葬儀屋日記 byノブアキ

つれづれなる葬儀屋さんの日記です

藤原紀香がブログに愛犬の“死体”を投稿! 釈由美子や橋本志穂のように「変わり者」では済まない理由っていう記事の考察

2016年07月30日 | 葬儀特集の感想

藤原紀香がブログに愛犬の“死体”を投稿! 釈由美子や橋本志穂のように「変わり者」では済まない理由

 

っていう記事があった。

 

 

死んじゃった愛犬の写真を載せたら、みんなから文句があがったっていう記事なんですけどね・・・

 

これを感情論で、「いい」「わるい」で評価するんじゃなくて

 

なんでこういう事が起こるかっていう、構造を見て行きましょう。

 

 

 

これは今回ペットだけど、構造的には人の死に顔を流しちゃう人と一緒。

 

ではみていきましょう。

 

 

一つは藤原紀香さんにとって、ペットの「ノーブリー君」(以下ノブ君)

 

(なんだか、名前がかぶるので僕的にビミョーですが)

 

この子は紀香さんの中で多分死んでないんだと思います

 

生命活動がとまっても、死んだという認識がされていないんだと思うんです。

 

頭では死んだとういうことが分かっていても、心の部分でまだ同じ形をしているし

止まっただけという認識なんじゃないかとおもいます。

 

だから生きてるころと変わらないように、

 

「私の子」かわいいでしょっていう写真のあげ方をするだと思います。

 

死の認識にタイムラグが個々にある訳です。

 

もうひとつは一般のブログ読者にとっては

 

死んだ犬なわけで、それは一定層の人は死が怖い、死んだものを怖いと感じるわけです

ココにまず「死」に対する温度差があります。

 

 

そして第二にブログってものの性質からいうと

僕も書いてるから分かりますが

 

書いてる方からしたら非常に個人的な気分になってしまうし

 

逆に一読者になった場合は、ブログでもニューっサイトの記事でも

かわらず公にされたもののように感じてしまいます。

 

 

書いている本人にとっては個人的だし

読んでいる方からしたら公なものに感じる

 

ここでまた温度差が出てきます。

 

 

それでこの二つが合体すると

書いている方からしたら「個人的に感じた、止まってしまっただけの私の子の写真」になるし

読んでる方からしたら「公の場で発表された、死んでしまった犬の写真」となるわけです。

 

 

このとおり、大きな溝ができます。

これがまあ軽く炎上した内容の正体ではないかと思います。

 

 

そしてね、こっからは・・・・とっても私見です

 

ペットでも死んじゃった人でも一緒なんですけど

死に顔って、眠った顔と一緒だと思うんです。

 

女の人だったら自分の寝てる顔撮られて、公開されたらイヤでしょ?

 

死んでしまったものは、全て敬意をもって扱われるべきだと

この仕事してると思うんです。だからね、私見でいいますと

撮らないほうがいいですし、もしもどうしても撮りたくて写真に収めたとしても

公開するもんじゃないです。

 

それ見て、イヤだな、怖いなって思う人もいるもんですし

こういうのは法律に書いてなく立って、そういうもんですって思っているのが

平和なんじゃないかなぁと思います。

 

特に人気商売でやってる人は、気をつけたほうが

得なんじゃないかなぁと思うわけです。

 

 

 

 

 


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