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落合順平 作品集

現代小説の部屋。

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (116)初老の恋

2015-08-30 11:27:13 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(116)初老の恋




 「本気なの?。あなたは・・・」思わずすずが、背筋を伸ばす。
ハンドルの上に放置していた両手を、膝の上に戻す。
上半身をひねる。すずの呆れたような顏が、真正面から勇作の顔を覗き込む。


 「初老になったら恋をしようと、俺は考えていた。
 俺たちの離れ離れの生き方がはじまったときから、実はひそかに決めていた。
 相手はもちろん、おまえだ。すず。
 だが、俺の頭は出来が悪い。
 初老と言うのは、還暦が近くなってきた頃の事だろうと勝手に思い込んでいた。
 だがつい最近、途方もない事実を発見した。
 初老と言う呼び方は、40歳だということをはじめて知った。
 50歳を中老と呼ぶ。それ以降の呼び方は、特には決まっていないそうだ。
 悪いなぁ、すず。気が付いたらもう58歳だ。
 今回もまた、恋を語るのが、どうやら遅くなりすぎてしまったようだ・・・」


 
 「田山花袋が書いた、田舎教師の中に出てきますねぇ。
 たしか、中爺という言葉が。
 二の章の冒頭あたりに書かれていたと思います。
 オルガンの音がかすかに講堂とおぼしきあたりから聞こえて来る。
 学校の門前を車は通り抜けた。そこに傘屋があった。
 家中を油紙やしぶ皿や糸や道具などで散らかして、そのまんなかに五十ぐらいの
 中爺(ちゅうおやじ)がせっせと傘を張っていた。
 家のまわりには油をしいた傘のまだ乾かわかないのが幾本となく干ほしつらねてある。
 清三は車をとどめて、役場のあるところをこの中爺にたずねた。
 たしか・・そんな風に書かれていたと思います」


 「驚いたねぇ、君は・・・
 いまでもチャンと記憶しているのかい、大昔に読んだはずの本の中身を!」


 
 「夜が長くなるのは、日暮れの早い秋だけではありません。
 子育てが終わった女には、夜の時間が、とほうもない量で押し寄せてきます。
 つまらないテレビで時間を潰すより、本でも読むほうがよほど性に合っています。
 島崎藤村、田山花袋など、夜が更けるまでたくさん読みました。
 そうなのよねぇ・・・還暦前の50歳のことは、中爺と言うのよねぇ」


 「俺たちは、初老じゃなくて、中爺の恋をするわけか」


 「あら、口説いてくれるの。嬉しいなぁ。
 貴方が恋をするはずの初老から、もう18年も過ぎたというのに!」



 「茶化すな。なんだか急に恥ずかしくなってきた」



 「わたしは真面目です。ちゃんと受け止めますから、熱く語ってください。
 でもね。最初に断わっておきます。
 たぶん、あなたの気持ちを受け止めるだけ精一杯で、わたしはあなたへ
 何も返すことができません。
 あなたのことを、忘れてしまいそうなわたしが居るの。
 それでもいいというのなら、中老の告白を聞きたいと思います」



 「忘れてもいい。それは病気のせいだ。けして君が悪いわけじゃない。
 君が俺のことを忘れても、それでも俺は、いつでも君の隣に居る」


 「馬鹿なことを言わないでちょうだい。
 あなたのことを、”どなたですか”などと、言いたくないの、あたしは。
 わかるでしょ。そういう末路が待っているのよ。
 軽度認知障害という病気は」


 「君が俺の事を忘れてしまうときが、来るかもしれない。
 でも、そうならない可能性も残っている。
 明日の事は、誰にも予測できない。
 君は自分の記憶を頭の中へとどめておくために、最大限の努力をしている。
 でもさ。忘れてしまった記憶を、無理に思い出すことなんか無いさ。
 新しい経験をたくさん積み上げて、新しい記憶を溜めこんでいけばいい。
 それだけで人は、前にすすんでいけるはずだ」


 
 「あたらしい記憶まで忘れてしまったら、その時はどうするの?」


 
 「また新しい記憶を、君と2人で作り出すだけだ。
 すず。過去の出来事なんか、全部忘れてしまえ。
 大切なのはこれから先だ。俺たちが、どんな風に生きていくかだけだ。
 あたらしい思い出を、2人で山のように作っていこう」


 「泣かせないで・・・前が見えなくなってきたじゃないの」


 「前が見えないのなら、運転は俺が代わる」



 「そう言う意味で言ったんじゃないの。
 今ごろになってから私を泣かせないでよ、馬鹿。とうへんぼく・・・・」



 「分かっているさ」でも運転は代わるよと、勇作が助手席のドアを開ける。
「あいかわらず寒いから、君は外へ出なくてもいい。助手席へそのままスライドしてくれ。
俺が外を回るから。」と声をかける。
「はい」と答えたすずが、手の甲で目頭をぬぐう。
ゆっくりと身体の向きを変えたすずが、そろりと膝を立てて助手席へ移動していく。


(117)へつづく
 

『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら

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