Rainy or Shiny 横濱ラジオ亭日乗

モダンジャズ、ボーカルを流しています。営業日水木金土祝の13時〜19時
横浜市中区麦田町1-5

信州即興ドライブへの前日

2014-08-17 08:17:50 | 旅行

旧盆の休みに入って一日目は若い頃の友人達と都心で再会トーク、日頃付きあいのある友人が多いがYさんとは37年ぶりの再会だ。横浜の観念的バイク集団(のちにバイクショップ)「ケンタウロス」の飯田繁男さんが親元の桜木町付近にあった「五車堂書店」で自転車に乗って書籍を配達していたのはその10年も前のことだから半世紀に及ぶ古い話だ。

Yさんを配達バイトに紹介したのがこの自分でもう一人京都出身のMさんもそのころ配達バイトをしていた。彼ら二人も飢えていた時代でそのバイトには「五車堂」の飯田氏の姉が賄いで作ってくれたお昼のカレーライスがとても美味いとよく語っていたことがあった。Yさんは理科大で物理を勉強し始めていた。

Mさんは京都での西陣織り染め職人の素地があったが川崎の夜間学校に通っていた。その級友の中にはリゴリストな革共同的「反帝・反スタ」色の強い工場労働者もいたらしい。したり顔の「民青」だったらまだしも今のご時世だったらとても考えられないような話である。Mさんは染めものよりも級友からそちらの思想へ強く染まってしばらく消息が途絶えてしまった。Mさんと偶然再会したのは京都の河原町三条にあった「駸々堂書店」の雑誌コーナーだった。京都へ戻っていたMさんとは18年ぶりの再会だった。この私が横にいたことでMさんは自分が新宿あたりをさ迷っているのではないかという錯覚に陥ってしまったと苦笑して語っていた。広告自営業で京都へ営業に出張していた自分を長屋のような八条付近の自宅へ呼んで泊めてくれた。Mさんはもう日本を離れていてカンボジア農村部で貧農階層の子女が売春や麻薬密売等へ走らない為の社会運動に邁進しているらしい。その社会運動がMさんの素地に関係するクメール伝承絹織物の復興だった。Mさんはその功績でのちにスイスのロレックス社が世界レベルで貢献する人物に与える「ロレックス賞」をもらったという記事をどこかの新聞で読んだことがある。

Yさんの所在を掴めたのは濱野さんによるフェイスブックの活用だ。自分だったらとても無理な検索活用に濱野氏に感謝する。Yさんの消息を聞いて体調を案じていたがYさんは昔のままだ。声のトーンも高め、笑い顔も同じだ。前頭部の後退は著しいが白髪の混じった囲っている側頭の雰囲気は良心的な自然科学老人の香りがする。スキンヘッドで角度を変えると危険人物に誤解されかねない色道煩悩顔の自分とは段違いのインテリ仕様である。

再会場所は三か所。南青山にある根津美術館前で合流。昼食は霞町の交差点にある「権八」のランチ、珈琲は青山葬儀所前の「ウエスト」と思ったら待機客の多さに辟易して横の「デニーズ」で我慢する。「デニーズ」にも長居してしまったから、多分いつも閑な「喫茶茶会記」へと河岸を変える。子供時代の横浜回顧、Yさんの板橋における自然観察活動のこと、それぞれの体調のことなど夕刻まで話題は尽きない。Yさんの広島治療が一段落したら今度は座間の自宅へ集まろうということで再会を約束して信濃町駅でそれぞれの帰路へつく。


弐 湯の旅伊豆半島完全一周

2014-01-10 12:45:10 | 旅行

正月の数日を房総の勝山にある友人Oさんのマンションを借りる予定でいた。海岸に面したマンションの利を生かして磯のテトラポットに潜んでいる魁偉な面持ちの高級魚カサゴでも秋刀魚の切れ身餌持参で狙い釣りしようという魂胆だった。しかし部屋の根幹を成す電気の元を切ってあって、復旧は世間一般の仕事初め頃でないと無理ということがわかった。急いで気持ちを切替えて行き当たりばったりの温泉立ち寄り旅を思いついた。湯河原に住む知人のMさんからかねて薦められていた伊東・宇佐美の街中にある源泉掛け流し銭湯、伊豆急蓮台寺駅から近い、金谷旅館の千人風呂、以前に女友達とドライブ途中で見かけた記憶のある「観音温泉」などの湯煙が頭の中に立ちこめてきて即行動する。

下駄代わりのクルマ、ホンダ「キャパ」は発進時にギヤが滑るような独特な癖というか、不調を持っているが、こういうウイークポイントを意識して走っているときは皮肉なことに故障はやってこないことが長年のカンでわかっている。正月三日、予約も一切なしの行き当り旅だ。海沿いの134号線は箱根駅伝の復路コースに茅ヶ崎海岸付近が重なっているが、沿道の反対車線は予想に反してガラガラに空いていて拍子抜けしてしまう。大磯、二宮、小田原などの国道1号も下り車線は空いていている。伊豆半島に入ってからの135号線も同様だ。自動車専用道路、バイパスめいた安易ルートを選ばない旧道ヘアピン派で通すことで伊豆の海・野山を体感できる旅の気分が一挙に横溢してきた。

第一番目は宇佐美駅前、右裏にある某銭湯。ここは2時にオープンする。タオル持参で350円を支払う。泉質は炭酸成分が主力だ。安価温泉の達人Mさんが推奨するだけのことはある。秋に同行した熱海市街地にある福島屋と同じタイプの昭和風改装不能なレトロ浴場だが、浴槽は必要にして十分な広さだ。福島屋は温度が高くて逃げ場がなくなるほどだった。まさに促成茹蛸の境地である。しかしこちらはやや熱い程度だから救われる。ドボドボ・コンコンと注いでくる豪勢な自噴泉の青みが淡くのったような気持ちのよい温泉に20分程浸かって気分は一新された。昨年来沈殿してきた塵芥も流れ去る気分だ。宇佐美町民のささやかな幸せと贅沢が羨ましい。

350円銭湯の良質に感激した後は伊東市内、伊豆高原・富戸付近へ寄り道してその日の臨時宿を探す。隙間でセブンイレブンの100円セルフコーヒーを飲んだり、伊豆銘菓「千舟」の蓬饅頭をツマミ食いするのんびり旅の風情も楽しむ。あらゆる宿屋は正月かき入れモードで手一杯なのだろうが、眺望が良い露天風呂を謳っている某ペンションが富戸の辺鄙な場所にあって交渉してみた。以外にも素泊まり6000円の答えをもらって安堵する。若い家族連れ、学生の利用が多く場違いの感もあるが、平凡な洋風建築の狭い部屋で雨露を凌ぐことに決める。ここの泉質は伊豆高原一帯に特有な単純強アルカリ泉とある。むろん自噴ではない。どこからの引湯なのだろう。しかしここのメリットは露天風呂の真上に広がる星空の夜景が素晴らしい。そして風呂に立ちはだかる河津櫻も3月頃には良い見頃を迎える様子だ。泉質こそ宇佐美銭湯の歯切れ良さに欠けるが、冷気に囲まれた温もりの中の眺望は捨てがたいものがある。二箇所ある露天風呂に計3回入って熟睡して翌日は下田を目指す。

 

幸いにも4日の宿泊は下田と西伊豆・松崎を繋ぐ県道の途中にある大沢温泉の湯治宿の予約が可能となった。素泊まりが3900円だ。宿の心配はなくなって下田の市中や海岸付近を手ブラ散策する。以前に満開だった爪木崎の水仙は時期がちょっぴり早い。板見漁港付近の潮色はエメラルド色が冬になって冴えてきた。下田市内の昼食はさざえを散らしたかき揚げ丼を食べてみる。さざえの硬い歯応えに妙味のあるものだが、かき揚げは余程の大食漢じゃないと太刀打ちできないような大柄、大味を感じる。

2時から入館できる大沢の湯治場「山の家」は山の渓流に面したバラック建ての山荘だ。ちょうど若い頃愛読していたつげ義春の描いた田舎温泉場の佇まいがいやおうなく漂ってくる。ここの路上には1000CCクラスの大型バイクが数台止まっている。ツーリングを兼ねた温泉旅には最高のロケーションを感じる場所だ。今宵の宿泊予約を確認してみたら、少し離れた所にある新しい平屋が宿ということである。部屋を確認してみる。つげ漫画風うらぶれ感はない清潔内装のせいぜい築10年未満の部屋だった。温泉の休憩所、浴槽は崖下にあり、落葉樹の梢が頭上にまで重なっているような秘境感にとても感動する。肝心の温泉はマニア諸氏がネット等で激賞するように西伊豆では出色の豪快な自噴泉をドンドンと吐き出してくる。湯量も温度も快適な為翌朝まで6回も林道を往復して入浴することになった。石鹸類の設備は一切セットしていない。アメニティグッズなども然りだ。こうしたシンプルで一徹な不便仕様は、意外にも清潔に通じていて簡素な環境循環を行っているものなのだと湯船に浸かりながら痛感する。

翌日は松崎から中伊豆等への省略コースも一切辿らないで、土肥、戸田、大瀬崎等の山沿いの旧道を巡って沼津を目指すことにする。途中の崖上にて食べた二八蕎麦、五平餅、クレソンのサラダなどが望外にも美味かったことで、新年の湯巡り旅はなかなかよい結果になったようだ。


琵琶湖付近の旅

2013-08-02 08:34:46 | 旅行
一泊二日という駆け足みたいな旅行に出かけた。天気予報どおり新幹線が米原へ近づくにしたがって雨脚が強まってきた。いつもなら遠望できるあの清々しい伊吹山麓はボーっと霞んでしまっている。京都駅の八条口で新型トヨタビッツを借りる。銀閣寺のある北白川付近から山中越の旧道を経由して比叡山へ向かう。比叡山は大雨のせいでまさしく五里霧中という在り様だ。気の早いラグジュアリーカーで先を急ぐ背後のクルマを一瞬だけ路肩でやりすごして、そのクルマの尾灯を頼りに追従する狡猾安全走法を選ぶ。霧深き、北軽井沢、箱根峠など夏の山越えに霧はつきものだが、奥比叡の横川(よかわ)近辺は視界悪化であきらめることにした。比叡山は夏休みに入っているのに、この悪天のせいで人影はまばらだ。

メインの根本中堂とその周りの厳かな原生林が吐き出すアルファ波をたっぷりと吸い込む。それにしても比叡の法難を乗り越えて今日の礎石を築いたお偉い諸僧を讃えた参詣路の絵看板はいただけない。絵画の中の力みが北朝鮮や旧ソ連のスターリン主義的なプロガバンダアートと同じ効用性重視に直結する拙劣を感じてならない。この絵をみれば比叡が天台宗の本山だけでなく諸派宗教の母山だということが分かるが、もっと東山魁夷風の山容図でもガラスに嵌めて芸術の為の芸術然としていれば山を汚さないのにと思う。

奥比叡を諦めた時間を山裾の湖畔にある坂本の町で過ごす。比叡の守り神が全国から参集したという噂の日吉大社も訪問する。周りに散在する比叡の里坊(隠居僧の住まい)も眺める。穴太衆(あのうしゅう)という伝統石積み集団の立派な仕事は、この付近の河畔、寺社の石垣、至るところでその素晴らしさにめぐり会える。

比叡の山裾に位置する日吉大社の杜は日本の健やかな夏が健在だった。蝉時雨の圧倒音量の凄いこと。幾つかの拝殿や斎宮を蝉時雨に打たれて巡回していると古代人にタイムスリップしたようだ。


浜大津の宿泊が明けた二日目は米原付近から長浜、湖北を訪ねることにした。旧中山道の醒ヶ井宿、丹生川上流にある滋賀県醒ヶ井養鱒場、長浜市街、高月町、渡岸寺(どうがんじ)宝物の十一面観音像、大日如来などの見物がお目当てだ。晴れ渡って夏日が戻った京都への帰路は木之元付近から湖西バイパスというルートを選んで琵琶湖の沿岸景色が堪能できた。蝉の声を聞いたり、野鳥が遊ぶ小景は都会に隣接する自宅周辺でも慣れ親しむことができるが、醒ヶ井の地蔵川周辺の人里には我々が遺失してきた夏が大きく転がっていて、懐かしい昭和30年代風情緒にも浸ることができた。




味覚の方ではかねてからの琵琶湖特産「二ゴロ鮒」による鮒ずしの冷やし茶漬けと長浜の某料理店にて対面、「名物に美味いものなし」との感想を思い出すことになる。自分で作った渋めの煎茶に紅鮭でもほぐした茶漬けに高菜の刻んだものでも乗せて食べる方が優っていると思った。なにか上品という方向の捉えどころを失った味という印象である。

町興しのうどん

2013-06-18 21:38:08 | 旅行
平日休みの散歩は久しぶりの武蔵五日市、西多摩郡の日の出町、飯能市付近を近在に住んでいる友人提供のホンダ・フィットでぶらついてみる。飯能では西武線の駅に近い旧中心地の「広小路通り」を散歩する。内陸に位置する飯能や秩父が蒸し暑いという噂は何度か耳にしたことがある。その噂どおり油汗が滲んでくるような、梅雨が一服して真夏の気候になっている本日だった。ご他聞にもれず飯能の町中も、日本の中堅都市が共通して辿っている地盤沈下の暗雲が漂っている。閉店する店も多くシャッターストリートになりかねない町の活性低下に抗して町興しのような動きも胎動しているようだ。


商店街を歩いていて見つけた「日替わりシェフの店」もそんな一つらしい。異なった料理分野を曜日によって分けて低廉なお手頃値段で楽しもうという企画だ。ちょうど本日は飯能地方の名産といえる「地粉手打ちうどん」の日になっていた。試しに入って食することにしてみた。飯能の農家に伝わってきた伝統食のうどんは色があさ黒い平打ち麺でシコシコした腰の強い歯ざわりが特徴である。

調味料にはおろし大根、ゴマ、紫蘇、これに漬け汁がついてくる。塩と小麦粉だけで添加物を一切使っていないこのうどんには素朴な地粉に含まれた独特な甘みがある。しかしシコシコしたうどんの野生感に対して何か物足りない感触がする。漬け汁のせいだ。本体は昔の味覚が保持されているのに、漬け汁はなんとなく素っ気無い味がする。宗田、鯖、鰹等の混合出汁の煮詰める濃度が不足している印象で、これでは名物うどんとしては少し役不足なバランスなのかなと辛口感想も浮かんでくる。食したあとは、付近にある昔風の荒物屋、瀬戸物屋、好評・堅実の「英国屋」パン店なども冷やかして廻ることにする。その中の瀬戸物店は「イチノ陶器」という飯能における老舗だ。ここでは不良在庫めいたストック品をかき回していたら、一時代前の匂いを放つ意匠の勝れものをいくつか発見する。


写真の厚ぼったいガラスコップなどもそんな典型だ。器体の薄いピンクはあるかないかの風情で台座付近の空色とよいハーモニーを輻輳している。これを見たとたん、佐々木トーシローさんが薦める蝋燭立てとしての転用を思いつくことになった。自宅へ戻ってから暗い部屋の中で固形蝋燭に点火する。霞んでいる色ガラスの向こうにチロチロと燃える炎の先端がよい風情だ。しばらくこれの炎を眺めていたら、休日の歩行疲れのせいだろう、気持ちの良い睡魔に襲われ始めたようである。

引越し

2012-09-27 18:31:27 | 旅行
お彼岸を境に肌寒いくらいの秋になった。暑さが居残っている渦中の引越し準備に追われてブログの書き込みもすっかりご無沙汰してしまった。

大山の東裾にある日向の里で暮らして早いもので足かけ五年になって、相応に体力も気力も衰えてきた。60も半ばになるのだから無理もない。
しかし貧窮暮らしなのに、物の減量は少しも進んでいない状態だ。書籍類、レコードLP、音響機器・そして陶磁器の山を眺めて嘆く。

これらの残骸の全てを残して突然、あの世から召されたらどうしょう!という不安がよぎっているこの頃である。縁者の妹などは、世俗の常識で生きていて、癇性な気質だから、さぞかし兄貴を罵倒するのではないか?などと気弱にもなってきた。類縁もいない山里の撤退にはちょうどよい時期で物を減らそうと、年明けから物減らしを目指すことになった。

そのついでに引越しを初夏時分から計画していたら、18キロ程小田急線を東京方面に戻った神奈川の都市部に近いマンションに移住することがとんとん拍子に決まった。
三階建ての切り妻屋根の外観をもつ低層住宅の一階が今度の棲み処である。
3DKの間取りで築25年という新鮮味も湧かない外観だ。しかし経年変化がもたらす薄汚れた外壁や錆が浮いている窓の鉄枠等に独特な「スガレた」風情が漂っていてなかなかいい。

蔦が絡んでいる住居の北側などは、窓の視界に鉄砲百合や芙蓉の花がひっそりと咲いている風景も映ってくる。渋谷時代に近くを散歩していた代官山の同潤会アパート等と共通する香りを感じて、変なことに感銘する自分というものは年をとっても変わらないものだと苦笑している。

オシロイバナや毒ダミが群生する専用庭を刈り込んで来春のガーデニングを夢想しながら、しこしこと不定形に自力移転を重ねていたが、ようやくこの30日で日向を明け渡すことになった。

気忙しい夏から秋になってしまったが、今度の旧新居のレイアウトは昭和風小市民住居を更に煮詰めてみようという一抹の楽しみも待っている。
蒸し風呂みたいな晩夏の京都を巡って美味な京料理も味わったよい夏でもあったが、河井寛次郎記念館の旧居のしつらえは最高の涼風を心にもたらしてくれた。
引越しを転機に寛次郎の部屋が醸しだす和み溢れるセンスをよく咀嚼して、自分のものにできたらいいな!という秋めいた心境を迎えている。