Rainy or Shiny 横濱ラジオ亭日乗

モダンジャズ、ボーカルを流しています。営業日水木金土祝の13時〜19時
横浜市中区麦田町1-5

嬉しいいただきもの

2013-01-16 13:39:42 | その他

初雪騒動の二日間だった。相模川を挟んでこうも気候帯がちがうのか?東に位置する海老名、座間、相模原付近の積雪はけっこうなものだった。夕刻には路肩や坂道で立ち往生した車が、そのままになっている。コンビニの駐車場から公道へ出掛かった半端な場所でスリップして抜け出せないで焦っている車もあったりする。それが後輪駆動車の高級バージョンでハイソ性を誇るトヨタ、セルシオだったりして、その横を軽自動車のスバル、ビビオなんていうクルマが名前のとおりビビッドに走り抜けていく様は見ていて面白い。

こちらも渋滞を恐れて車による夜勤への足を断念して、徒歩と電車、バスをミックスした通勤を選んで正解だった。小田急線が相模川を渡って西岸の本厚木を過ぎると、数キロ手前の雪化粧は嘘だったみたいに雪の形跡がない。ずっと雨でしたと平然としている。伊勢原あたりの地元人によると、標高1200メートルの名峰・大山が雪を遮ってくれていると控え目に自慢しているようだが、まんざら嘘でもなさそうだ。勤務先付近のバス路線をよく知らないで、経由地を遠回りするルートを辿ったり、それなりの不慣れによるもどかしい事態もあったが、勤務の明け際にラッキーな運勢に出会った。高麗神社のおみくじによる「中吉」の中位なる思し召しなのか。

勤務の派遣先に所属する総務社員が余った新年度のカレンダーをもらってくれないかとこちらに声をかけてきた。自室では丸木スマなどのアーティスティックな良質カレンダーを既に飾っているから、ほんとは不用なのだが、数本ある円筒包装紙の中に和漉きの良質紙が覗いているものが紛れている。なにかいいものがあると直感する古物商人的な意識がいつものように働いた。帰ってきて梱包を開いてみた。

やはりカンは冴えていた。これは某大手業務用電気メーカーで名高い会社が発行する棟方志功によるスケッチ画の版画カレンダーだ。今年は西国シリーズの九州バージョンということで小躍りする。一月の絵は1974年に棟方志功が訪れた宮崎の高千穂に題材を採っている極彩色な補色も鮮烈な快作である。開闢(国作り、カイビャク)神話に登場する「アメノウズメノミコト」が力持ちの神「タジカラオノミコト」と一緒にエロスの力で翻弄するシーンである。「アマテラスオオミカミ」の引き篭りを歌舞で囃して機嫌をとる為の元祖ストリッパーなのだろう。悪戯気な目つきのヌード神の姿態が見事に悩ましい。昔の大衆映画などで憧れていた春川ますみ嬢みたいに底抜けの大らかな菩薩性が棟方版画の真骨頂を伝えている。

また後半の秋口の暦には、薩摩の桜島や遣唐使の船出した小さな湊の村落「坊の津」のスケッチ版画が控えていている。走りまくる志功のノミが徹底的に印象派しているカラフルな強烈版画ばかりで嬉しい気持は倍増してしまう。そういえば櫻島といえば苦い人生の永遠のテキストたらしめている戦後文学の傑作、梅崎春生の初版本「桜島」(大地書房刊昭和22年刊)が本棚にあった。敗残をまじかにした桜島への配属を命じられた通信兵の内的意識に映ってくる「坊の津」の無償な海景色の描写が一生忘れられない。梅崎本の表紙にある桜島の絵は廣本森雄画伯のものだが、これも志功に劣らないグルーブ感に躍動する傑作である。どうやら今年は十年ぶりの薩摩地方へ遊ぶ年になってきそうな気がしてきた。

雪景色

2013-01-14 12:56:53 | クラシック
冷え込みが緩い早朝だと思って寝室のカーテンを開けたら雨が降っている。これに大粒の霙が混じっていたが、しばらくすると案じていた雪に変わってしまった。初雪である。昨日は母親の臨時外出の希望に応えた。半日程度の座間滞在だが、過度の心配性による抑制なき繰言の多いことは相変わらずだが、認知症めいた言動は90歳を経た今もない。食欲は施設の効率的な合理主義メニューと相反したものを巧みに思案して希望するところがいかにも母らしい。食うや食わずの戦後時代に、晩ご飯のおかず代に窮していても、好きな市川歌右衛門や月形竜之介などが主演した時代劇の映画見物には出かけていたという狡知は今でも失われていないようだ。ありあわせの材料で作ったお好み焼き、残った肉じゃが煮、黒糖入りのパン、ネーブル、つぶ餡のよもぎ団子、量は控え目ながらも平均的になんでも嬉しそうに口にする。生きている証しなのだなと思う。好き嫌いをしないこともやはり長生きの秘訣なのだろうか。昨日襲ってきた母の毒気を拭おうと、今朝は北側の部屋を温めてから、静粛にLPを聴くことにした。

結露した硝子窓の外側にある広場はすでに雪が積もっている。西の方から吹き寄せている雪を眺めていたら、珍しくグレン・グールドのピアノが聞きたくなった。昔、鑑賞したCBS制作になるレーザーディスクビデオのパンフにハンチングを被った冬装束姿でスタインウエイのピアノ倉庫にピアノを物色訪問する彼の写真に魅せられたことがある。雪の午前にふさわしいLPを物色してみる。発売当時に、今は早稲田で建築学の教授をしている鈴木了二さんから薦められて買ったハイドンが晩年に作った「6つのピアノ・ソナタ」のほのぼのとして透明な旋律のイントロが脳裡をよぎった。グールドのLPはバッハからワグナーまで30数枚ほど所有している。しかしハイドンのピアノソナタはその一群では見当らない。引越し後の未開封荷物に入っているのか、30数枚にはダブルジャケットLPの該当品がない。しかたないから、70年代に収録したバッハの「ビオラ・ダ・ガンバとハープシコードの為の3ソナタ」を聴く。チェロのレナード・ローズとの競演だ。これは新譜で買ったLPだ。

当時は横浜郊外にあるマンションが生活の場だった。マイクロの砲金製ターンテーブルにシュアーのカートリッジ、JBLかTADの大型15インチ3ウエイスピーカーでよく再生したLPである。物量的には当時の方が上にもかかわらず、再生音は古風装置に輪をかけた現用システムのほうがより鮮烈な臨場感に溢れていることが、なんとも皮肉なことだと思う。ローズの正鵠な匠風セロ奏法に比して、グールドのピアノはなんとも異形で破風であることが競演ものでは際立ってしまうようだ。そこでセロニアス・モンクを聴くような姿勢になってグールドらしい、トリッキーなデーモンが迸っているソロ演奏にしばらく浸ることにする。

1955年の有名な処女作LP「ゴールドベルグ変奏曲」のすぐあとに収録したベートーベンのソナタ集だ。23歳のグールドがピアノに向かって惑溺している肖像のモノクロジャケットはダン・ウエイナーの傑作写真を使っている。グールドの全LP中で一番好きなデザインが、もう少しあとの「インターメッゾ」とこのベートーベンのモノラル盤である。幸いにも自分が持っている初出のモノラルLPはDJコピー用に配布された非売品のサインが入っている。このソナタ集をいつも聴く時の私的段取りだが、いちばん濃いデモンが迸っている作品32でグールド性に浸ってから、逆に平穏な作品31を聴くことにしている。イントロのモデラート・カンタービレなどは、以外や雪景色の背景にも合うものだと改めて思った。

大豆ビュッフェダイニングと池久のパン

2013-01-11 10:08:40 | 
二日間のオフ日は散歩にいそしんだ。今年は暖冬の予報が覆ってけっこう冷え込む日が続いている。束の間の休みは埼玉県、日高市にある高麗神社付近を女友達と合流して散歩する。高麗神社はその昔、東アジアの古代文化を考える会という集まりがあって、その時に一度だけ訪ねたことがあった。35年も前のことだった。例の「天下大将軍」「地下女将軍」というペアーになる碑は昔の素朴な木製ポールが石碑に代わってしまっていた。新しい石碑は現代の韓国風合理主義というかモダニズムを反映しているのか、まったく高句麗文化の香りがしてこない。神社で引いてみたお御籤は「中吉」とでていた。現代神社の積極営業の色が強い高麗神社の中で神社の裏手に保存されている高麗家住宅付近は、昔の山里風のどかさを残している。枝垂れ桜の大木はさぞかし見事だろうと付近の木々へ目を転じてみたら「姫こぶし」という小さな辛夷の木が枝の末端にグレーの綿毛に覆われた花芽を膨らませているではないか。春は静かに歩んでいるようだ。


二日間のオフ日はどういうわけか、偶然的な良質で美味な代用食!に恵まれた。出がけの手土産に買った座間「池久」ベーカリーという突拍子もない店名の個人店主が丁寧に焼き上げたパン、食パンは無論だが、くるみ、レーズン、オレンジピールなどを埋め込んだカンパーニュ風パンの芳しいコクに溢れた味わい。これに自家製の柚子ジャムを塗ってみたらパンの持つ酸味との調和が良く素晴らしい味になった。

もう一つは高麗神社に近いJA日高販売所の脇にあった「大豆ダイニングビュッフェ」、主食からデザートの全てが大豆料理のバリエーションを専門とする食堂である。客は好きなものを選んでプレートに盛りつけて思い思いに楽しむという趣向だ。おからでできたコロッケ、麻婆豆腐、豆腐製チーズケーキ、バラエティに富んだ豆腐メニューを楽しむことができた。


先日訪れた西麻布の植物材料専門中華「健福」の凝った素材の処理と視覚性の洗練には劣るが、おおらかでヘルシイなビュッフェメニューを腹いっぱい堪能することができた。戻ってから作った夜食の半生うどんも良質代用食だった。これは飯能産で茹で時間が超長い20分というスローフードの典型だ。長い茹でのせいかうどんの腰と歯応えは見事そのもの。冷凍イカのげそと玉ねぎ、人参の千切りをかき揚げに揚げてこれを載せて、汁に浸して崩しながら味わう。代用食尽くしながら、勤務先での危うい食生活を、こうして保塁していることの小さな幸せを味わうオフ日になったようである。

新年のアナログ再生

2013-01-07 12:34:54 | JAZZ
一日おきの24時間勤務が1月6日の放射冷却による冷え込みのきつい朝でようやく終った。その隙間の休日には座間までやってきた旧友もいる。彼らの手土産は横浜・高島屋内で販売している好物の「ご座候」の美味い今川焼だったり、独居生活の不精や欠乏を案じての茨城地方で収穫した新米だったり、さりげない配慮が身に沁みてくる歳ということをとても実感する。

そのオーディオ&ジャズ旧友との放談に刺激されたせいか、アナログLPの新年が昨日からスタートしている。旧友達がやってきた時間帯が夜のせいか、マンション暮らしに伴う小市民的音量制約をしていてどうもストレスとなっていたようである。今朝はスモークチキンの細片をマスタードで和えてトーストサンドを作っている間に、コーヒーを沸かして真空管アンプも温めるというゆとりが効を奏したみたいだ。そんなことをしていると村上春樹が「意味がなければスイングはない」の文中で真空管アンプを温めている間にコーヒーを沸かすというようなちょっとした間合いの時間を丁寧に慈しむことの大切を読者に向かって推奨している箇所を思いだして失笑する。

ドイツ・エラック社のターンテーブルもアンプと同じようにしばらくの暖機運転を心がけるのは、冬場の古風なアナログ愛好家の必須項目というか、神妙なるイニシエーションでもある。今朝の一枚は暮に駿河台で買ったファンタジーのレッドワックス仕様になるガス・マンクーゾの「MUSIC FROM NEW FACES」という地味なモノラルLPである。1500円也。マンクーゾというジャズメンは、アメリカの軍楽隊上がりでそれもスムーズなメロディを歌い上げることに難渋してしまうバリトンホーンという楽器の名手である。ブラスバンドなどでよく見かけるユーフォニウムと似ている重い金管楽器である。音色の茫洋とした音調はトロンボーンにも似ている。この人のレコードはファンタジーレーベルにもう一枚あるが、四谷で「音の隠れ家」をしていた時分からこういう良質な音力を潜ませたジャズ的には異端系楽器をオーディオ再生するのが好きになっってしまった。

リーマンショックで俗界が不況になって、こういったLPもグンと値が下がったみたいだ。かっての三分の一という相場のようだ。日本人の名盤崇拝者の視野に入ってこないというよりも、鳴らすことが苦手なこういうジャズLPを買い漁るチャンスが到来しているのに手元が慢性的に不如意であることが惜しまれる。

そのせいか金や流行にあかせない丁寧な聞き込みという慣習も身についたようだ。サイドのリズムにはベースのレッド・ミッチェルがガッチリと重い骨格のコントラバスを弾いている。彩度を上げにくいバリトンホーンのくぐもった音調に野放図な遊撃感と自在なソロプレイでコントラストを添えるのは、ジョー・ロマーノのサックスだ。ロマーノの動、マンクーゾの静、対極の性格をソロの交換で味わえることで、このモノラルLPは1950年代中期のコンボジャズの美味を獲得しているようだ。きわめつけの演奏は、サイドBの二曲目にある「Guess Who I Saw Today」につきる。こんなに素晴らしい重力感に充ちたバラードを切々と吹くマンクーゾはやはり只者ではない。カーメン・マクレーなどでもしみじみと聴いた覚えのメロディーが、無名に近いガス・マンクーゾを私にとっての忘れがたきジャズメンに高めているようである。