こまんたれぶ~下福田小学校

当時の同級生との交流場所
(ここ数年は模型三昧)

零戦32型 その2

2010-04-30 20:11:43 | Weblog
デカールを張り終わり1機が完成しました。

この機体は台南空に所属し、ニューギアニアのブナ基地に展開した32型です。
写真が小さいので見難いのですが、胴体には”報国-870 洪源号”と書かれています。

報国と言うのは、国民献金で作られた機体を意味しています。
洪源に関しては地名なのか社名なのか人名なのかは知りませんが、
人名で有名な機体には日本画家の大家、横山大観の名を記した”大観号”が有ります。

さて、32型が21型に比べ強化された箇所の中に20mm機銃の携行弾数増加が挙げられます。
従来各60発だった弾数は100発に増加されました。

相変わらず弾倉はドラム式なので、大きくなった弾倉は主翼には収まりきらず、
主翼下面にバルジを設けて対処してあります。

アメリカ軍は零戦をZEEK(ジーク)と名付けていましたが、
32型の主翼が矩形になった為に、これを零戦とは異なる新型戦闘機だと思ってしまい
わざわざ”HAMP(ハンプ)と別名で呼ばれていたそうです。

零戦32型 その1

2010-04-29 22:22:57 | Weblog
他の型と同時に製作を進めていたので、完成しちゃいました。
(マーキングはこれからです)

32型は発動機を940馬力の栄12型から1130馬力の栄21型へ換装、
この為にエンジン後方の燃料タンク容積が激減しています。

燃料タンク容量の減少は、主翼内へのタンク増設で多少は改善していますが、
新型エンジンによる燃費の低下もあり、32型の航続距離は短くなっています。

登場した当時、21型は1号零戦と呼ばれており、32型は2号零戦と呼ばれていたそうです。

最大の特徴は主翼端を50cmづつ切り詰めた事で
スパッと切り落とした様な外観は零戦の中でも異様な存在です。
なんとなく日本機っぽく見えないデザインですね。

32型が投入された当時、海軍はガダルカナル攻防戦に突入しており、
新型零戦の華々しいデビューになる筈だったのですが、航続距離の問題が表面化。
(ラバウルからガダルカナルまでの長距離飛行に対し32型はダメ出し)
生産は三菱のみで、僅か343機で終了してしまいます。

32型の航続距離問題は海軍の開発担当者が辞表を提出する程の問題に発展(2号零戦問題)
(実際には落下式燃料タンクを装備すれば問題となる程の航続距離低下ではなかった)

こんな事が原因で一般に32型は失敗作の様に語られてきました。
かくいう私も零戦の模型の中では32型は最も製作した回数が少ないです。
しかし、横転性など空中戦能力の向上や優先的に航空母艦に配備された事実が発覚する等、
以前に比べ評価を見直されつつある機体です。

32型は最近まで空母での運用実績は無いと言われていましたが、
航空母艦の甲板から発艦する写真が出てくる等、定説は覆されています。
太平洋戦争が終結して半世紀以上が経過しましたが、まだまだ新発見は多いんですね。

零戦21型 その6

2010-04-29 15:57:01 | Weblog
今回、零戦21型は3機を作製しています。

前面灰色、上面を濃緑色と来たので最後は全面濃緑色の塗装を選びました。
(全面が濃緑色の零戦は珍しいと思います)

昭和17年11月~19年2月まで鹿児島に展開した、第261航空隊(虎部隊)の1機になります。

この零戦、今までに作成したタイプが三菱製だったの対し、中島でのライセンス版です。
キットは別部品で中島製零戦の特徴である少し長めのプロペラスピナーを同梱、
指定通りに使用してみましたが、殆ど違いが判りません。(1/144では小さすぎ?)

機体は主翼の上下面に白帯が襷掛けになっており、胴体にも白線が2本。
零戦の中でも派手なマーキングです。

さて、これで全ての21型が出来上がりましたので次回からは32型の製作に入ります。

零戦21型 その5

2010-04-28 21:53:32 | Weblog
続いて2機目のデカール貼りが終了。

今回はパイロットを特定出来ている物ではありません。
昭和17年 ブーゲンビル島のブイン基地に進駐していた零戦21型で
第582航空隊の所属機だそうです。

ブーゲンビル島というと、連合艦隊司令長官・山本五十六の乗機が撃墜され
戦死した場所としても有名です。

胴体に黄帯が入っている事から、指揮官あるいは小隊長クラスの乗機なのかも知れません。
キットの説明書によると、胴体の日の丸は白フチ付きではなく、
機体下面の灰色を塗り残すように書いてあります。

ところが作ってる最中にすっかり失念してしまい、白フチ付のデカールで対処しました。
”なんちゃって仕様”ですね。(爆)

零戦21型の主翼に装備された20mm機銃は各60発の弾丸を装備していました。
これは弾倉がドラム式だった為、主翼の厚みに収まりきらない事が原因でした。
後に32型になると主翼下面にバルジを設け、大きな弾倉に変更しましたが、
それでも携行弾数は100発に留まっています。
このため、機首に備えた7.7mm(600~700発)で狙いを付けた後、
必殺の20mm機銃で一撃をかけるように教わっていたようです。

ところが、7.7mmに比べ20mm銃は弾丸の初速も遅く、直進性も悪かった為に
射撃すると遥か前方で放物線を描いて落下、全く当たらなかったとの証言もあります。
サイズの異なる2種類の銃を装備した功罪に関しては今でも論じられています。

対照的に、大戦中のアメリカ戦闘機の機銃は12.7mmにほぼ統一されていました。
弾丸一発の大きさは当然ながら小さい訳ですが、
グラマンF4Fの場合、型式に違いはあるものの携行弾数は240~450発。

当時の零戦パイロットの話には、アメリカ軍の戦闘機が射撃を行うと
薬莢が簾を下げたようにバラバラと落ちるのが見えたと言います。

零戦21型 その4  撃墜王・坂井三郎

2010-04-27 22:51:29 | Weblog
完成した零戦21型に貼るデカールですが、1機が終了しました。

最初の1機は”大空のサムライ”坂井三郎氏の台南空時代の愛機を選びました。
(昭和17年8月7日に撮影された機体だそうです)

坂井氏の総撃墜数64機のうち過半数の34機が激戦だったソロモン方面でのスコアであり、
歌にもなったラバウル航空隊は世界最強のパイロット達で占められていました。
日本人パイロットの中でも坂井氏の撃墜数は4位にランクされており、
終戦まで生き残った数少ないエースの一人です。

また、坂井氏は僚機を一度も撃墜されていないと言う珍しい記録保持者でもあります。
僚機を落とされなかった事は氏の技量の高さの証明とも言えるでしょう。

変わったところでは、後にアメリカ大統領になったジョンソン氏の航空機を
撃墜寸前まで追い込んだ事でも知られています。
宿敵F6Fヘルキャット15機に囲まれ、15:1の空中戦で一発の被弾もせずに帰投する等、
数々のエピソードを残しています。

(あ、ちなみにパパ・ブッシュは太平洋戦争中に日本近海にて撃墜・救助されています)

大空のサムライは世界中で発売され、100万部を超えるベストセラーになりました。
これは坂井氏の自叙伝ですが、後に映画にもなったそうです。
藤岡弘(仮面ライダー本郷猛だぁ~)が演じたらしいのですが、私は観た事が有りません。

「もう眠ってもいいか?」の言葉を最後に、坂井氏は2000年9月22日に逝去されたそうです。

零戦21型 3

2010-04-27 20:50:30 | Weblog
風防を塗装し取り付けて完成です。

零戦を製作する時の鬼門は、この風防の塗装だと思います。

同時期の日本単座戦闘機の中でも零戦の風防の窓枠は非常に多く、
いつも塗装する際に苦労します。

マスキングするにも、あまりにも小さくて大変なので筆塗りにしました。
そして案の定、塗料がはみ出してしまいました(涙)

さて、塗装と組み立てが終了したので明日はデカールの貼り付け作業を行います。

零戦21型 2

2010-04-26 22:25:37 | Weblog
プロペラを取り付けました。

塗り忘れていた翼端灯の一部、コクピット内部に防眩用の黒塗装を行いました。

21型は太平洋戦争の開戦1年1ケ月より生産開始(昭和15年11月)
昭和17年6月まで作られ、総数は約740機です。
その後、三菱では改良型である32型へ量産は移行します。

ところが、21型は開戦1ケ月前から中島飛行機でのライセンス生産が行われており、
驚くべき事に昭和19年4月まで生産され続けました。
中島での21型生産数は総数2800機に及んでおり、本家の三菱を凌いでいます。

中島製の21型は末期になると、爆弾を搭載出来る様に改良されました。
急降下爆撃機の損失が余りにも甚大で搭乗員すら不足してきたので、
一人乗りの戦闘爆撃機として航空母艦等にも多数が配備されています。
更に末期になると特攻機として使用されました。

1944年10月 神風特別攻撃隊の最初の部隊である敷島隊は
零戦21型に250kg爆弾を搭載した5機と直掩の4機で編成されました。
(出撃時の映像が残っていますが、直掩は52型を使用していた様です)

僅か5機の爆装零戦は護衛空母1隻を撃沈する大戦果を挙げました。
しかし、この攻撃を効果的と判断した軍部は特攻を通常攻撃の様に用い始め、
唯一無二の攻撃法として最終的には陸海軍合わせて4000名もの人員が犠牲になりました。

零戦21型 1

2010-04-25 20:02:25 | Weblog
今回から型式別の組み立てにはいります。
まず、最初は21型から進めます。

主脚、車輪などを取り付け、燃料注入口、翼端灯などを塗装しました。
(一部、塗り忘れが有りました・・・あはは)
零戦の航続距離増加に絶大な威力を発揮した落下式燃料タンク(増槽)は
1機のみですが取り付けてみました。

21型は増槽装備状態で約3500kmと言う途轍もない航続距離を得ました。
この航続距離こそが零戦の特徴の一つでもあるのですが、
自動操縦装置の無い時代、空中という三次元空間を6時間以上も飛行する事を意味します。
同時にパイロットに対する負担は相当なもので、長所は短所にもなってしまいました。

零戦の正式な型式のトップは11型になるのですが、
sweetのキットには存在しません。

しかし、11型は全部で60機しか生産されておらず
航空母艦での運用に際し、翼端50cmを折り畳めるようにしたのが21型ですから、
外観上の違いは殆ど判らないと思います。


零戦 11

2010-04-24 19:08:40 | Weblog
総勢11機の零戦です。

ここまで組みあがりました。

写真の下段の3機が21型、中段右の2機が32型(主翼端が角ばっています)
中段の左2機が22型(最左は22型甲です)

最上段の4機は52型ですが、左から52型、52型丙、52型甲、再び52型丙になります。

よく見ないと判らないかも知れませんが、
21型と22型は全幅が12m、32型と52型は11mなので少し横幅が短いです。

零戦の進化を、随分変わったんだな~と思うか、
殆ど違いが判らんと思うか、普通の人は後者なんでしょうかねえ・・・

前回も書きましたが、この先は完成まで型式別に仕上げていくつもりです。


零戦 10

2010-04-23 20:49:42 | Weblog
主翼を取り外して、胴体の仕上げ先に行います。

コクピット内部は既に塗装を終えていますから、パイロットの頭当て(茶色)と
尾輪の塗装を行いました。(尾輪は写真では全く見えませんね)

それから、発動機の上に装備された7.7mm機銃の銃身を塗っておきます。
零戦に装備された7.7mm機銃は各700発の携行弾数です。
デビュー当時、中国大陸での旧式な相手との空中戦には効果が有ったようですが、
防弾装備に優れたアメリカの戦闘機に対しては後方からパイロットを狙った
職人の様な一撃を浴びせない限り撃墜は困難だったそうです。

本日は発動機を覆うカウリングの塗装も行ったのですが
未取り付けなので写真では発動機が剥き出しです。

ちまちま作っているので、今回で10回目の更新になります。
当初、同時に10機を製作していると思っていたのですが、
良く数えてみたら・・・11機でした。(最近は足し算も怪しくなってきてる)

明日は製作途中ながら全11機を並べて撮影してみようと思います。
(一緒に並べると微妙な型式による違いが判り易いかも知れません)
以降は型式別に仕上げて行こうと考えています。

11機の零戦だけで20回を超える更新になりそうです。