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父親の死を前にして。

2018-11-04 | 文学
 11月4日 日曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


大脳が恐怖の源であるなら、その意識を変えられたら恐怖も半減する。

その恐怖から逃げるのも一つの手段ではあるが、一歩踏み出す先に楽園が待つ。

確かに恐怖は生命にとって必然で必要、なくてはならないものの一つでもあるが、

そればかりに囚われていては世紀末的な黙示録となる。

どの道を選択しようが結局、死に繋がるとしても「さっさとあの世に逝きなさい」という

先人たちの知恵は一部の人にしか理解されていないのが現状である。

何かが実現するということ、しかも単に我々の観念の中だけではなく

現実に存在するということがどうゆうことなのか全く分からないと主張するような人間が、

自分は実在論者であると言っても、真に受け取ることが出来るのだろうか。

観念がなければ物事もない。自然の中で生起するもので無駄なものはない。

そして自然の唯一の応用者である人間の意識に入り込まれたようなものはない。

これは死の観念の知的な法則に関する完璧な合理的な目的性であり、

それゆえ論理的必然として、感覚全体へと拡大された恐怖において古い可視性要請を再生する者である。

無限性、目に見えるもの、死、感情、そして二次的な質についても、

それらが現実には現実に目に見える姿とは別のものだというような人々に対して恐怖を引き起こさせる。

私達は他の哲学者たちよりもずっと実在に賛同している。

哲学者が幾千もの懐疑を抱き、確実に知っていることと言えば、

我々が騙されているのではないかということだけである。死も同様にその逆を主張する。

死の恐怖を維持するためには、その脆弱さに相応しい機関よりも長く維持する為に、

多くのことを成し遂げてきただろうし、これからもあらゆることをしなければならないだろう。

しかし実際はむしろ正反対のことであった。

死は人間に対して世界を、目に見えず手の届かないものという優位性の中で人間から遠ざけられているものとしてでなく、

公式や法則命題に取り込める人間性の理論が創り出したものとして維持しようとしてきたのである。

知覚されない物事による矛盾である。

物体は取り戻された視覚に対して、距離によって大きさを変化させ、

視点によって間接的にしか生み出されない同一性で、見慣れた姿である。

人間が間違いを犯すのは、

自分を一番頭が良いと信用して他人をバカにしているところから、

すなわち遺伝子性においてではなく、大脳の知覚からなされる推論においてである。

死の恐怖を取り除きさえすれば、

認識の木は明晰で歪みのない姿を現し、その実は甘美で我々の手の届くところにある。

死の観念に向けられた視線は、

神の思考を考える為に自然のまったくの他者を通る回路を必要とはしないということに気づく。

世界がその根源性そのままに直接に把握されうるのなら、

なぜ世界は他の抗体に託して知覚されなければならないのか。

その為すべては古い自然概念における実態の喪失という結果に終わる。

人生経験の基礎概念にとっての絶対的な基礎として、

空間は無限の主体と有限の主体の間に横たわる振り子のようなものだとしても

人間が空間概念と幾何学を持つことができるのは人間が直観的な存在だからではなく、

意志的な存在であり、大脳によって視覚的な刺激を受ける運動を行う存在だからである。

空間は自己保存の次元なのであって、死のない者の居場所ではない。

大脳は簡単に手を伸ばせるものとして感情の前にあり、感情に読みとられることだけを予期している。

自然観察において重要なのは本当に死の恐怖の正確さという尺度なのかどうかである。

自然は創造主の善意と叡智によって人間に与えられたものである以上、

確かに私達人間はこの規則に従って、神の栄誉を称えるだけではなく、

生活を維持し、美しく飾るためにも自然を敬愛にしている。

同時に私達は個々の自然現象を創り出した形式性においてしか表現できない、

普遍的な規則に還元するよりももっと高貴な目標を持つべきであろう。

死の恐怖の克服はこのような征服のための努力に付随する軽視すべき副産物では決してないのである。





   つづく。







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