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落合順平 作品集

現代小説の部屋。

つわものたちの夢の跡・Ⅱ (100)2人の時間を取り戻す

2015-08-07 12:26:52 | 現代小説
つわものたちの夢の跡・Ⅱ

(100)2人の時間を取り戻す



 「もしもし・・・大丈夫ですか、おじさま?」
通話の向こうから、美穂の涼しい声が響いてくる。
「あ・・・」言葉を失っていた勇作が、スマートフォンを握りしめる。


 「すまない。少し、動揺していた。
 すずに認知症の疑いが有るという事は、よく分かった。
 で、どうすればいい、これから俺は」



 「落ち着いて聞いてください、おじさま。
 アルツハイマーなどの認知症というわけではなく、まだ軽度の認知障害なの、母は。
 治療次第で進行を遅らせることも、症状を軽減することもできます。
 病気そのものは、治すことが出来ませんが」



 (病気そのものは、治すことが出来ない・・・)美穂が語ったひとことが、
勇作の頭の中で、絶望的に響く。



 「認知症と間違いやすい、別の病気もあるの。
 母の場合。まだ、軽度の認知障害と診断されたわけではありません。
 でも、早い段階で専門医に診てもらったほうが良いと、私は考えています。
 それからもうひとつ。
 治療とならんで重要な役割を果たすのが、家族や親しい人たちによるケアです。
 認知症と言う病気をしっかり理解したうえで、本人にとって負担にならないよう、
 上手に対応していく必要もあります」


 「うつ病などと同じように、家族の支えが病気に打ち勝つ力になるのか。
 動揺している場合じゃないな、この俺が・・・」


 「おじさま。旅の予定は、あとどのくらい残っているのですか?」



 「徳島港へ渡るフェリーの中だ。
 徳島に一泊した後。脇屋義助が亡くなった地、愛媛の伊予を目指す。
 そこが今回の旅の、最終目的地になるはずだ」


 「ということは、こちらへ戻るまであと4日から5日はかかりますね。
 おじさま。その間に、母を説得してください。
 病院へ行くようにと」


 「ええ・・・俺が説得するのか、すずを!」



 「おじさましか居ないじゃないの。こんなことをお願いできる人は。
 母のこと、愛しているんでしょ。
 だったらお願い。
 母を説得してください。症状が大きく進行してしまうその前に」


 思いがけない展開に、勇作の動揺は止まらない。
早期退職を決意した最大の理由のひとつに、すずへの想いが有る。
2人は自然に結婚するだろうと、当の2人も、周囲の人たちも考えていた。
それが壊れはじめたのは、2人が15歳になった春のことだ。
勇作が日野の自動車学校への入学を決め、故郷を離れる決心をした瞬間からだ。



 トラックのエンジン一筋という生き方をはじめた勇作と、
和裁の勉強をはじめたすずの、すれ違いが、18歳の時から決定的になった。
以来。2人の交流は途切れなかったが、一度として結婚しようという話は出なかった。
すずが25歳で、一人娘の美穂を産んだとき。
2人の生き方のすれ違いが、決定的なものになった。


(俺は遠くから、すずの生き方を静かに、見守ることしかできないのか・・・)



 福井へ戻り、すずと一緒に暮らそう。
勇作がそう決めたのは、移動の話が出てきた55歳の春の時だった。
エンジン畑ひとすじで歩んできた男が、地方の営業所へ新人指導のために赴任する。
会社からの通告は、扱いの上からすると、地方へ飛ばされる降格人事に近い。


 新人の指導と言えば聞こえは良いが、事実上の現場からのお払い箱だ。
42年間。会社に誠心誠意尽くしてきた結果がこれか・・・
勇作の心の中に、冷たい風が吹く。
利用価値が落ちれば、平気で第一線から人材を切り離していく。
日本企業の本質は、この程度のものだ。
引き際が近づいてきたことを察知した瞬間、勇作が早期の退職を決意した。


 だが決意はしたものの実際には、それから3年あまりの月日が流れた。
「すずが待っている。失った時間をすずと2人で取り戻そう」勇作が会社を辞めたのは
58歳の春のことだった。


(101)へつづく

 

『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら