この数日、「中森明菜」のCDを聴いているけど、やっぱりいいわぁ~^^
明菜ってkekeが生まれてからはあまり聴いてなかったんだ。
明菜に限らず、ユーミンも今井美樹も聖子も何となく離れてきちゃったんだっけ。
90年代前半はヒット曲を知らなくて、当時はカクレンジャーとかポケモンの歌を覚えてたりしてたんだなぁ。
やっと聴き始めたのは、90年半ば過ぎて、globeとか相川七瀬からだと思うけど。
それはさておき、こうして明菜を聴いていると、「私のデフォルトはここにあるのではないか」と言う気がしてしまう。
うまく説明できないけれど、「もうこうなったらアクセルうんと踏んで飛ばしたい」とか「体ごと叩きつけてしまいたい」と言う突然かられる気持を明菜の歌は中和してくれる。
そう言えば20代の頃の私は記録が無い。
10代のように日記も書いていなかったし、ブログなんてものは無かったし、写真すら撮ったことがなかった。
そういうものは、全部全部、子供が生まれてからだったのである。
だって、過ぎて行くもの(人にも時間にも)もう全てに関心がなくて、ただその時だけを追いかけていたから。
ちなみにメガネをかけるのもイヤで、コンタクトが怖くてできないから、0.1も視力が無いまま歩いてた。
友達のtakeちゃんから「sakeさんは普通の人が普通に見えてるものが見えないんだなァ」と半ばイヤミ半分で言われたりもしたけれど、何とも思っていなかった。
見たい以外のものなんて見えなくてもいいと思っていたから。
日々を止める、と言うことをしなかった私は、あふれてくるいろんな出来事に、怒ったり泣いてみたり、まぁいろんな事をして、ちぎってちぎって消化していたんだけれども、その1つに「明菜の歌」とか「中島みゆきの歌」と言う存在があったのだろう。
怨念に近いようなものさえ、自分の力でいてくれたのだと今になって分かった。
子供が生まれてから、私はカメラやビデオと言うものを手にするようになり、手帳に日記みたいなものまでつけていたりしたけれど、あれは精一杯がんばっていたのだろうと思う。
ともあれ、きれいなキャンバスで何もかもやり直してみたかったのだと思う。
それが次々バブルと共に倒れて行くのを見て、悲しい思いもしたけれど、一言で言えば「頑張り」すぎていたんだと思う。
いろんなことに対して、几帳面に頑張りすぎていたんだと思う。
kekeが成人して、(まだ子育ては終わったとは言い切れないところもあるけれど)こうして聴いてみると、やたら懐かしい。
実は離婚した直後にも、久しぶりに明菜のシングルを借りたのだけど、その時は「懐かしい」とは思えなかった。
これから子供を背負って生きて行く自分には、まだそこまで戻れなかったのだと思う。
小さな自分の世界を大切にしていくには、いろんなものをそぎ落とさなければならなくて、その世界を明菜はチョイスしているような気がする。
どうしても譲れないものはガンとして譲らないような所があるから。
でも、そう言う所が私は好きで、そう言う風でいたい。
明菜ってkekeが生まれてからはあまり聴いてなかったんだ。
明菜に限らず、ユーミンも今井美樹も聖子も何となく離れてきちゃったんだっけ。
90年代前半はヒット曲を知らなくて、当時はカクレンジャーとかポケモンの歌を覚えてたりしてたんだなぁ。
やっと聴き始めたのは、90年半ば過ぎて、globeとか相川七瀬からだと思うけど。
それはさておき、こうして明菜を聴いていると、「私のデフォルトはここにあるのではないか」と言う気がしてしまう。
うまく説明できないけれど、「もうこうなったらアクセルうんと踏んで飛ばしたい」とか「体ごと叩きつけてしまいたい」と言う突然かられる気持を明菜の歌は中和してくれる。
そう言えば20代の頃の私は記録が無い。
10代のように日記も書いていなかったし、ブログなんてものは無かったし、写真すら撮ったことがなかった。
そういうものは、全部全部、子供が生まれてからだったのである。
だって、過ぎて行くもの(人にも時間にも)もう全てに関心がなくて、ただその時だけを追いかけていたから。
ちなみにメガネをかけるのもイヤで、コンタクトが怖くてできないから、0.1も視力が無いまま歩いてた。
友達のtakeちゃんから「sakeさんは普通の人が普通に見えてるものが見えないんだなァ」と半ばイヤミ半分で言われたりもしたけれど、何とも思っていなかった。
見たい以外のものなんて見えなくてもいいと思っていたから。
日々を止める、と言うことをしなかった私は、あふれてくるいろんな出来事に、怒ったり泣いてみたり、まぁいろんな事をして、ちぎってちぎって消化していたんだけれども、その1つに「明菜の歌」とか「中島みゆきの歌」と言う存在があったのだろう。
怨念に近いようなものさえ、自分の力でいてくれたのだと今になって分かった。
子供が生まれてから、私はカメラやビデオと言うものを手にするようになり、手帳に日記みたいなものまでつけていたりしたけれど、あれは精一杯がんばっていたのだろうと思う。
ともあれ、きれいなキャンバスで何もかもやり直してみたかったのだと思う。
それが次々バブルと共に倒れて行くのを見て、悲しい思いもしたけれど、一言で言えば「頑張り」すぎていたんだと思う。
いろんなことに対して、几帳面に頑張りすぎていたんだと思う。
kekeが成人して、(まだ子育ては終わったとは言い切れないところもあるけれど)こうして聴いてみると、やたら懐かしい。
実は離婚した直後にも、久しぶりに明菜のシングルを借りたのだけど、その時は「懐かしい」とは思えなかった。
これから子供を背負って生きて行く自分には、まだそこまで戻れなかったのだと思う。
小さな自分の世界を大切にしていくには、いろんなものをそぎ落とさなければならなくて、その世界を明菜はチョイスしているような気がする。
どうしても譲れないものはガンとして譲らないような所があるから。
でも、そう言う所が私は好きで、そう言う風でいたい。