清純blog

本門佛立宗 常住寺住職・高野清純のブログ

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人を恐れず、勧め励ます人

2016年11月04日 | 学び ・ すすめ
先般、「第五支庁報・平成28年 秋号」の巻頭言を書かせていただいたので、それをそのまま、記載しました。この文章のタイトルは「人を恐れず、勧め励ます人」です。読んでいただければ分かりますが、ボクが大学一年生(18歳の夏)時の体験談です。ですが、この文章の主人公はお師匠さまです。そう思って読んでいただければ、本稿の意図を感じ取っていただけるんじゃないかと思います。しみじみ書きましたが、実は強烈なメッセージが込められています。どこに向けて?(笑)





昭和61年。夏休み限定であったが毎日、ご信者宅にて詰め助行をさせていただく事になった。得度5年目、初めての受持を賜った年の事である。

助行先は高齢なご婦人のひとり暮らし。ご自宅は古い木造平屋、床は抜け落ちそうで、窓は隙間があり、扇風機もない室内はもの凄い湿気と暑さで、ここに住んでいては体力を失ってしまうのではないかと心配するほどであった。ご宝前のすぐ脇には、ご法様の方に頭を向けて、久しく万年床となっているであろう煎餅布団が敷かれていた。

このご信者は、婦人会常任として連合婦人会を先導していた。恰幅がよく、声が大きく、凜とした雰囲気と優しいまなこが印象的であった。そのお姿を、まだ子どもだった頃の小僧は、高く見あげて頼もしく拝見していた。大変かわいがって頂いた。お寺の顔であり菩薩のご奉公者であった。それが、その頃のお姿が想像できないくらい別人のようにやせ衰えていたのに大きなショックを受けた。そして、連日のお助行が始まった。

こういうご奉公は、当たり前だが、気がつかなければ行われることはない。また、「他人さんの家の事情だから、余り立ち入らない方がよい」とか、「お年だからそっとしておいてあげよう」とか、尤もらしい事を言い合って結局何もナシという結果になってしまう事も充分に考えられる。クレバーな信心の典型と言えよう。そこを、ご奉公できるようにとお師匠様がご指示下さる。躊躇している教務部・役中を叱咤激励して、一人のご信者がご利益をいただけるようにと、「お勧めする側のご奉公者」をご指導下さって、事が進んで行ったのである。こういうご教導の連続で、常住寺は御弘通を伸ばしたのであり、また、世間を舐めたような学生であった小僧にさえ、功徳を積む機会を与えて下さったのである。

以降は毎日、夕方になると厨房のおばちゃんがおにぎりを握って、お新香と教務部の夕食と同じおかずを少々添えたお弁当を作って下さった。それをお供水さんと一緒に持参し、お線香一本のお助行をさせていただき、お看経が終わってから、一緒におにぎりをいただいた。前述の通り、部屋は蒸し暑い。小僧はネクタイをしめて上着も着ている。毎日汗だくであった。おにぎりがのどを通らない。しかし、一緒に食べてこないと帰山してから報告に上がった時にお叱りをいただく。仕方がないから毎日、無理矢理おにぎりを頬張った記憶がある。お導師は、食事がのどを通らないご信者さんが、少しでもお仏飯とお供水を口にできるようにと願って、「一緒に食べてこい」とご命令下さったのであった。そしてご自身もこまめに、昼間の内に巡回をされた。

お助行は夏休み一杯続いた。学校が始まっても続けてさせていただくようにとご命をいただいたが、学校が遠いという理由で断ることができた。非道い話しである。ただ抑も、その頃このご信者は、既に自宅でひとり暮らしできる状態ではなかった。お導師が親戚に連絡をされ入院することになった。そして一年一月経った日に訃報が届いた。悲しかった。もうお年だったので寿命だと言われた。その通りであろう。しかし、止めどもなく涙が流れた。

当時、思いを込めてご奉公に当たろうなどと考えもしなかった木偶の坊が、お導師の厳しいご教導の元で何とか、ご奉公らしい事をすることができた。真似をすると身体が覚える。それでも屁理屈が先行していたが、ご薫陶をいただき、お側にいるだけで心や所作を習っていたと思う。だから、お側でお仕えできるのはとてもありがたい事だったのだと、今頃になって思い返している。

いま、そんな愚かなモノが住職のお役を頂いている。やがて次の世代のお講師ができるであろう。そんな時に、「あそこは、師匠にも師匠が必要だな」などと揶揄されないよう信心を磨かねばならないと、ご薫陶を思い出しては、常々懺悔改良の日々を送っている。

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