つわものたちの夢の跡・Ⅱ
(105)立ち話をする女
「すずが自分の病気に、もう、気が付いているって?」
本当かと勇作が、回廊の真ん中で立ち止まる。
「立ち止まらんで歩きましょ。世間話でもしている振りをしてくださいな」
周りが変な顔で見るでっしゃろと、恵子が勇作の背中を押す。
「ウチ、見たんどす。
眠る前にすずはんが、お布団の中で、真剣にノートにメモを書いている様子を。
それもひと晩だけやおへん。毎晩の事なんどす。
女が眠る前にメモを取る。
それがどういう意味を持つのか、あなたはお分かりになりますか?」
「忘れたくないことが有るから、メモを取る。それだけのことだろう。
日記を書いていると思えば、それまでだ。
それがどうした。そんなことに重大な秘密が隠されているのか、もしかして?」
「鈍いお方やなぁ。相変わらず。
そんなことやからすずさんが、いらぬ苦労をしてはるんどす。
ウチ等には記憶障害の兆候を見せる癖に、あんたはんにはそうした素振りさえ
感じさせない。不思議やとは、おもいまへんか?」
「病気を隠すために、精一杯の演技をしているという事か!」
「正解どす。恋する女は、健気どすなぁ。
あんたはんのことが、よっぽどお好きなんでしゃろ。
病気をひた隠しにして、自分のいい面だけをあなたに見せる。
ウチも誰かを好きなったら、せいいっぱい、そんな風に努力をすると思います。
あんたさんに言われた言葉のすべて。今日有ったあんたさんとの出来事のあれこれ。
あなたに関するすべてのことを、せっせとノートに書きこんどるんどす。
うっかり、大切なことを忘れてしまわんために」
「気が付いているというのか、すでに自分の記憶障害の兆候に・・・」
「そうどす。充分、自覚していると思います。
惚れたおなごに、そこまでの苦労させてええんどすか、勇作はん。
無理はせんでええ。そうひとこといえば心の底から解放されますなぁ、すずさんは。
痴呆という病(やまい)は、長い病気どす。
腰をすえて、根気強く向かい合っていく必要があります。
すずさんの、肩の荷を降ろしてあげなければいけませんなぁ、早いうちに」
(俺のために、無理を重ねているというのか、すずは・・・)
楽しそうに歩くすずの背中へ、勇作が視線を送る。
「そうどす。あんたはんに間違っても、記憶障害の自分を見せたくないんどす。
意地っ張りどすなぁ、福井で生まれた、腕のええ和裁の先生は・・・)
恵子が、ふっとため息をつく。
「勇作はん。正直に申します。
あんたはんのことは、はじめてお会いした時から、ええ男やと思うとった。
東男と京女の出会いかと、一時は錯覚したほどどす。
蒼い伯爵夫人が壊れてくれたおかげで、ええ出会いになったと感謝しましたなぁ。
久しぶりに胸がときめきようなことになるのかしら、と胸がときめきました。
けど思いがけなく、福井からライバルの登場どす。
器量ならお互いに五分と五分。性根もほぼ五分。
歳が若い分だけ、ウチの方が有利やと油断をしていたら、思いがけず、
記憶障害の症状が発覚しました。
いくら好きでも、その日交わした会話のすべてを、記録することなどできません。
あの方は平然とそれを、当たり前のようにやってのけています。
よっぽど好きなんでしょうなぁ、あなたのことが。
それを見た瞬間、どうあがいてもこの女には勝てないと痛感いたしました。
福井女の執念には、すさまじいものが有ります。
あんたには勿体ないほどのええおなごどす、すずさんという女性は」
なにはともあれ、と、恵子が立ち止まる。
「思いがけず、本音を吐露してしまいましたなぁ。
けど、忘れて下さいとは申しません。
こんな女がいたと、記憶の片隅にでも置いていただけたら、ウチも幸運どす」
けれどそれとは別に、もうひとつのお願い事が有ります、と恵子が笑う。
「また、キャンピングカーに乗って、気ままな旅を楽しみたいと思います。
年末年始なら5日間前後。お盆のお休みなら、3日か4日程度。
また4人で、仲良く旅がしたいどすなぁ。
今回のように」
無理難題とは思いますが、優しいあなたならきっと聞いていただけますょねぇ、
と恵子の赤い唇がニコリと笑う。
(106)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら
(105)立ち話をする女
「すずが自分の病気に、もう、気が付いているって?」
本当かと勇作が、回廊の真ん中で立ち止まる。
「立ち止まらんで歩きましょ。世間話でもしている振りをしてくださいな」
周りが変な顔で見るでっしゃろと、恵子が勇作の背中を押す。
「ウチ、見たんどす。
眠る前にすずはんが、お布団の中で、真剣にノートにメモを書いている様子を。
それもひと晩だけやおへん。毎晩の事なんどす。
女が眠る前にメモを取る。
それがどういう意味を持つのか、あなたはお分かりになりますか?」
「忘れたくないことが有るから、メモを取る。それだけのことだろう。
日記を書いていると思えば、それまでだ。
それがどうした。そんなことに重大な秘密が隠されているのか、もしかして?」
「鈍いお方やなぁ。相変わらず。
そんなことやからすずさんが、いらぬ苦労をしてはるんどす。
ウチ等には記憶障害の兆候を見せる癖に、あんたはんにはそうした素振りさえ
感じさせない。不思議やとは、おもいまへんか?」
「病気を隠すために、精一杯の演技をしているという事か!」
「正解どす。恋する女は、健気どすなぁ。
あんたはんのことが、よっぽどお好きなんでしゃろ。
病気をひた隠しにして、自分のいい面だけをあなたに見せる。
ウチも誰かを好きなったら、せいいっぱい、そんな風に努力をすると思います。
あんたさんに言われた言葉のすべて。今日有ったあんたさんとの出来事のあれこれ。
あなたに関するすべてのことを、せっせとノートに書きこんどるんどす。
うっかり、大切なことを忘れてしまわんために」
「気が付いているというのか、すでに自分の記憶障害の兆候に・・・」
「そうどす。充分、自覚していると思います。
惚れたおなごに、そこまでの苦労させてええんどすか、勇作はん。
無理はせんでええ。そうひとこといえば心の底から解放されますなぁ、すずさんは。
痴呆という病(やまい)は、長い病気どす。
腰をすえて、根気強く向かい合っていく必要があります。
すずさんの、肩の荷を降ろしてあげなければいけませんなぁ、早いうちに」
(俺のために、無理を重ねているというのか、すずは・・・)
楽しそうに歩くすずの背中へ、勇作が視線を送る。
「そうどす。あんたはんに間違っても、記憶障害の自分を見せたくないんどす。
意地っ張りどすなぁ、福井で生まれた、腕のええ和裁の先生は・・・)
恵子が、ふっとため息をつく。
「勇作はん。正直に申します。
あんたはんのことは、はじめてお会いした時から、ええ男やと思うとった。
東男と京女の出会いかと、一時は錯覚したほどどす。
蒼い伯爵夫人が壊れてくれたおかげで、ええ出会いになったと感謝しましたなぁ。
久しぶりに胸がときめきようなことになるのかしら、と胸がときめきました。
けど思いがけなく、福井からライバルの登場どす。
器量ならお互いに五分と五分。性根もほぼ五分。
歳が若い分だけ、ウチの方が有利やと油断をしていたら、思いがけず、
記憶障害の症状が発覚しました。
いくら好きでも、その日交わした会話のすべてを、記録することなどできません。
あの方は平然とそれを、当たり前のようにやってのけています。
よっぽど好きなんでしょうなぁ、あなたのことが。
それを見た瞬間、どうあがいてもこの女には勝てないと痛感いたしました。
福井女の執念には、すさまじいものが有ります。
あんたには勿体ないほどのええおなごどす、すずさんという女性は」
なにはともあれ、と、恵子が立ち止まる。
「思いがけず、本音を吐露してしまいましたなぁ。
けど、忘れて下さいとは申しません。
こんな女がいたと、記憶の片隅にでも置いていただけたら、ウチも幸運どす」
けれどそれとは別に、もうひとつのお願い事が有ります、と恵子が笑う。
「また、キャンピングカーに乗って、気ままな旅を楽しみたいと思います。
年末年始なら5日間前後。お盆のお休みなら、3日か4日程度。
また4人で、仲良く旅がしたいどすなぁ。
今回のように」
無理難題とは思いますが、優しいあなたならきっと聞いていただけますょねぇ、
と恵子の赤い唇がニコリと笑う。
(106)へつづく
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