こまんたれぶ~下福田小学校

当時の同級生との交流場所
(ここ数年は模型三昧)

授業シリーズ 理科編

2007-08-31 23:08:20 | Weblog
下福田小が新しい学校だなって感じたのは理科室。

おお!理科室の黒板は緑色じゃないぞ!
そうだ、理科室はホワイトボードだったのだ。
しかもスライドする機構を備えた最新鋭のイカす構造だったと思う。

で・・・肝心の理科の授業内容で覚えてるのは、学校の隅っこにあった百葉箱。
リトマス試験紙を初めて触ったのもこの頃だ。
赤から青へ、青から赤へ、酸性・アルカリ性に浸す度に色がコロコロ変わる
ナイス・ガイだったが、無理がたたって赤.青が混ざって汚れたオレンジ色になり
何も反応しなくなった。。。

あまりにも面白いので家に持って帰って遊んだ。
最後はトイレでおし○こをかけて何も色が変わらない事に落胆して捨てた。
考えて見れば、そんなに強烈な酸やアルカリである訳ないのだ。
(おそらくpH=7前後の中性が常人)
この年頃、最後は必ずお下劣路線へまっしぐらだ。

職業柄、今でも似たような試験紙を使う・・・これぞ愛の輪廻現象。
トイレでの実験はしなくなったがね。

それから・・・何と言っても鯉の解剖だろう。

本当は鮒(フナ)の予定だったのだが、確保出来なかった為に
鯉(コイ)を使ったのを覚えてる。

初めに肛門から鋏を差込み、半円を描くように腹部を切り開く。
そして・・・エラや浮き袋等を観察し、スケッチした所は通常の授業だった。

誰だったか思い出せないが、(Y田N夫君かパンダの好物君だと思うが)
心臓摘出開始~!等と嬉しそうに叫びながら鯉の心臓を摘出!

続いて摘出された浮き袋はビーカーの中でプカプカ浮いてた・・・
誰もが自分はブラック・ジャックだと信じてた。
(どう見てもバーバリアンかバーサーカーだ)

我々のボルテージは最高潮に達していた。

だが・・・誰も摘出した心臓を元へ戻し、鯉を生き返らせる事など出来なかった。
結果的に俺達はブラック・ジャックじゃない事を知った日になってしまった。
こうして我々は大人への階段を上がっていった。

哀れな鯉は授業終了後に埋めてあげた事を覚えてる。

卒業文集

2007-08-31 12:50:46 | Weblog
表紙は黄緑色だった筈だ。。。(自宅に現存してるかは不明)

明日、久し振りに会う級友がいる。
(中学は一緒だったらしいのだが最低でも25年振りの再会だ)
奴に会う前に、どうしても書いておかねばならない事がある。

俺自身、卒業文集に何を書いたのは全く覚えていない。
だが!あの文集は俺にとって屈辱的な思い出の場所でもある。

明日会う問題の男は・・・仮の名を”パンダの好物”としておこう。
あろう事か、奴はこう書いていた。

僕が小学校生活の中で一番面白かったのは、××君(俺の事だ)が遠足の時、
電車とホームの間に落ちて挟まった事です!

そう!確かに俺は遠足で電車に乗り込んだ際、車内からの強烈な押し戻しで
ホームと電車の間に落ちて挟まった。
リュックサックを背負っていたお陰で、俺が落ちたのは腰から下。

慌てた駅員が俺を助けてくれたのだが、奴は近くに居たオバサンが俺を助けたと言い張った。
アイツは俺のピンチを冷静に観察し、脚色し、腹抱えて笑ってやがった。

よりによって、卒業文集に書く事はね~だろ!
俺は後にも先にも電車に挟まったのは、あれ一回だけだ!

と、思っていたのだが・・・

鎌倉方面へ遠足に行った時、江ノ電に乗った事があった。
あの電車は軒先の僅かな隙間を走るので窓から身体を出さないように
鉄の棒が横方向に2本付いていた。

どうしても外が見たかった俺は2本の鉄棒の間に頭を突っ込み、
外の風景や風をダイレクトに感じる事に成功した。

電車を降りる時間が近づいた時、窓から頭を引っ込めようとしたのだが・・・

頭が完全に鉄棒に挟まり! 抜けなくなっていた!

俺は必死だったが、周囲に悟られまいと努力し、遂に脱出に成功。
(電車を降りる数分前だった)

パンダの好物君、僕は本当は電車には2回挟まった事があったのだよ。
知らなかっただろ?

先生の必殺技!

2007-08-31 09:20:44 | Weblog
会社からの帰り道に思い出したんだけど・・・

先生にはドラムのスティックによるケツ叩き以外にもうひとつ必殺技があった。

K先生、授業中に無駄話や寝てるヤツを見ると猛烈なスピードでチョークを投げたよね。

俺が思うに、先生はチョークを投げる自分に酔っていたんじゃないだろうか。
確かに投げるまでのモーションは早かったし、瞬間的に授業に集中してない生徒を見つけるのも早かった。

時には投げつける相手の名前を叫んでいたが、ほぼ同時に投げ出されたチョークを
よけられるのは”リングにかけろ”の志那虎一城だけだと思ったもんだ。

だが、生徒に神技的ディフェンスは必要なかった。

命中率が低かったのだ。
手前のヤツに命中したり、後ろの壁に飛んでいったりしてた。

くどいようだが、先生はノーコンだった。。。

やはり恐るべし!K先生。

何日間まで継続出来るのだろう・・・

2007-08-30 18:27:12 | Weblog
最初はネタに困らない。
(まだまだ書く事はいっぱいあるので当面は安心だ)

しかし、いつかネタは尽きてしまうに違いない。

ブログを作り始めて判った事は、
ある特定の人間へ向けて作ったのに、アクセス数が気になる事。
そんな事はどうでも良い事の筈なのに、ついつい気になる自分がいる。

一般的に、手っ取り早くアクセスを増やす簡便な方法は
エロネタ掲載だと聞いた事があるが、そんな事は断じて出来ない。
(ここは神聖&健全&お馬鹿なブログなのだ)
当面は継続する事を最優先しようと思う。

ブログを作り始めて教えられた事がある。
毎日、こまめにコメントしてくれH君の存在だ。
いつもありがとう。
先生のネタが尽きたら、君のネタを書いてあげよう。
え?頼むから止めてくれって?
いいじゃん!俺達友達だろ~  

全然、関係ないけど・・・

2007-08-30 17:20:15 | Weblog
今日は仕事で普段使わない試薬を使った。

プロピオン酸(化学式で書くと CH3CH2COOH)
こいつを使うのは初めてだったので、蓋を開けて臭いをクンクン・・・

気絶しそうな位、臭かった。

以前、水虫を移された時の靴下の臭いに似ていたのだ。
きっとこれは悪臭物質に違いないと思い調べると・・・

臭い:”刺激的な酸っぱさ”と書かれていた。
今晩は、この臭いにうなされそうだ。

これは間違いなく、青春の甘酸っぱい思い出と呼んで差し支えないだろう。


修学旅行

2007-08-30 12:55:21 | Weblog
修学旅行は日光に行ったんだっけ。
驚くほど覚えてないんだよね。。。

見猿・聞か猿・言わ猿は見たよ。
眠り猫も見た。
東照宮の裏手の徳川家康の墓にも行った。

定番の枕投げはしたのだろうか?
誰と一緒に行動したのだろう?全く思い出せない。

当時、友達の家に行くと必ず目にしたのは壁に貼られたペナント。
俺も日光で買ったのかな・・・
(あれは一体、何だったのだろう)

お土産と言えば、全然土地柄に関係なく売られている物があった。
その中で最高傑作だと思ったのは、
逆さにすると中の液体が動き、お姉ちゃんの服が脱げるボールペン!
しかし・・・あれは誰へのお土産として売られていたのだろうか。

小学校の修学旅行は全然覚えてないな~。
一番記憶に残っている事は、
行きの”いろは坂”で猛烈な乗り物酔いになり、バスを降りた瞬間にゲロ吐いた事。

なんて寂しい思い出なんだろう。。。
まさに青春の甘酸っぱい思い出だ。

先生の家

2007-08-30 08:59:45 | Weblog
在学中、一度だけ皆で遊びに行った事があった。
(場所に関しての記憶はかなり曖昧だが、湘南台辺りに住んでたと思う)
友達と何人かで行った。

家自体の外観も覚えていない。
だが、家の中が殆ど何も無い状態だったのは覚えてる。
記憶が曖昧なのは、家の中よりも外で遊んだ時間が長かったからに違いない。

昨日の車に関するコメントでH野君が指摘してるが、
あのワーゲンを買った事で相当に貧しかったのだろう。。。

ワーゲンはドイツが生んだ傑作車だ。
水平対向エンジンを積んだワーゲンはバサバサと独特な音で走る。
確か四輪の自動車世界において最多生産数の記録を持っている筈だ。
1930年代、アドルフ・ヒトラーが政策として掲げた
アウトバーン建設構想と、誰でも買える大衆車を作る計画から生まれた。
(一般家庭にラジオを普及させたのもヒトラー政権だ)

だから・・・フォルクス(国民)ワーゲン(車)と名づけられた。
日本にもパブリカって車があったが、これはパブリック・カー(大衆車)の略です。
尚、WAGENはワーゲンよりもヴァーゲンと発音する方が正確な気がするが、
スーパーマーケットのバーゲン・セールみたいで格好悪いぞ。

ワーゲンのデザインはフェルディナント博士により設計。
この博士は知る人ぞ知る、ポルシェの創業者だ。
(本名は、フェルディナント・ポルシェ)
彼は第二次世界大戦が始まると、軍事兵器の設計も行った為に戦犯として投獄されたが、
窓から見えるアウトバーンを疾走するワーゲンを見て、ほくそ笑んでいたらしい。

考えて見ると学校の先生の家に遊びに行ったのは、これが最初で最後だ。

先生の車

2007-08-29 23:14:30 | Weblog
俺達が卒業する頃まで乗っていたかは不明だが、
当時の先生は白いワーゲン(ビートル)に乗っていた。

新学期が始まると家庭訪問があったのだけど・・・
一番最初に訪問する奴は先生の車に乗せて貰ってたな。
(のどかな時代だったんだと思う)

確か一度だけ乗せて貰った記憶がある。
生まれて初めての外車だ!乗った感想?全然覚えてないよ。

次に外車に乗ったのは20歳過ぎだった。
今度は自分の車だ。

この車(イタリアの小型スポーツカー)は良く壊れた・・・
圧巻だったのは走行中にクラッチが軽くなり、ギアが変えられなくなった事。

エンジンを切るとギアが変えられる事が後ほど判ったのだが、
バックで駐車場へ入れようとしていた時に起きたのでパニック!
500m以上も公道をバックで走った奴は俺ぐらいだろう(えっへん)

数日後に真相が判明。
なんとクラッチペダルが途中から腐って、ワイヤーが取れてた。。。

この車は雨漏りが凄くて、座席の下が腐り直径30cmの大穴が開いた。
(どうやって座席は車にくっついていたのだろう)
知人は俺の車にはバケツいっぱいの水が積まれていて、
金魚を飼ってると噂された。(その位、雨水が溜まったからだ)

他にも、
走行中にドアミラーが無くなってた。(取れて飛んでいった)
高速道路を走行中にタイヤが外れて、その取れたタイヤに抜かされた。
(自分の車のタイヤに抜かれた奴は、なかなか居ないと思うぞ(えっへん)

凄い外車だった。
でも、俺はこの車が大好きだった。

話がそれたが・・・今でも街中でビートルを見ると先生を思い出す。

美術の時間

2007-08-29 19:36:44 | Weblog
素焼きの焼き物を作ったのを覚えてる。
本当は釉薬を塗って、きちんとした焼き物にする筈だったが、
我々に残された時間は残り少なくて、素焼き状態で終わったと記憶している。

1Fの奥の方に美術室はあった気がする。(家庭科室だったかな?)
細長い小さな部屋があって、そこにスタンドに付けられたドラム(タム)が1台

実は、K先生はドラムを叩くのが好きでした。
学校で頭に来る事等があると、そこに一人でこもってバシバシと叩いていたと聞いた記憶がある。

そういえば、あの頃・・・
悪い事をすると先生にドラムのスティクで尻を叩かれたのを覚えてる。

大好きだったK先生に、もう一度叩かれたい!!
な~んて事は絶対に思わない。

思い出せる物・思い出せない物

2007-08-29 17:05:27 | Weblog
卒業記念は体育館に取り付ける校歌(歌詞)を刻んだ巨大なボード製作だった。
なまじ植樹等のありきたりな物でないだけに記憶は鮮明だ。

一人が一文字を担当した。
木片に銅板を張り、文字の周囲を釘と金槌で叩いて作ったと記憶している。
(最終的に文字だけが浮かび上がる様に作った)

私が担当したのは ”か”の字だった。
確か歌詞の文字数が当時の生徒よりも多くて、早く終わった人は他の字も作った。
(私はもう一文字を作ったのだが、それは思い出せない)

そんなどうでもいい事は覚えているのだが・・・
肝心の歌詞が全く頭に浮かばない。
それは多分、校歌が出来たのが6年生に入った頃だったせいだろう。
小学4年まで通った渋小は、不謹慎な替え歌の歌詞まで覚えているのに・・・

断っておくが、俺は痴呆症ではない。