しばらく前(1986年野草社刊行・新泉社発売)にでた詩人山尾三省の「野の道 宮澤賢治随想」を読み終えた一昨日の夜半ごろ、今年の梅雨は明けたようである。山尾三省は2001年に九州の屋久島で癌を患って亡くなっている。屋久島では24年間農耕と瞑想的生活を重ねていたらしい。享年63歳とある。
いつだったか一度だけ国分寺の本多という所に住んでいた山尾三省の貸家だったかアパートだったか、記憶がさだかではないが、そこを都下のひばりが丘に住んでいた友人のN君と訪問して雑談を交わしたことがあった。彼が浅草付近の英語塾で講師をしながら生活の糧としていた時分のことだ。たしか1967年前後だったと思う。まだ生後間もない男の子をあやしていた。その赤ちゃんの名前はたしか「太郎」という直裁な名前だったのでよく覚えている。そこでの雑談もぼかし絵みたいに曖昧な記憶の彼方に埋没してしまったが、たしか八ヶ岳の麓を開墾してヒッピー版の武者小路風「新しき村」みたいなコンミューン運動へ参加しないか?という誘いの話だった。彼の命名による「部族」というものだった。小屋を作ったり便所なども露天掘りするという野生的荒仕事の概要計画を聞いていて、これは自分には不向きだと思った。
親との同居が嫌でたまらない。横浜の弘明寺・大岡町在に安い下宿を借りて茫洋とした青春期を浮遊していた最中の出来事である。生活費は自力で確保するというバイト生活による労苦も始まったばかり。下宿の老夫婦がわけてくれる当時としても珍しい山羊の搾りたての濃厚このうえないミルクには、慢性栄養失調者として随分と助けられたものだ。八ヶ岳まで行く当面の路銀の捻出も不可能だ。そして往時の50数キロという痩躯では体力にも不安があって、結局山尾三省の勧誘には乗れないことでその話は立ち消えとなった。そのとき同行していたN君も後年の風の噂によると都会暮らしからドロップアウトして信州の僻村で木工職人となっているようだ。そして自分は数年の勤め人生活をしてからその後は都会の藻屑のような自営業生活に終始して後半生の座礁風生活へと連なっている。
山尾三省はインド・ネパールなどの聖地を巡礼後、トカラ列島にある諏訪之瀬島在住を経て屋久島が終の棲家となった様子である。この本は偶然古本屋で見つけたものだ。青春の一こまに偶然出会ったその後の山尾三省について、その立ち位置程度の知識はやはり風の噂で知っていた。しかしその著作については初めての読書になる。賢治の自然思想への共鳴や思慕を語る隙間にさりげなく描写する屋久島の「野の道」の風景が素晴らしい。ちょうど梅雨から真夏にかけての季節には屋久島の至る所で「クチナシ」が咲き誇るようだ。山尾三省は「玄米四合」という章の中で「クチナシ」を讃えている。
「…クチナシの花の白さというものはただの純白というものではない。それは見れば見るほど異様なまでの白さで、花びらの確かな質感といい、高い観音様が私たちの貧しく悲しみの多い生活にさずけられた、慈悲の白光であるかと思わずにはいられない。その高く甘い香りは昼も夜も家の中にまで流れこみ、この季節が水の底に住む季節であるとともに、クチナシの花の季節であることを知らせてくれる。…」P177
相当前から高度消費社会からの意識的脱落を選択して「人間界の代表として自然へ懺悔する(吉本隆明の親鸞論に登場するフレーズ)」賢治などと共通したポジションを担保したいかにも山尾三省らしい含蓄と哀感を含んだ言葉である。
梅雨が明けた翌日はすでに猛暑が到来している。エアコンに逃げない。蚊取り線香を焚いてまどを開け放つ。自炊昼食の冷やし中華を食することにして、しばし遠くにある屋久島を想像することで山尾三省を偲ぶ時間とする。
いつだったか一度だけ国分寺の本多という所に住んでいた山尾三省の貸家だったかアパートだったか、記憶がさだかではないが、そこを都下のひばりが丘に住んでいた友人のN君と訪問して雑談を交わしたことがあった。彼が浅草付近の英語塾で講師をしながら生活の糧としていた時分のことだ。たしか1967年前後だったと思う。まだ生後間もない男の子をあやしていた。その赤ちゃんの名前はたしか「太郎」という直裁な名前だったのでよく覚えている。そこでの雑談もぼかし絵みたいに曖昧な記憶の彼方に埋没してしまったが、たしか八ヶ岳の麓を開墾してヒッピー版の武者小路風「新しき村」みたいなコンミューン運動へ参加しないか?という誘いの話だった。彼の命名による「部族」というものだった。小屋を作ったり便所なども露天掘りするという野生的荒仕事の概要計画を聞いていて、これは自分には不向きだと思った。
親との同居が嫌でたまらない。横浜の弘明寺・大岡町在に安い下宿を借りて茫洋とした青春期を浮遊していた最中の出来事である。生活費は自力で確保するというバイト生活による労苦も始まったばかり。下宿の老夫婦がわけてくれる当時としても珍しい山羊の搾りたての濃厚このうえないミルクには、慢性栄養失調者として随分と助けられたものだ。八ヶ岳まで行く当面の路銀の捻出も不可能だ。そして往時の50数キロという痩躯では体力にも不安があって、結局山尾三省の勧誘には乗れないことでその話は立ち消えとなった。そのとき同行していたN君も後年の風の噂によると都会暮らしからドロップアウトして信州の僻村で木工職人となっているようだ。そして自分は数年の勤め人生活をしてからその後は都会の藻屑のような自営業生活に終始して後半生の座礁風生活へと連なっている。
山尾三省はインド・ネパールなどの聖地を巡礼後、トカラ列島にある諏訪之瀬島在住を経て屋久島が終の棲家となった様子である。この本は偶然古本屋で見つけたものだ。青春の一こまに偶然出会ったその後の山尾三省について、その立ち位置程度の知識はやはり風の噂で知っていた。しかしその著作については初めての読書になる。賢治の自然思想への共鳴や思慕を語る隙間にさりげなく描写する屋久島の「野の道」の風景が素晴らしい。ちょうど梅雨から真夏にかけての季節には屋久島の至る所で「クチナシ」が咲き誇るようだ。山尾三省は「玄米四合」という章の中で「クチナシ」を讃えている。
「…クチナシの花の白さというものはただの純白というものではない。それは見れば見るほど異様なまでの白さで、花びらの確かな質感といい、高い観音様が私たちの貧しく悲しみの多い生活にさずけられた、慈悲の白光であるかと思わずにはいられない。その高く甘い香りは昼も夜も家の中にまで流れこみ、この季節が水の底に住む季節であるとともに、クチナシの花の季節であることを知らせてくれる。…」P177
相当前から高度消費社会からの意識的脱落を選択して「人間界の代表として自然へ懺悔する(吉本隆明の親鸞論に登場するフレーズ)」賢治などと共通したポジションを担保したいかにも山尾三省らしい含蓄と哀感を含んだ言葉である。
梅雨が明けた翌日はすでに猛暑が到来している。エアコンに逃げない。蚊取り線香を焚いてまどを開け放つ。自炊昼食の冷やし中華を食することにして、しばし遠くにある屋久島を想像することで山尾三省を偲ぶ時間とする。