つわものたちの夢の跡・Ⅱ
(107)国道11号
ひとけた台の国道を持たない四国にとって、最も番号の若い国道が11号線だ。
路線は徳島市のかちどき橋を起点に、高松市を経由して、松山市まで走る。
240キロ余りの沿線に、208万人の人々が暮らしている。
四国に住む人口の51%が、この国道の沿線に集中していることになる。
渦の道の駐車場で多恵と恵子と別れた勇作のキャンピングカーが、寂しそうなすずを
隣に乗せて、11号線をめざし西に向かって走り始める。
新田義貞の実弟の脇屋義助が、国道の終点にあたる伊予(愛媛県)で亡くなっている。
戦いによる死亡ではなく、赴任先での急死だ。
兄の義貞とは5歳年下になるが、同じ年齢に達した38歳で亡くなっている。
義貞が北陸で戦死を遂げたのち、弟の脇屋義助が新田の軍勢をひきついだ。
その後。南朝方の大将のひとりとして、近畿の各地を転戦している。
後醍醐天皇が死去した後。南朝を継いだ後村上天皇により、西国方面の総大将に任命される。
伊予にわたり足利勢との戦いを繰り広げるが、1342年。
伊予国府で突如として重い病を発病し、そのまま帰らぬ人になる。
義助は、兄とともに太平記の中にたびたび登場してくる。
だが兄義貞の戦死以来、なぜか義助に関する記述と記録が少なくなっていく。
記述が少ないのは、中央での活躍の場を持たなかったためだろう。
ひたすら各地を転戦していった外様(とざま)武将ゆえの、悲運のせいだと思われる。
勇作の旅は、偶然、新田義貞の活躍を題材にした地方演劇のポスターと、
遭遇したことからはじまった。
地元の英雄、新田義貞の名前はかねてから知っていた。
英雄が生まれた新田町で暮らして30年余り。
出陣の場になった決起の場、生品神社を一度も訪ねたことはなかった。
旅の初めに、挙兵の生品神社もいいだろうと立ち寄った先に、最初の旅の道連れが居た。
それが第一部で登場した破天荒な女の子、朋花だ。
朋花との旅は、2週間あまりで終わりをつげた。
鎌倉を経て京都までたどり着いたとき。思いがけなく朋花の妊娠という事実が発覚した。
すずと2人で群馬まで朋花を送り届けたのは、7カ月ほどの前の出来事だ。
そういえばそろそろ、朋花の出産予定日が近づいている。
その後。狭い車で旅をするのは嫌だと言いはったすずのため、勇作が
大きい車へ乗り換えることを決意する。
部下だった椎名に、あたらしいキャンピングカーの準備を指示したのが3ヶ月前。
キャンピングカーが完成したのが、12月の半ば過ぎ。
車を引き取るために京都までやって来たはずが、いつの間にか旅の続きがはじまった。
すずばかりか、あらたに2人の女まで巻き込んで、義貞の足跡を追う旅が再開した。
その旅もまた、渦潮の路で別れがやって来た。
ようやく、すずと勇作の2人だけの旅の形が戻ってきた。
だがその旅もまた、あと150キロ余りを残して、すべてを終わろうとしている。
国道11号を走り始めて、1時間余り。
助手席のすずが、寝息を立てて眠りに落ちた。
緊張感が切れたのだろうか。おだやかな寝顔を見せたまま、道路の揺れに身を任せている。
勇作もまた、どこかでほっと感じている自分が居ることに、走り始めた瞬間から
気が付いている。
(知り合いとはいえ、2人も他人を交えての5日間だった。
疲れていないと言えば、嘘になる。
助手席で眠っているすずじゃないが、俺もどこかで昼寝がしたくなってきたなぁ。
どこか適当な道の駅でも有ったら、ひと休みするか・・・
多恵さんや恵子さんにさんざん振り回されて、俺もそれなりに疲れ果てている)
国道11号の中間地点を過ぎた頃。
道の駅「ふれあいパークみの」という大きな看板が、道の前方にあらわれた。
(お、温泉の施設も有るぞ。ひと休みするには、ちょうどいいな)
(108)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら
(107)国道11号
ひとけた台の国道を持たない四国にとって、最も番号の若い国道が11号線だ。
路線は徳島市のかちどき橋を起点に、高松市を経由して、松山市まで走る。
240キロ余りの沿線に、208万人の人々が暮らしている。
四国に住む人口の51%が、この国道の沿線に集中していることになる。
渦の道の駐車場で多恵と恵子と別れた勇作のキャンピングカーが、寂しそうなすずを
隣に乗せて、11号線をめざし西に向かって走り始める。
新田義貞の実弟の脇屋義助が、国道の終点にあたる伊予(愛媛県)で亡くなっている。
戦いによる死亡ではなく、赴任先での急死だ。
兄の義貞とは5歳年下になるが、同じ年齢に達した38歳で亡くなっている。
義貞が北陸で戦死を遂げたのち、弟の脇屋義助が新田の軍勢をひきついだ。
その後。南朝方の大将のひとりとして、近畿の各地を転戦している。
後醍醐天皇が死去した後。南朝を継いだ後村上天皇により、西国方面の総大将に任命される。
伊予にわたり足利勢との戦いを繰り広げるが、1342年。
伊予国府で突如として重い病を発病し、そのまま帰らぬ人になる。
義助は、兄とともに太平記の中にたびたび登場してくる。
だが兄義貞の戦死以来、なぜか義助に関する記述と記録が少なくなっていく。
記述が少ないのは、中央での活躍の場を持たなかったためだろう。
ひたすら各地を転戦していった外様(とざま)武将ゆえの、悲運のせいだと思われる。
勇作の旅は、偶然、新田義貞の活躍を題材にした地方演劇のポスターと、
遭遇したことからはじまった。
地元の英雄、新田義貞の名前はかねてから知っていた。
英雄が生まれた新田町で暮らして30年余り。
出陣の場になった決起の場、生品神社を一度も訪ねたことはなかった。
旅の初めに、挙兵の生品神社もいいだろうと立ち寄った先に、最初の旅の道連れが居た。
それが第一部で登場した破天荒な女の子、朋花だ。
朋花との旅は、2週間あまりで終わりをつげた。
鎌倉を経て京都までたどり着いたとき。思いがけなく朋花の妊娠という事実が発覚した。
すずと2人で群馬まで朋花を送り届けたのは、7カ月ほどの前の出来事だ。
そういえばそろそろ、朋花の出産予定日が近づいている。
その後。狭い車で旅をするのは嫌だと言いはったすずのため、勇作が
大きい車へ乗り換えることを決意する。
部下だった椎名に、あたらしいキャンピングカーの準備を指示したのが3ヶ月前。
キャンピングカーが完成したのが、12月の半ば過ぎ。
車を引き取るために京都までやって来たはずが、いつの間にか旅の続きがはじまった。
すずばかりか、あらたに2人の女まで巻き込んで、義貞の足跡を追う旅が再開した。
その旅もまた、渦潮の路で別れがやって来た。
ようやく、すずと勇作の2人だけの旅の形が戻ってきた。
だがその旅もまた、あと150キロ余りを残して、すべてを終わろうとしている。
国道11号を走り始めて、1時間余り。
助手席のすずが、寝息を立てて眠りに落ちた。
緊張感が切れたのだろうか。おだやかな寝顔を見せたまま、道路の揺れに身を任せている。
勇作もまた、どこかでほっと感じている自分が居ることに、走り始めた瞬間から
気が付いている。
(知り合いとはいえ、2人も他人を交えての5日間だった。
疲れていないと言えば、嘘になる。
助手席で眠っているすずじゃないが、俺もどこかで昼寝がしたくなってきたなぁ。
どこか適当な道の駅でも有ったら、ひと休みするか・・・
多恵さんや恵子さんにさんざん振り回されて、俺もそれなりに疲れ果てている)
国道11号の中間地点を過ぎた頃。
道の駅「ふれあいパークみの」という大きな看板が、道の前方にあらわれた。
(お、温泉の施設も有るぞ。ひと休みするには、ちょうどいいな)
(108)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら