さんでんじです。

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母が亡くなって、一年が過ぎた。

2010-05-23 00:43:00 | Weblog


今日の5月22日は、母の一周忌。まだ鮮明に記憶が残っている。その日は、夕方に母を見舞ってから帰り道に、私と妻、父と3人で食事をした。私たちが家に帰ったすぐに病院から、容態がおかしいと、電話があった。また父のマンションで父を拾って、午後9時過ぎ、病院に着いた時は、母はすでに亡くなっていた。臨終には間に合わなかった。死亡診断書には、死因は誤嚥性肺炎と書かれていた。母の入院のきっかけは誤嚥性の肺炎だったが、入院後の検査結果で心不全も見つかっている。

その一週間くらい前から、母に呼びかけても反応はなく、目も開けない状態だった。それで、病院側は母の肺炎に対して強い抗生剤を投与した。結局は好転しなかった。後日、友人の医師に状況をメールで説明した。すると死因は心不全だったという。心不全になると肺から浸出液が溢れてくるので炎症が起こる。液は血液が混じっているのでピンク色。肺炎ならば、真っ赤な鮮血になる。確かに母は鼻からのチューブの袋はピンク色だった。そして、心不全状態の時に、点滴で何かを血管内に入れると心不全は悪化し、死期を早めることになる、と。その友人は、一週間前の時点から、死は避けられない状態だったという。

たとえ、治療が適切でも、数カ月、いや数週間だったかもしれない。ま、いまさら、病院をなんだかんだ言うつもりはない。でも、母がその病院に入院し、母を見舞って周囲を見渡したときはっきりと感じた。母は、この病院を生きては出られないと。奈良へ帰ってからの2年間で、5つの病院を父や母で見舞った。だから、病室の患者の様子、廊下を行き交う看護師や介護士や掃除をするスタッフ、ナースステーションの雰囲気で、病院の、いわば向かう方向性がわかる。

だから、母が入院した病院は、私の直感通り、死を待つ病院だった。母が入ったのは4人部屋だったが、1カ月ちょっとで同室の患者が2人いなくなった。そして、下の駐車場で、たびたびしんみり見送る場面を見かけた。入院して10日くらいたって、その直感は確信に変わった。病院というのは、医師、看護師、介護士、その他様々なスタッフがいます。そのスタッフの対応の仕方で、病院の表情がガラリと変わるものだなあと。そりゃ、どこの病院も忙しいのは当たり前。我が儘な患者も、いうことを聞かない患者もいっぱいいます。でも、生きる力を与え続けるような、そんな対応があったら、母も、その他の患者さんも、もうちょっと頑張れたんじゃないかな。母は88歳で亡くなりました。きっと、母も生涯は満足だったかも。わずか1年前に奈良に嫁と一緒に帰ってきた私を、笑顔で喜んでくれたと思う。きっと。おっと、殿も陸もいたね。母は動物が、犬や猫が好きな、大阪商人の娘だったから。書いている間に、23日になっちゃった。

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