清純blog

本門佛立宗 常住寺住職・高野清純のブログ

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あいさつ えしゃく

2015年09月29日 | 学び ・ すすめ
会釈(えしゃく)とは、軽く挨拶や礼をすること。

 
仏教用語の「和会通釈(わえつうしゃく)」の略語。会通(えつう)ともいう。
 
仏典の二律背反(相互に自己矛盾する教説)を照合し、矛盾のない解釈を導き出すこと。
 
転じて、他者相互の矛盾を解消する意となり、さらに教説を離れて人間相互の融和から「挨拶」の意へと変遷した。

 
日本や中国では主に頭を軽く下げ、一時的に相手の目線を見つめる事なく(こちら側からの敵意の抹消行為)した後、自分側の顔を緩やかに上げるというスタイルがベーシックな形である。これには頭を下げた時点で「こんにちは」といった時候の挨拶を組み込むスタイルも含む。
 
アメリカでは「Hi」「Yo」等の言葉と共に、体を大きく反らすオーバー・アクションな姿が見受けられる。
 
会釈は、目下の者がする敬礼に対して、これを受ける目上の者から応答のために行なわれる。(出典:ウィキペディア)
 

以前、家内の出身校を尋ねた事があった。高校の校門から校舎に至るまでに多くの生徒とすれ違った。この時どの生徒もみんな、大きな声で「こんにちは」とあいさつをしてくれた。これには大変恐れ入った。学校の方針なのか、実に素晴らしい学校だと感じたものである。
 
当時、まさよしが小学4年、よしあきが3年、ゆかが2歳であった。子どもたちを、母親が生まれ育った熊本に連れて行きたかったのと、赤ちゃんポスト(ご存じだろうか?)を実際に見てみたかったので、福岡で青少年の一座が行われた時に、お休みを頂いて熊本まで足を伸ばしたのである。
 
 
正純と純明は熊本の産婦人科で生まれたので、まずはここを尋ねた。自分が生を受けた場所である。そして、母親が通った小学校から大学まで、実際に校舎の中まで入って見学をした。子どもたちが生まれる前の、母親が学生時代に過ごした学舎。母のルーツに初めて触れた。これらの場所で佇み、きっと何か感じたことであろう。そして最後は「赤ちゃんポスト」のある慈恵病院を尋ねた。病院の正門をくぐって右奥に進むとコウノトリと赤ちゃんのイラストが描かれたトビラがあり、開けると赤ちゃん用のベットがある。ここに様々な事情を抱えた人が、人知れず、赤ちゃんを預けにくる。赤ちゃんは病院が熊本市と連携して保護をしてくれるのである。
 
突然の訪問でも婦長さんが直々に施設をご案内下さった。また運良く理事長先生ともご面会できた。帰りに裕香が寝てしまい、抱っこをしながら庭を歩いていたら、病院関係者とすれ違うたびにガン見をされた。「勘違いをしないでくれ。」そう思って苦笑いした。(※預けようとする人は、そのルートを歩いていれば人目に付くことはない。)子どもたちはと言うと、自分の知らない母親の世界にふれて感慨深く景色を眺め、世の中には切ない因縁がある中で自分は恵まれているということを、少しは感じてくれてたようであった。
 
高野家には家訓がある。「ウソをつかない」と「ズルいことをしない」この二つである。これを所帯をかまえる時に定め、子どもたちがそれぞれ、ものごころついた時から伝えてきた。熊本の旅行にはテーマがあった。ルーツを尋ねる中で、自分が蒙っている恩恵に感謝し、恩に報いることを知ってもらうことであった。そして、報恩のはじめの一歩は、礼をとることである。
 
キチンとあいさつができるようでありたい。「先にあいさつした方が下」みたいな感覚で、礼に欠ける所作では困る。家訓も、キチンとあいさつができていれば、きっと守ることができるであろう。残念ながら、坊さんの中にも挨拶ができない輩が少なくない。こんなのは全く相手にしないのだが、何とも切なくなる。あいさつをするということは、多方面に気を配り、相手の心を推しはかって対応することと同義である。だから、あいさつができる人は弘通を志す人と言っても過言ではないだろう。教えを受けてそれを行う者は、あいさつができなければならないということを銘記して修行すべきである。
 
キチンと礼をとる。(時として、会釈でもいいのである。)
その中で、いま見失っているものが必ずみえてくるものであると信じたい。


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