つわものたちの夢の跡・Ⅱ
(106)女たちの会話
渦の道の先端は、行き止まりの展望室になる。
陸地から450メートルの沖合。海面からの高さは45メートル。
橋げたの横幅いっぱいに展開をする、展望のための大空間が出現する。
中央には畳1枚分の眺望ガラスが、合計8枚も設置されている。
ここは3方向が、ガラス張りで保護されている。
吹きっさらしだった回廊から解放される、唯一の空間だ。
誰もがほっとしたような顏で、眼下を流れていく潮の様子を見下ろす。
左右に広がる碧い海原にも目を転じて、誰もが時間を忘れてほっとした顔を見せる。
太平洋側に面した北東の角で、すずと多恵が立ち止まった。
流れに逆らう観光船が、泡立った海面をよろよろと横切って行くのが眼下に見える。
「此処が今回の、お別れの場所になりますなぁ」と恵子が、2人の背後にそっと立つ。
北へ流れていく満ち潮は、すでに収まりかけている。
鳴門と淡路島の間にある鳴門海峡は、中心部だけがぐんと落ち込んでいる。
中央部分の水深は、100メートル。
深みが有るため潮流はこの部分を抵抗なく、早い速度で流れていく。
本流の両岸は浅瀬になっている。浅瀬に阻まれるため、ここだけ流れが緩やかになる。
流れの境目で、本流の速い流れに巻き込まれる形で渦潮が発生する。
鳴門海峡に干満の差が生じるたび、展望室の真下に渦が生まれて消えていく。
「日に4度。潮が行ったり来たりを繰りかえすとは、せわしないどすなぁ鳴門の海も。
慌てて動くから摩擦も生じるし、渦も生まれます。
もっとゆっくり生きながら、大海原のようにでんと暮らしたいもんどす。
どないに生きても、女の人生は一度きりです。
多恵のように、アブラムシを囲いながら生きていくのも、ひとつの生き方。
ウチのように子供を産んでおきながら、親と名乗れず生きるのも、また女の人生。
あんたには勇作はんという、心強い味方が居るやおへんか。
甘えればええんどす。悩みを全部、自分の内側へしまいこんだらいけんと思いますなぁ」
「それって・・・もしかしたら、私のことを言っているのですか?」
「すずさん以外に、おへんやろ。該当するおなごは。
男運の無い、寂しがり屋のお茶屋の女将。親子と名乗れない哀れな置屋の女将。
そんな女たちから比べたら、記憶障害の病気など、どうってことおへんと思います」
「ウチもそう思いますなぁ。
痴呆という病気は、高齢者の国民病のひとつどす。
初期の段階なら、薬やリハビリ次第で、どうとでもなると聞きました。
隠したらいけん。ウチも隠さず、ちゃんと同居しているアブラムシを公開しながら、
常にあたらしい男を探している、欲の深いおなごをやっていますから」
「気が付いていたんですか、お2人とも。
悟られないよう注意をしていたのですが、やはり病には勝てません。
娘には内緒で診断してもらったのですが、初期の認知症、MCIですと
はっきり宣告されてしまいました」
「やっぱり。すでに内緒で診断を受けてはったんどすか、すずはんは。
なら話は簡単どす。ややこしくなる前に自分から公表したらええ。
認知症になりましたがそれでも愛してくれますかと、男はんにすがればええことや。
どないどす。簡単な話でっしゃろ?」
「それだけの勇気が持てないから、メモを取り、頑張っているんです。
他人の事だと思って軽く言いますねぇ、恵子さんも多恵さんも」
「他人事やおへん。今日からウチらは、3人組の同期の桜や。
勇作はんなら、ついさきほど説得をしてきました。
祇園と言うのは時代遅れの、封建的な社会どす。
週休2日が当たり前という時代に、お休みは、月にせいぜい2日から3日。
貴重なお休みもお声がかかれば、返上して働かなあきまへん。
あとは、年末年始に1週間。
4月の都をどりが終ったあとに、3日から4日のご褒美の休暇。
お盆の頃に、4日前後の特別休暇。
花街のお休みというのは、せいぜいこんなもんどす。
少ないお休みを利用して、今年から、3人でまた気ままな旅に出かけましょう。
もう決めてまいりましたえ。運転手の勇作はんには、もうOKなどをもらいました」
「そんなぁ・・・わたしの病気が、この先でどうなるかもわからないというのに!」
「それなら心は配おへん。ウチがすずさんを支えます。
流れに逆らったらあかん。けど、なにもせんで流されるのはもっといかん。
流れに上手に逆らいながら、楽しく生きるのも女の特権どす。
男が3人集まれば、仲が良いのは最初のうちだけ。
そのうち喧嘩が始まるか、意見が合わずに、仲たがいするのが関の山どす。
闘争本能むき出しで、獲物を狩るのに夢中になる男たちに、共存などはありません。
その点。女は群れることで、連帯を産みだしますなぁ。
たった10%程度の脳の障害に、負けたらあかん。
残っている90%以上の脳は、健康そのものどすから。
それを証明するために、夏になったらまた、あたらしい旅へ出かけましょう。
同期の桜3人で、楽しい旅をいたしましょう」
(107)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら
(106)女たちの会話
渦の道の先端は、行き止まりの展望室になる。
陸地から450メートルの沖合。海面からの高さは45メートル。
橋げたの横幅いっぱいに展開をする、展望のための大空間が出現する。
中央には畳1枚分の眺望ガラスが、合計8枚も設置されている。
ここは3方向が、ガラス張りで保護されている。
吹きっさらしだった回廊から解放される、唯一の空間だ。
誰もがほっとしたような顏で、眼下を流れていく潮の様子を見下ろす。
左右に広がる碧い海原にも目を転じて、誰もが時間を忘れてほっとした顔を見せる。
太平洋側に面した北東の角で、すずと多恵が立ち止まった。
流れに逆らう観光船が、泡立った海面をよろよろと横切って行くのが眼下に見える。
「此処が今回の、お別れの場所になりますなぁ」と恵子が、2人の背後にそっと立つ。
北へ流れていく満ち潮は、すでに収まりかけている。
鳴門と淡路島の間にある鳴門海峡は、中心部だけがぐんと落ち込んでいる。
中央部分の水深は、100メートル。
深みが有るため潮流はこの部分を抵抗なく、早い速度で流れていく。
本流の両岸は浅瀬になっている。浅瀬に阻まれるため、ここだけ流れが緩やかになる。
流れの境目で、本流の速い流れに巻き込まれる形で渦潮が発生する。
鳴門海峡に干満の差が生じるたび、展望室の真下に渦が生まれて消えていく。
「日に4度。潮が行ったり来たりを繰りかえすとは、せわしないどすなぁ鳴門の海も。
慌てて動くから摩擦も生じるし、渦も生まれます。
もっとゆっくり生きながら、大海原のようにでんと暮らしたいもんどす。
どないに生きても、女の人生は一度きりです。
多恵のように、アブラムシを囲いながら生きていくのも、ひとつの生き方。
ウチのように子供を産んでおきながら、親と名乗れず生きるのも、また女の人生。
あんたには勇作はんという、心強い味方が居るやおへんか。
甘えればええんどす。悩みを全部、自分の内側へしまいこんだらいけんと思いますなぁ」
「それって・・・もしかしたら、私のことを言っているのですか?」
「すずさん以外に、おへんやろ。該当するおなごは。
男運の無い、寂しがり屋のお茶屋の女将。親子と名乗れない哀れな置屋の女将。
そんな女たちから比べたら、記憶障害の病気など、どうってことおへんと思います」
「ウチもそう思いますなぁ。
痴呆という病気は、高齢者の国民病のひとつどす。
初期の段階なら、薬やリハビリ次第で、どうとでもなると聞きました。
隠したらいけん。ウチも隠さず、ちゃんと同居しているアブラムシを公開しながら、
常にあたらしい男を探している、欲の深いおなごをやっていますから」
「気が付いていたんですか、お2人とも。
悟られないよう注意をしていたのですが、やはり病には勝てません。
娘には内緒で診断してもらったのですが、初期の認知症、MCIですと
はっきり宣告されてしまいました」
「やっぱり。すでに内緒で診断を受けてはったんどすか、すずはんは。
なら話は簡単どす。ややこしくなる前に自分から公表したらええ。
認知症になりましたがそれでも愛してくれますかと、男はんにすがればええことや。
どないどす。簡単な話でっしゃろ?」
「それだけの勇気が持てないから、メモを取り、頑張っているんです。
他人の事だと思って軽く言いますねぇ、恵子さんも多恵さんも」
「他人事やおへん。今日からウチらは、3人組の同期の桜や。
勇作はんなら、ついさきほど説得をしてきました。
祇園と言うのは時代遅れの、封建的な社会どす。
週休2日が当たり前という時代に、お休みは、月にせいぜい2日から3日。
貴重なお休みもお声がかかれば、返上して働かなあきまへん。
あとは、年末年始に1週間。
4月の都をどりが終ったあとに、3日から4日のご褒美の休暇。
お盆の頃に、4日前後の特別休暇。
花街のお休みというのは、せいぜいこんなもんどす。
少ないお休みを利用して、今年から、3人でまた気ままな旅に出かけましょう。
もう決めてまいりましたえ。運転手の勇作はんには、もうOKなどをもらいました」
「そんなぁ・・・わたしの病気が、この先でどうなるかもわからないというのに!」
「それなら心は配おへん。ウチがすずさんを支えます。
流れに逆らったらあかん。けど、なにもせんで流されるのはもっといかん。
流れに上手に逆らいながら、楽しく生きるのも女の特権どす。
男が3人集まれば、仲が良いのは最初のうちだけ。
そのうち喧嘩が始まるか、意見が合わずに、仲たがいするのが関の山どす。
闘争本能むき出しで、獲物を狩るのに夢中になる男たちに、共存などはありません。
その点。女は群れることで、連帯を産みだしますなぁ。
たった10%程度の脳の障害に、負けたらあかん。
残っている90%以上の脳は、健康そのものどすから。
それを証明するために、夏になったらまた、あたらしい旅へ出かけましょう。
同期の桜3人で、楽しい旅をいたしましょう」
(107)へつづく
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