で犠牲の循環が止まり、主から逆の循環が始まることを知らせてくださる。私たちはこの主に従う。


2) 和解と癒しの循環をつくる

 犠牲の循環を止められる主に従う私たちは、主と共に逆の循環を具体的に創っていきたい。それは誰かに犠牲を強いる戦争と軍備の放棄を覚悟を決めて訴え続けることであり、同じく原発の放棄を訴え続けることである。さらには連盟の特別委員会がすでに出会っている犠牲を強いられている他者たちの隣人となり、愛し、そして犠牲を強いた者として罪責告白することである。さらに、彼(女)らと共に歩み、共にたたかい、その彼(女)らのために祈り、彼(女)らを覚えて礼拝をささげることである。
また自らが強いられている犠牲をも発見するだろう。そしてその際は、犠牲を強いてきた「敵を愛する」ことが主から提示される。またとりわけ原発の場合、その敵の一人目が自分自身である可能性も強い。
 しかしこれらのことを具体的に行うことは単純ではない。人にとって人のわかる範囲での繁栄と存続、安定と安全からはずれる道を歩むことは本能的に困難なことなのだ。他者に犠牲を強いない歩みは人としては不可能と言わざるをえない事柄に違いない。つまり私たちは罪人でしかないのである。
 しかし、罪人として私たちは犠牲の循環とは逆の循環を歩まねばならない。それを私は和解と癒しの循環と呼びたい。そして日本バプテスト連盟は中長期計画においてこちらの循環を歩む決意をしていると考えている。
 さらにこの歩みの際に、私は連盟中長期計画と同様に「平和に関する信仰的宣言」の結語を指標としたい。私たちは終末の主の希望を頂きつつ、主の赦しのみではなく主の審きをも頂く中で歩むことを、311以後の今だからこそ繰り返し祈りつつ覚えたい。また牧師としては、結語に描かれる内容を日々の具体的生活の物語として語ることを惜しみたくないと願う。


3) 付記・原発自体が軍備である可能性

 原発と憲法9条の関係で言うならば、原発がそもそも軍備の一環であるという可能性があることを付記したく願う。例えばつい先日まで北朝鮮の原発開発は核兵器開発であると他の国々が結論付けていたことを思い起こすならば、そのことがそのまま原発を持つこの国に当てはまらないとは全く言えない。また広島と長崎の原爆被害を経験したこの国が10年も経たずに原発のための予算を導入した背景に、アメリカの核戦略が絡んでいる可能性は否定できない。確かに原発から生まれるプルトニウムの種類が核兵器に用いるものとは異なるという議論もあるが、しかし劣化ウラン弾など核兵器の種類も増える中で、その議論がどこまで的を得るかは疑わしい。
 少なくとも、原発と戦争兵器とは明確に切り離せないことを覚えておく必要がある。
 

4)さいごに

 日本バプテスト連盟に加盟する諸教会・伝道所は、福島県で原発事故の恐怖と不安の只中で十字架の主ゆえに宣教を担い続け、地域の人たちを祈り支えておられる、福島旭町キリスト教会、郡山コスモス通りキリスト教会、あゆみの家キリスト教会のみなさまと牧師を覚えて、日々祈ってまいりたい。

スピリチュアル・ケアについて少し考えてみた。

2011年06月14日 | 「生きる」こと
現在私は医療団体の責任を担わせていただいている。
そして今医療に求められているのはスピリチュアル・ケアであると認識する。

スピリチュアル・ケアとは、
人のあらゆる力と技能を超えたところの、
人が苦痛にあるときほど確実に覚える超越的、統合的な何者かをも含めて
苦痛にある方々をケアすることである。

それは同時に、
苦痛からの解放を身体のひとつの器官の回復のみに見出すのではなく、
体、心、魂という全人領域において見出すというものである。
またさらに、
家族や友人、医者などの医療スタッフとの関係性、
生きてきた歴史、環境、背景、共同体という領域全体からをも見出すものであると、
私は思う。

私はキリスト教精神に基づく医療団体の立場から考えるため、
スピリチュアル・ケアとは聖霊によるケアであると考える。

人の体、心、魂、共同体性、関係性、歴史性のすべてを超えて
そのすべてをつなげて一つとするのが聖霊の働きである。
さらに一つとする際に、
聖霊はその人のそれまでの人生にはなかった領域との出会いを起こし、
その出会いによりその人自身も一つとなるという仕方で、その人を導く。

使徒言行録2章のペンテコステの記事によるならば、
聖霊は突風として、炎の舌として、
人に接する、いや、強い衝撃をもってぶつかってくる。

そこでまず知ることは、
聖霊は人にとって決して心地よいものではないということ。
むしろ腑に落ちず、混乱を招くものでもあるということ。
つまり聖霊による業は、癒しの業をも含めて
人の思惑どおりにはいかないということ。

そしてスピリチュアル・ケアは、
この人の思惑どおりにはいかない着地点を目指すケアである。

ちょっと頭がこんがらがるところであるので、少し整理してみたい。

現代における癒しの業は、
大雑把に分けると二つある。

ひとつは、医学的に、科学的合理的に、人が予定するところの治癒を目指すものである。
もうひとつは、同じく人が予定するところの治癒を目指すが、その方法は、超越的、精神的なものであり、カルトと捉えられるものまである、というものである。

そして後者がスピリチュアル・ケアと言われる場合があるかもしれない。
(この手の本が書店に積まれるようになって久しい)。
しかし私は否と言う。
その理由は、結果が人の予定しているものだからである。
手段が科学的であれ非科学的であれ、人の予定した結果を求める場合、
それは聖霊による結果を求めることに初めから抗うものであり、
スピリチュアル・ケアではない。

スピリチュアル・ケアは、
予定した結果が得られたら癒された!という範疇を超えている。
そもそも予定せず、聖霊の導きを祈る。
しかも予想した結果とも異なるかたちで、
つまり人にはわけのわからないかたちで、
人が癒されるという結果が知らされることを目指す。
無論非科学的手法によるケアではない。
手法は科学的である。
結果が人の思惑を超えているものを求めるのである。

聖霊に吹かれてたどり着いた着地点が癒しの場である。


さて、スピリチュアル・ケアに際して、
私たちが聖書の言に生きる姿勢が問われていることを私は訴えたい。

現在の教会も聖書の言をいただくというときに、不幸な歴史から逃れることができない。
それはいわゆる聖書の読み方である。
歴史批評的に読むのか、逐語霊感的に読むのか、ということである。
この聖書の読み方の違いは、
多くの分裂を生み、
また経済社会や国家までを巻き込む思想をつくり、
戦争の要因にもなっている。

歴史批評的に聖書を読むということは、科学的合理的に読むということである。
そして人が予定できる道筋にて結果(メッセージ内容)を知るに至る。
逐語霊感的に聖書を読むということは、感情的、原理的に読むということである。
しかしそれよりも、
多数がその方法を知ることのできない科学的合理的方法よりも、
多数がめいめいの仕方で納得できる感情や原理を選び取った読み方と考えるほうが合理的と思われる。

しかし、上記の二つの方法は
いずれも聖書の言から予定可能な結果を導き出すことで共通している。
さらにいうならば
手段が科学的か非科学的かの違いはあれ、結果は予定できるものであるという共通点を持つ。

現代の癒しの業において起こっていることと同じことが、
聖書の読み方においても起こっているのではないか。

たとえば逐語霊感説は、
聖書は聖霊によって書かれたものだから誤りがない、
と結論付けるが、
私は、
聖書が聖霊によって書かれているとしても、人によって書かれているとしても、
(私はこのふたつを分ける議論に意味を見ないが)、
今、ここで、わたしたちが、
聖霊によって聖書を読むことが大事であると信じている。

そのときに起こることは、
予定どおりの結果(メッセージ)が導き出されるのではなく、
例えば同じ聖書箇所でも、読む時間と場所が異なれば、
全く異なる結果が生まれるということである。

その結果は驚くしかないものである。
私たちの感覚、感情、思考、思想、信条などを超えて
私たちの知る論理を超えて
私たちに突風としてぶつかってくるかたちで
その結果はやってくる。

そしてこのときに、聖霊により、聖書の言は受肉する。

聖書の読み方に関することは
実はボンヘッファーが言っていることである。


そして同じように
スピリチュアル・ケアにおける癒しも
聖霊により受肉する。

スピリチュアル・ケアについて
少し考えてみた。

本性に抵抗するロゴスに従う

2011年05月23日 | 「生きる」こと
我が家のトイレに積み上げられているたくさんの本たちの中から
今朝はなんとなく1年前の雑誌を手に取る。
「atプラス」の03号。
読了していたつもりだったが、目次の前にある巻頭エッセイをどうも読んでいなかったよう。
これが面白い。
岡崎乾二郎さんによるもの。
その冒頭部分を紹介。

ただ岡崎さんはマルクスから学んで書かれておられるゆえ、
紹介の後、聖書から学ぶ私は、少し言い換えをすることをお許しいただきたい。

しかし、大切な構造を教えてくれるとても優れた文章と思う。

***************
普遍的に考えようとするならば人間は頼りにならない。
忘却と変節こそ人間の性は本質としているからである。
ゆえに人は理論を必要とする。
人の身体のご都合主義に侵されることなく、
自分の判断そして行動を律するために。
であるならば、
この理論は人間に依拠するわけにはいかない。
すなわち理論は人間がそのフニャフニャ、ひねもすのたりくたりするだけの頭から捻り出したようなものであってはならない。
人間に対して、理論とは抵抗すなわち物質である。
抵抗のために理論があるのではなく、
理論それ自体が人間によって消去も除去も、
当然否定することもできない抵抗物であるということだ。
ゆえに理論的に考える、とは人間が考えるのではなく、
抵抗(が要請する理論)それ自体が考えるというべきである。
*****************


私はここで用いられている理論を、
ヨハネ福音書から特に知る「ロゴス」に言い換えたい
ロゴスは人間の本性に対する抵抗として啓示される。
そのロゴスで私たちはご都合主義から解放され、主に従う。
だから信仰者が繰り返し注意しているのは、
自分でひねり出すのではなく、み言葉から戒められるかたちで、
ロゴスをいただくということ。

ロゴスは私自身への神の抵抗であるということ。
十字架における抵抗であるということ。
さらに死に抵抗する復活であり、
絶望に抵抗する希望であるということ。

さらにさらに
破壊に抵抗する再創造である!

しかしそのときに
私たちは自分でひねり出すのではなく
み言葉に戒められつつ、与えられる。

そのときに起こされるのは、
ご都合主義での判断ではなく、
十字架を背負う抵抗なる行動。


戦争前夜に
しかし人は自らの本性に従った。
ロゴスが抵抗してくることを拒んだ。
前夜であることを認めなかった。
戦争がはじまった。

放射線による甚大な被害が出る前夜である今
人は何に従うのか。

津波による破壊と絶望の中
人は何に従うのか。

自らの本性か
本性に抵抗するロゴスか