Rainy or Shiny 横濱ラジオ亭日乗

モダンジャズ、ボーカルを流しています。営業日水木金土祝の13時〜19時
横浜市中区麦田町1-5

梅雨明ける

2013-07-07 16:40:01 | 
しばらく前(1986年野草社刊行・新泉社発売)にでた詩人山尾三省の「野の道 宮澤賢治随想」を読み終えた一昨日の夜半ごろ、今年の梅雨は明けたようである。山尾三省は2001年に九州の屋久島で癌を患って亡くなっている。屋久島では24年間農耕と瞑想的生活を重ねていたらしい。享年63歳とある。

いつだったか一度だけ国分寺の本多という所に住んでいた山尾三省の貸家だったかアパートだったか、記憶がさだかではないが、そこを都下のひばりが丘に住んでいた友人のN君と訪問して雑談を交わしたことがあった。彼が浅草付近の英語塾で講師をしながら生活の糧としていた時分のことだ。たしか1967年前後だったと思う。まだ生後間もない男の子をあやしていた。その赤ちゃんの名前はたしか「太郎」という直裁な名前だったのでよく覚えている。そこでの雑談もぼかし絵みたいに曖昧な記憶の彼方に埋没してしまったが、たしか八ヶ岳の麓を開墾してヒッピー版の武者小路風「新しき村」みたいなコンミューン運動へ参加しないか?という誘いの話だった。彼の命名による「部族」というものだった。小屋を作ったり便所なども露天掘りするという野生的荒仕事の概要計画を聞いていて、これは自分には不向きだと思った。

親との同居が嫌でたまらない。横浜の弘明寺・大岡町在に安い下宿を借りて茫洋とした青春期を浮遊していた最中の出来事である。生活費は自力で確保するというバイト生活による労苦も始まったばかり。下宿の老夫婦がわけてくれる当時としても珍しい山羊の搾りたての濃厚このうえないミルクには、慢性栄養失調者として随分と助けられたものだ。八ヶ岳まで行く当面の路銀の捻出も不可能だ。そして往時の50数キロという痩躯では体力にも不安があって、結局山尾三省の勧誘には乗れないことでその話は立ち消えとなった。そのとき同行していたN君も後年の風の噂によると都会暮らしからドロップアウトして信州の僻村で木工職人となっているようだ。そして自分は数年の勤め人生活をしてからその後は都会の藻屑のような自営業生活に終始して後半生の座礁風生活へと連なっている。

山尾三省はインド・ネパールなどの聖地を巡礼後、トカラ列島にある諏訪之瀬島在住を経て屋久島が終の棲家となった様子である。この本は偶然古本屋で見つけたものだ。青春の一こまに偶然出会ったその後の山尾三省について、その立ち位置程度の知識はやはり風の噂で知っていた。しかしその著作については初めての読書になる。賢治の自然思想への共鳴や思慕を語る隙間にさりげなく描写する屋久島の「野の道」の風景が素晴らしい。ちょうど梅雨から真夏にかけての季節には屋久島の至る所で「クチナシ」が咲き誇るようだ。山尾三省は「玄米四合」という章の中で「クチナシ」を讃えている。

「…クチナシの花の白さというものはただの純白というものではない。それは見れば見るほど異様なまでの白さで、花びらの確かな質感といい、高い観音様が私たちの貧しく悲しみの多い生活にさずけられた、慈悲の白光であるかと思わずにはいられない。その高く甘い香りは昼も夜も家の中にまで流れこみ、この季節が水の底に住む季節であるとともに、クチナシの花の季節であることを知らせてくれる。…」P177

相当前から高度消費社会からの意識的脱落を選択して「人間界の代表として自然へ懺悔する(吉本隆明の親鸞論に登場するフレーズ)」賢治などと共通したポジションを担保したいかにも山尾三省らしい含蓄と哀感を含んだ言葉である。

梅雨が明けた翌日はすでに猛暑が到来している。エアコンに逃げない。蚊取り線香を焚いてまどを開け放つ。自炊昼食の冷やし中華を食することにして、しばし遠くにある屋久島を想像することで山尾三省を偲ぶ時間とする。

ひさしぶりの高級おやつ

2013-07-05 21:58:02 | 
ドクター桜井さんが座間の部屋のジャズサウンドを聞かせてほしいということで、先週の週末にやってきた。そのときの手土産が赤坂「とらや」の最中だった。「とらや」といえば羊羹も最中も伝統の高級品で通っている。氏が伊勢原へ遊びに来た時は小田急電鉄の子会社が経営している「HOKUOU」というパン店で売っている特製ラスクのお土産が定番だった。それも美味いもので参集した皆さんのおやつとしてはいつも好評だった。佐々木トーシロさんが持参してくる自宅に近い横浜駅界隈デパ地下名物として名高い「ござ候」の今川焼と双璧の我が家における人気おやつである。しかし今回のお土産はなんだか高級すぎて恐縮してしまう。「とらや」の羊羹も葛きりも最中も都内を離れてからは、しばらく口にする機会がなかった。有り難く頂戴してその練成した餡子のアートを堪能させてもらうことにする。

一人で全てというわけにも行かないから、友人諸氏へ少しづつお裾分けする前に色違いの味を楽しんでみた。茶色の生地が小豆粒入り餡、ピンク生地が白餡、しろ生地がコシ餡である。さすがに各々の味は優劣がつけ辛いくらいに濃厚で丁寧に練りこんだ豊かな餡の味がする。自分の嗜好では「梅ケ香」という名前のついた白生地最中が好きである。今週にかけて在宅時のおやつは一日おきのペースでこの最中を一個づつ煎茶の友とすることができた。無論、最中を乗せる小皿の質感にも気を使う。ある日は美濃地方のプロの手になった織部の角皿、次の日は唐津のアマチュア陶芸家の板皿、そして翌日は金沢・大桶焼の中村長阿弥作飴釉菓子皿等を持ち出す。皿を意識するようなレベルを持ったお菓子が登場したせいか、沈静気味だった陶磁器漁色衝動が湧き上がったような気がしている。

国立 吉祥寺 青梅駆け巡り

2013-07-03 10:04:50 | その他
梅雨入りして既に一月が経過した。しとしとと降ったり止んだりの天候が続くのかと思えば、今年の梅雨は陽性で降る時はまとめて豪雨をもたらすタイプのようである。今日も夏空が広がっている。団地の所々に植えられた背丈のある夏芙蓉のピンクの大輪と背後の青空はいつもながらのよいコントラストだ。植えつけたばかりの西洋朝顔は添え木の棒に早くも蔓を巻きつけ始めている。ただしこの二週間の空模様はどうも空梅雨で終わるのかもしれない。おきまりの水不足が心配だ。二日間の連休は座間を脱出して気分転換を図ることにした。メダカの餌やり、庭の乾燥が心配なので、直植え野菜、ポットの植木類が乾かないようしっかりと水を補給してから多摩地方へのエスケープ行となる。

国立・富士見にある「大根の花」の刺身ランチをスタートに西国分寺、吉祥寺、青梅付近の7月らしい空気を吸い込むことにする。クルマ、電車、歩行などをミックスして馴染みのある小路を辿る気分だけは40代散策のつもりで廻る。吉祥寺等の町場では雑貨、衣料品、古書、その他を冷やかしながら休憩はお気に入りカフェを厳選する。そうしたビヘイビアは数十年来全く変化することがない。吉祥寺では1個140円のメンチカツを買う為に「旧伊勢丹」の方まで長蛇の列ができている。馬鹿馬鹿しい光景だが、その近くを歩いていたら、亡くなった地元の「サムタイム」や「ファンキー」を経営していた野口伊織さんの弟さんとばったりと出会う。兄貴はすばらしく華がある人だったが、弟さんはいつも影役に徹していて久しぶりに出会っても尊大や横柄とは遠い温和な人である。吉祥寺の街で10数軒の飲食ファミリイを担っているから、定時巡回している様子らしい。

これも縁の一つと思って「サムタイム」でしばらく涼をとることにする。「サムタイム」は平日・午後の半端タイムだ。ジャズのBGMが流れているだけの喫茶時間である。逆さに吊るした古いJBLのランサー101からダイナ・ワシントンみたいなアクセントの節回しが強く甲高い50年代中期風の黒人ボイスの歌が小音量に漂ってくる。「サムタイム」でこういうものがかかるのはやはり絵になる。総合的老舗力が作用しているのだな!と妙な感心をしてしまう。

町中にあるドラッグストアにも寄る。そこで皮膚の痒み防止薬も買い置きする。「ブックオフ」にも寄って在庫があった民俗書「金枝篇」で有名なフレイザーの「サイキス・タスク(俗信と社会制度)」岩波文庫、軽量で助かる永井荷風「断腸亭日乗」上巻(岩波文庫)なども抜き取って購入する。

用も涼も足りてからは青梅街道を西へ向かう。休日の癒し良薬としてふさわしい青梅市の山あいにある「コンブリオ」と青梅駅付近の旧市街散歩が目的である。瑞穂町、岩蔵街道と一般ルートの青梅街道から外れた田園地帯を横目で眺めるコースは最良だ。小曾木にある「コンブリオ」はお茶類は勿論、器具、庭木、花、オブジェ、内装木材の全てが水準を超えた田舎の一軒家カフェでその佇まいは出色だ。


石造製の天使が群れる背面の庭ではちょうど百合が綻び始めている。真紅の「なでしこ」も素晴らしい。付近の小曾木川沿いにある雑木林では「合歓」の木が微妙な花をまどろんだ風情で咲かせている。冬場に訪問して以来の「コンブリオ」だが、青梅らしい7月の濃い樹木の精に囲まれて、深煎り焙煎コーヒーを啜る時間はやはり至福の一つだと思う。